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熱帯夜 / シロクマ文芸部


 朝のニュースでは、今日も「危険な暑さ」と繰り返していた。

 東京都心、最高気温三十七度。

 夜になっても気温は二十八度を下回らず、熱帯夜になる見込みです――。

 テレビを消し、玄関を開ける。

 むっとした空気が流れ込む。

 向かいの奥さんは首にタオルを巻き、高校生は制服のシャツを何度もあおいでいる。

 みんな暑そうだ。

 けれど、俺には分からない。

 暑いという感覚だけが、二年前から消えていた。

     ◇

「佐藤さん、水飲んでます?」

 昼休み、後輩がペットボトルを差し出した。

「喉、渇かないんだ。」

「喉が渇いてからじゃ遅いですよ。」

 笑って断る。

 身体は重い。

 夕方になると頭もぼんやりする。

 汗はかいているらしい。

 シャツは背中に張りついている。

 それでも暑くない。

 だから水も飲まない。

 エアコンもつけない。

     ◇

 帰宅すると、部屋は静かだった。

 二年前までは違った。

『また水飲んでないでしょ。』

『今日は熱帯夜だって。エアコンくらいつけて。』

 毎日のように聞いていた声。

 今は仏壇の写真だけが、変わらず微笑んでいる。

「今日も暑いらしいよ。」

 そう話しかけても、もちろん返事はない。

     ◇

 夏は毎年暑くなっていく。

 ニュースは毎年、「観測史上最高」を更新していた。

 それでも俺だけは、夏から置いていかれていた。

 身体は悲鳴を上げている。

 それなのに、何も感じない。

 それでいいと思っていた。

     ◇

 夜中、立ち上がろうとして膝から崩れ落ちた。

 床が近づく。

 遠くで救急車の音がした気がした。

 意識が暗闇へ沈んでいく。

     ◇

「また無茶して。」

 懐かしい声だった。

 姿は見えない。

 でも、そこにいる気がした。

「……会いたかった。」

 静かな気配が近づく。

「まだ、暑くない?」

「……うん。」

「私を忘れたから?」

 俺は首を振る。

「違う。」

 声にならなかった。

「忘れようとしたんだ。

 思い出すたびに苦しくて。

 君がいないことを認めたくなくて。」

 しばらく沈黙が続く。

 それから、小さく笑う気配がした。

「だから暑さまで、しまい込んじゃったんだね。」

 その言葉が胸の奥に落ちた。

 固く閉じていた何かが、静かにほどけていく。

     ◇

 目を開ける。

 白い天井。

 病院だった。

 喉が焼けるように渇いている。

 額を汗が伝う。

「……暑い。」

 思わず漏れた声に、看護師が安堵したように笑った。

「よかった。」

 差し出された水を、一気に飲み干す。

 冷たい水が身体中に染み渡っていく。

     ◇

 退院した夜。

 テレビでは今日も熱帯夜だと言っていた。

 エアコンのスイッチを入れる。

 冷蔵庫から水を取り出し、ゆっくりと飲む。

 仏壇に手を合わせる。

「今日は、本当に暑いよ。」

 写真の妻は、何も言わない。

 けれど、それでよかった。

 窓の外では、夏の虫が鳴いている。

 久しぶりに熱帯夜を感じた。

 コップにもう一杯、水を注ぐ。

「……ちゃんとしないとな。」

 写真の妻は、少しだけ笑ったように見えた。

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