ハエ討伐戦記
その日は雲が多く、決してプール日和とは言えなかった。
しかし子どもたちの熱意に押され、準備のため庭に出る掃き出し窓を開けた。
これが、すべての始まりだった。
夫がプールの準備を終えて部屋の中に戻ってきた。
「お疲れ様、ありがとうね」と汗だくの夫にお茶を差し出した時、ふと目の前を黒い小さな影が横切った。
今までも掃き出し窓を開けているうちに小さな羽虫が入ってくることはあった。今回もその類だろう。
私は田舎出身で虫には慣れているし、夫は体長1cm以内の虫ならギリギリ対応できる。
やれやれ、いつものようにティッシュでちょちょいとやっちゃいますか、と思ったその時――
「コバエじゃないッ!!ハエだッ!!」
夫の怒号にも似た声をきっかけに、平和な夏を満喫しようとしていた我が家は、一瞬で緊迫した空気に包まれた。
ハエ。
言わずと知れた害虫である。
素早い動きと驚異的な反応速度で、人の手をいとも簡単にすり抜けるが、放置しておくとすぐ繁殖してしまう。
早く、退治してしまわねば。
私も夫も、急ぎ養生テープやティッシュを片手にハエを追いかける。
子どもがいるため殺虫剤は使いたくない。なんとかそのへんにある武器のみで退治したい。本当はできれば潰したくはないが、そうも言っていられない。
しかしさすがと言うべきか、奴はするりと我々の攻撃を避け、どこに逃げたか探すだけでも一苦労である。
保育園で自称蚊ハンターとして活躍している長男(4歳。毎日何匹の蚊をペチンとしたか教えてくれる。かわいい)も話を聞きつけ奮闘するが、蚊とは段違いのスピードに翻弄されるのみであった。
数分追いかけ回したが、奴はすっかり鳴りを潜めてしまった。
出てこないなら仕方がない。一旦諦めて子どもたち2人と夫はプールに入ることになった。
3人が遊んでいる間、私は部屋の中に残り、楽しそうな庭の様子を時々うかがいながら掃除や皿洗いをしていた。
皿を洗っている時、私は視界の端に何かを捉えた。
――いる。
緊張で心臓が高鳴るのを感じる。
気配のする方に視線を向けると、奴は挑発するかのようにシンク横に止まっていた。
実家では、ハエは日常的に家に侵入していた。
父方の祖母がある日、自分の目の前に止まったハエを躊躇なく素手で叩いた。
瞬殺だった。
虫多き田舎に嫁いで半世紀以上、戦士となった者の最早反射と言うべき技であった。
その時は一緒にいた母(少なくとも私の実家よりは都会の出身)と共に祖母の行動にドン引きしていたが、数年後、母から報告があった。
「お母さん、素手でハエを叩けるようになってもた…」
そう言う母はどこか寂しげだったが、目には戦士としての覚悟が灯っていた。
私には祖母と母、2人の戦士の血が流れている。
2人がやれてたんや!私にやれない理由はないッ!
私は意を決して素手のまま仕留めようと素早くシンク横に手を下ろした。
しかし、全くかすりもせず、奴は無情にもどこかに飛んでいってしまった。
戦士にはまだなれなかった。
プールを終えた3人が戻ってきた。
「まだおるんよ…」と伝えると、夫の表情が翳った。
なんとか今日中には仕留めたい。
しかし探し回っても姿が見えない。
私と夫に焦りが見え始めた、その時。
次男(2歳)が天井を指差して叫んだ。
「あれ!!」
天井に止まっている黒い粒。
奴だった。
しかし夫が長物武器(ラップの芯にキッチンペーパーを巻いた物)を手にしても天井には届かない。先述の通り殺虫剤も使えない。(というかそもそも家にない)
ようやく見つけたのに…!と私が歯がゆく思っている間に夫はどこかに駆け出していた。
戻ってきた夫が取り出したのは、輪ゴムだった。
そう、輪ゴムを指で飛ばして退治しようというのだ。
とは言え、夫も輪ゴムの扱いに長けているわけではない。
最初は的外れな場所に当たるばかりだった。
しかし、何回か飛ばしているうちに精度は上がっていった。
さすが、ゲーム『モンスターハンター』で長年ガンナーをやっているだけのことはある。
などと感心していると、敵のいるあたりに輪ゴムが当たり、敵が下に落ちた。ように見えた。
「やったか!!」
止まっていた付近の床を夫と2人で探すが、何もない。
じゃあ、どこへ。
索敵担当として有望視されていた次男は「あれ!!こわい!!」と何もない空間を指差して怖がっている。
わっぱは隠れていろ。
「あっちにいる!!」
長男の声に振り向くと、敵はキッチン近くの天井に移動していた。
すかさず夫が近くから輪ゴムを飛ばす。今度は3個同時だ。何だその技。
敵は嘲笑うかのように、近くに輪ゴムが当たっても飛びもしない。
夫は苛つきながらも冷静に、真剣に狙い続ける。
そして、何投目かもわからない、私も諦めかけていた頃。
「やった!!」
夫が飛ばした輪ゴムは敵に見事に着弾し、敵勢力は完全に撃退された。
こうして我が家に再び平穏が訪れた。
2026年、7月もまだ始まったばかりのことである。
夫にはその功績を讃え、輪ゴムガンナーの称号を与えた。
「悪くない」
誇らしげにそう言う夫の背中が、なぜかいつもよりたくましく見えた。
