一千万円の授業料と、女を見る目
シャネルの『チャンス』の瓶が、いまも机の上にある。 中身はとっくに空だ。なのに、捨てられずにいる。
この香水を買った日、私の通帳には「一千万円」という数字が、「負債」という文字と並んで刻まれたばかりだった。
きっかけは、たったひとつの囁きだった。 「このままのあなたでは、何者にもなれない」。
その言葉を聞いた瞬間、私は財布のひもより先に、心のひもをほどいてしまっていた。
「本気で人生を変えたいなら、まず自分に投資してください」 そう言われて、セミナーに通い、個別コンサルを受け、限定コミュニティに入り、教材を買った。
一つひとつは、そんなに高くなかった。数万円。時には数十万円。 けれど「もっと本気を見せれば、もっと上のステージに行ける」と背中を押されるたびに、桁は静かに増えていった。 気づいたときには、通帳の残高よりも先に、これから先の私の労働時間のほうが、担保に取られていた。
ローンという名の、静かな鎖。 「何者かになれる」という煌びやかな幻想に、私は一千万円という授業料を払った。
手元に残ったのは、未来を抵当に入れた「負債」という現実と、 シャネルの『チャンス』が、たった一本。
綺麗ごとは、もう言わない。
けれど、失ったのはお金だけではなかったらしい。 引き換えのように、妙な「目」を手に入れてしまった。
カフェで。電車で。SNSのタイムラインで。 女という生き物が「何者か」であろうと必死になる瞬間が、やけによく見えるようになったのだ。
手料理をSNSに上げる女がいる。 あれは、料理の話なんかじゃない。 だし巻き卵の断面よりも、「今日もちゃんとやってる私」を撮っている。 写真のフィルターの下には、たいてい小さな自己証明が隠れている。
デパコスのカウンターに並ぶ女がいる。 新色ひとつに、本音がひとつ乗っている。 「変わりたい」と「今のままでもいい」、その矛盾した二つを同じ手のひらに乗せて持ち帰る。 棚に増えていくのは、色数じゃなくて、迷いの数だ。
「わかる〜」と即答する女がいる。 本当にわかっているかどうかは、実はどうでもいい。 「私はあなたの味方です」という看板を、会話の一番はじめに立てておきたいだけだ。 共感は時々、聞くことの代わりに使われる。
「自分へのご褒美」がやめられない女がいる。 ご褒美とは本来、何かを成し遂げた人に贈るものだ。 なのに私たちは「今日も無事に生き延びた」というだけで、ご褒美という名の免罪符を発行し続ける。 本当は、誰かに「よくやったね」と言ってほしいだけなのに。
カラオケでマイクを持った瞬間、豹変する女がいる。 いつもの自分を椅子に置いたまま、別の人生を三分半だけ生きる。 歌のうまさより、「なりたい自分」がどれだけ透けて見えるかのほうが、よっぽど面白い。
すっぴんを見せられない女がいる。 一枚のメイクの下に隠しているのは、シミでもクマでもなく、 「がっかりされたくない」という、ただそれだけの気持ちだったりする。
「私は違う」と言い続ける女もいる。 似たような相手に、似たように傷つけられて、そのたびに「今度こそ違う」と言う。 本人だけが、リマスター版だと信じている、まったく同じ話を。
一つひとつは、ただの可愛い習性だ。 けれど全部並べたとき、輪郭がひとつ浮かび上がる。 「今のままの自分では、足りない」。 あの日、私が聞いたのと同じ輪郭が。
正直に言う。 私はこの目で、他人を裁いているわけじゃない。
デパコスの新色を見て、いまも心が揺れる。 「わかる〜」と、反射で言ってしまう日もある。 カラオケでマイクを持てば、今も、なりたい自分を三分半だけ生きる。
一千万円は、私を治さなかった。 ただ、その仕組みが見えるようになっただけだ。 免疫じゃない。ただの視力。
シャネルの『チャンス』は、もう香りもほとんど飛んでしまった。 それでも机の上に置いてあるのは、これが「失敗の記念碑」だからじゃない。
あの瓶を買った女も。 だし巻き卵を撮る女も。 「わかる〜」と言う女も。 カラオケで別人になる女も。 「私は違う」と言い続ける女も。
みんな同じ願いを、少しずつ違う形で叶えようとしているだけなのだと、思い出させてくれるからだ。
「何者かになりたい」。 それは、詐欺に狙われるほどの弱さでもあり、 明日も生きていくための、ささやかな燃料でもある。
一千万円の授業料は、たしかに高すぎた。 それでも、女という生き物を、私はこの目で、ようやく見られるようになった。
その意味では、案外、悪くない買い物だったのかもしれない。
