人生邂逅 ・まなび編 ◆仏教読書会から -64
サンスクリット版縮訳 法華経 植木雅俊(訳・解説)
第二十四章 観世音菩薩普門品(かんぜのんぼさつふもんぼん)より
いわゆる観音様のお話です。
以下、本文より
”自在に観るもの”(観世音)は、衆生が多くの苦しみに悩まされ、苛まれているのを見て省察する勝れた知の力を持っている。それ故に救済者なのである。
(中略)
地獄や、畜生界、ヤマの支配下にあって、不遇な悪しき境遇に恐怖をいだき生・老・病の苦しみに苛まれている衆生の恐怖や苦しみは順次に消滅するのだ。
観音様は、私たちになじみが深く、身近に感じる存在ですが、
なぜ、そうなったのかが分かります。
観世音菩薩とは?
観 は慈悲深く見る(聴く)こと
世 とは苦しみに満ちた世の中のこと
音 とは声であり、叫びを意味する
一言でいうと、
「人々の苦しみの声を聞き、すぐに救いの手を差し伸べる仏さま」
罰する仏ではなく、抱きとめる仏だったことから、一般庶民にまで広く信仰されてきたのです。
とにかくありがたい仏様。
観音様と心に念じるだけで、どんな難事も解決してくれるのですから、
こんなに頼もしいことはありません。
これだけだと、単なる他力本願で終わるのですが
読書会では、もう少し解釈を先に進めました。
「観世音菩薩と念ずる」 とはどういうことか?
これは、誰もが生まれながらに持っている「仏性」を呼び覚ますこと。
本来の自分に立ち返り、身にまとわりついている ”執着” を捨てること。
いわゆる、”空” になること。
では、ないかと。
つまりは、自分次第。
「捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」
なのです。
欲得を手放したときに初めて、そこに道が開ける。
と、
こうなると それほど容易なことではない(?)
「観音様、お助け下さい!」 と叫ぶと同時に、執着を捨てる覚悟をする。
そういえば、
わたしのつたない経験のなかにもそれに類したことがあったような気もします。
上長から
「今度の組織には君を処遇するポストがないので、覚悟してくれ」
と言われ、複雑な想いの末に
「じたばたしても始まらない、どんな結果でも受け止める」
と腹をくくれた時
思ってもよらないことが起きたこともありました。
そういえば、
昨日、あるテレビ番組で漫才師ナイツの塙さんが
2年前に漫才協会の会長に就任し、個性豊かな会員をどうまとめていくのか腐心していたが、まとめるのを諦めた時にまとまってきた。
という、話をされていました。
まさに、「捨ててこそ!」 です。
