見出し画像

人は、どこまで他人の意思で動かされたのか

沈黙の地層から聴こえる古代の声 弥生社会編 第4部・第5回

今回の現在地

時代:弥生時代後期から古墳時代初頭、三世紀を中心に見ます。

場所:倭の各地、魏へ向かう海の道、奈良盆地東南部など。

今回確かめたいこと:難升米たちと同じ使節の記録に登場する生口から、奴婢や従属のあり方を考えます。最後に、人々を結ぶ関係と拘束する関係を、第4部全体の問いへ戻して考えます。

第5章 人は、どこまで他人の意思で動かされたのか

第1回で、難升米(なしめ)たちが魏へ渡ったことを考えた。卑弥呼が使者を送った、という一文の向こうに、実際に海を渡って政治を動かした人々がいた。

ところが、同じ使節の記録には、もう一つ、気になる人々が登場する。使者として海を渡った人々とは、違う立場で記録された人々である。

物と人が、同じ列に並んでいる

卑弥呼が魏へ使者を送ったとき、贈り物の中に男生口四人、女生口六人がいた。布や品物だけではない。人も送られている。

その後の使節でも生口が贈られ、壹与(いよ)の時代にも男女三十人が魏へ送られた。

難升米たちは使者として名前を残した。一方、生口と呼ばれた人々は、人数だけが記録されている。

戦争捕虜だったと考える説もある。何らかの技術を持った人だったとする見方もある。しかし、史書は彼らの出自や役割を説明していない。

確実なのは、生口(せいこう)と呼ばれた人々が、倭側から魏へ「献じられた人」として記録されていることだ。

物と人が、同じ贈り物の列に並んでいる。

この事実は、簡単には通り過ぎられない。

第1部から、私は人の移動を追ってきた。稲作を伝えた人、技術を持ってきた人、交易のために移動した人。しかし、人が動くということは、いつも自分の意思で新しい土地へ向かうことだけではなかったのだろう。

では、生口とは、どのような人々だったのだろう。

生口は、外国向けだけではなかった

ところが、生口は魏への献上だけに登場する言葉ではない。

『魏志倭人伝』には、海を渡るとき「持衰(じさい)」と呼ばれる人物を置き、航海が成功すると、その持衰に「生口財物」を与えたという記述がある。

持衰とは、航海の無事を願って一定の禁忌を守ったとされる人物である。その役割や実際のあり方には分からないことも多いが、ここで気になるのは、航海が成功したときの褒賞である。

生口と財物。

つまり、倭人どうしのあいだでも、人が人へ与えられる場面に、生口という言葉が現れる。

これは重要である。生口を「外国へ送る特殊な捕虜」だけで説明しにくくなるからだ。

さらに倭以外の東夷伝を見ると、濊(わい)では、境界を侵した罰として、牛や馬とともに生口を差し出したという記述もある。

もちろん、濊の制度をそのまま倭へ当てはめることはできない。倭でも同じ罰則があった、と言えるわけではない。

それでも、中国の記録者が「生口」という言葉を、人が人へ渡される場面で使っていたことは分かる。

では、倭社会で生口と呼ばれた人々は、どのような立場にあったのだろう。

卑弥呼の周りにいた奴婢

第1回では、卑弥呼の周囲に多くの婢(ひ)が仕えていたことに触れた。

『魏志倭人伝』は、卑弥呼のもとに多くの婢が仕えていたと記す。さらに卑弥呼が死んだときには、百余人の奴婢(ぬひ)が徇葬されたとも書いている。徇葬とは、死者に従わせる形で人を葬ることをいう。

非常に重い記述である。

史書がそのように記していることと、実際にどのような葬送が行われたのかを考古学的に確認できることは、分けなければならない。百余人という人数を含め、倭の現場で何が起きたのかを、史書の一文だけから詳しく復元することはできない。

奴婢と呼ばれた人々が、どのような仕事をし、どのような生活を送っていたのかも、史書は詳しく教えてくれない。

それでも、中国側の記録者が、倭社会の中に他者へ強く従属する人々を見ていたことは読み取れる。

第1回では、言葉を取り次ぐ男子や、政治を助けた弟のことを考えた。そして、多くの婢もいた。

王の近くにいた人々の間にも、異なる関係があったのである。

奴婢と生口を、一つにまとめない

奴婢も人に従属する。生口も人に従属するように見える。

ならば、どちらも「奴隷」と呼べば簡単である。

しかし、史書は別の言葉を使っている。

奴婢と生口がどのような関係にあり、どこまで異なる立場だったのかを、倭社会について完全に整理することはできない。中国側の言葉が、倭人自身の分類とどのように対応していたのかも分からない。

だから、違う言葉で記されたものを、最初から同じ制度へ押し込まない方がよい。

分からないものは、分けたまま置いておこう。

ただし、共通して見えることもある。

自分の意思だけでは、自分の居場所や仕える相手を決められない人々がいた。少なくとも、中国史書はそのような強い従属を思わせる関係を記録している。

ここで、「自由人」と「奴隷」という二つの箱を用意して、三世紀の人々をすべて振り分けることはできない。大人と下戸、巨大事業への参加、奴婢と生口。それぞれの関係の性格も、拘束の強さも十分には分からず、一つの身分表に並べることはできない。

巨大な墓を造った人々は、どうだったのだろう

ここで、第2章の箸墓を思い出す。

あれほど大きな仕事へ、人々はどうやって集められたのだろう。

奴婢や生口の記述を知ると、巨大古墳も奴隷労働で造られたのではないか、と考えたくなるかもしれない。

しかし、そこまで言える証拠はない。

『魏志倭人伝』に奴婢や生口が登場することと、その人々が箸墓の造営に従事したことは、別の問題である。史書の記述だけから、巨大古墳の労働力の構成を復元することはできない。

だから、「古墳は奴隷労働で造られた」と結論づけることはしない。反対に、巨大事業がすべて自由な参加者の協力によって成り立っていた、と描くこともできない。

一人ではできない大きな仕事を可能にする社会があった。そして、同じ時代の倭には、上下や従属、人を他者へ渡す関係も記録されている。

協力も、上下も、従属も、同じ時代の中にあった。

ただし、それらが実際にどのように組み合わされていたのかは、まだ十分には見えていない。

十人、三十人という数字の向こう側

魏へ送られた男四人、女六人。壹与が送った男女三十人。

史書には数字だけが残っている。

どこで生まれたのか。家族がいたのか。なぜ選ばれたのか。本人が海を渡ることをどう受け止めていたのか。

その一人ひとりについて、史書はそこまで教えてくれない。

泣きながら連れて行かれた、と書くことはできない。進んで行った、とも言えない。

ただ、史書の上では、彼らは倭側から魏へ「献じられた人」として記録された。それだけでも重い。

人間が、物と同じ列に数えられている。

少なくとも、他者によって贈与の対象とされた人々がいたことは、史書に残っている。

その人々が、その後どのような人生を送ったのかは分からない。だからこそ、勝手な物語をつくるのではなく、名前の残らなかった人々がいたという事実を、ここに置いておきたい。

今回見てきた史料や遺跡は、地域も時期も同じではない。そこから一つの身分制度や、自由が失われていく一本の発展史を描くことはできない。それでも、王や首長だけを見ていたときには見えなかった社会の姿が、少しずつ現れてきた。

人々を結びつける関係と、人を強く拘束する関係は、別々の歴史ではなかったのかもしれない。

終章 人と人との距離は、どう変わったのか

第4部の最初に、私はこう問うた。

水田、ムラ、クニ、広域政治を通じて人々がつながっていった社会は、そこに暮らす一人ひとりにとって、どのような社会だったのだろう。

第1部から第3部まで、私たちは社会が広くつながっていく姿を見てきた。今回は、その社会の中へ降りてみた。

すると、王の名前の向こうに、異なる仕事や立場、年齢、身体を持つ人々がいた。王の下に一枚岩の「民」がいた、という景色ではなくなってくる。

一人ではできないことが、増えていった

弥生時代になって、人々は初めて協力するようになったわけではない。縄文社会にも、人々が協力し、知識や技術を受け継ぎながら暮らしてきた長い時間があった。

では、何が変わっていったのだろう。

水田を維持し、水を分ける。遠くの地域と物を交換する。大きな建物を造り、巨大な墓を築く。海を越えて交渉する。そうした仕事が増え、関係する人々の範囲も広がっていった。

一人ではできないことが増えた。一つの家だけではできないことが増え、一つのムラだけでは処理できないことも増えていった。

その中で、人々の役割は分かれ、異なる仕事を結びつける必要も生まれた。

巨大古墳は、そのことを考える一つの手がかりだった。墓を造る人の後ろには、食料や道具を用意し、日々の暮らしを続ける人々がいた。

ただし、これを「すべての人が同じ目的を持って協力した」と読むことはできない。誰がどの仕事を引き受け、どのような利益や負担があったのかは、まだ十分には分からない。

つながることは、同じになることではなかった

日々の暮らしへ降りれば、布作りのように長く受け継がれた技術があり、仕事の分担があった。年を重ねた人や、怪我を負ったあとにも生きた人もいた。さらに史書には、贈与の対象となった生口が記録されていた。

人々は、同じ仕事をしていたわけではない。同じ年齢や身体の状態でもなかった。同じように自分の暮らしを決められたとも限らない。

異なる地域や時期の資料を、一つの身分制度へまとめることはできない。けれど、さまざまな関係の中で人々が暮らしていたことは、以前より具体的に見えてきた。

それでも、ここまで見てきた社会を、ただ「人々が仲良く協力して発展した社会」と描くことは、もう難しくなった。

一人ではできない仕事ができるようになる。遠くの地域と結びつく。新しい技術や物が入ってくる。その一方で、人々の立場には違いがあり、仕事や居場所を自分だけでは決められない人々もいた。

人と人との距離は、近くなったのか、遠くなったのか。たぶん、どちらもなのだ。

遠くの人と結びつく関係が増えた。その一方で、倭の諸地域には、越えにくい立場の差や、他者へ強く従属する関係もあった。

つながることで可能になったことと、その関係の中で人々が引き受けたもの。その両方を見ていきたいと思う。

王の名前が消えたあと

王一人が社会をつくり、その下に人々を配置したという見方だけでは、今回見てきた景色を説明しきれない。すでにさまざまな仕事と人間関係を抱えた社会があり、その関係が広がっていく中で、王のような位置が必要になったのではないか。私は今、そのように考えている。

もちろん、王や首長の決定が、人々の暮らしに大きな影響を与えたこともあっただろう。社会の側と王の側は、一方だけが他方を動かす関係ではなかったのかもしれない。

では、そのような社会は、三世紀のあと、どのように変わっていったのだろう。

『魏志倭人伝』の記述が終わると、倭王の名前は中国史書からしばらく見えにくくなる。四世紀である。

文字だけを追えば、急に霧の中へ入ったように見える。しかし、人々の暮らしまで消えたわけではない。田は耕される。海では船が動く。物も人も移動する。各地では墓が造られ、その形も変わっていく。

では四世紀に、列島へ広がっていったものは何だったのだろう。地域ごとに異なる社会が、それぞれの力を持ちながら、どのような関係を結んでいったのだろうか。

そして、その関係は、王の名前が分からなくなったあとも、どのように続いていったのだろう。

第4部では、社会の内側へ降りた。次は、もう一度その外へ出よう。

王の名が消えた四世紀へ。

主な参照資料・注

[1]『三国志』魏書東夷伝倭人条(通称『魏志倭人伝』)。238年の朝貢に伴う男生口4人・女生口6人、243年の再遣使、壹与による男女生口30人の献上、持衰への「生口財物」、卑弥呼の周囲の婢および徇葬に関する記述を参照。あわせて同書東夷伝の濊条にある、境界侵犯に対する生口・牛馬の賠償の記述も参照した。中国側の呼称を倭人自身の正式な制度名と同一視せず、史書の記述と筆者の推論を分けて扱った。

[2]本稿では、奴婢・生口と巨大古墳造営の労働力を直接結びつけることはしていない。「人々を結びつける関係と、人を強く拘束する関係は、別々の歴史ではなかったのかもしれない」という見方は、異なる資料を踏まえた筆者の考察である。

いいなと思ったら応援しよう!