百舌鳥古墳群の比定のやり方
百舌鳥古墳群の比定は矛盾だらけで不可能とも言われますが、私はそんなことはない、全然可能であると見ています。根本史料は記紀より時代が下りますが、延喜式になります。記紀を使って百舌鳥古墳群内の比定は難しいからです。延喜式の記述が(例外もありますが)概ね正しく、百舌鳥古墳群においても信頼できる理由は、反正天皇陵を北陵(田出井山古墳)としている所です。後世に適当に決めたなら、田出井山古墳は無視されるはずで(大きな古墳とされるはずで)、何らか伝承はあったと思われるんですね。記紀編纂時においても場所が明記されてないだけで、伝承は存在した(後世に勝手に創作した訳ではない)んだろうと思います。また記紀を読む限りにおいて、特に大きな古墳だと思われない(允恭天皇に殯の途中で葬られた)反正天皇陵が田出井山古墳というのは納得できるところでもあり、考古学的年代も特に矛盾すると思われません。
南陵が土師ニサンザイ古墳なのもまぁいいはずです。上石津ミサンザイ古墳も南陵と捉えらることは可能ですが、仁徳天皇紀の石津原の古墳であることが明らかであるように思われ、寧ろこれを外して読むのが正解なのでしょう。
仁徳天皇の中陵が大山古墳なのも自明です。石津原に築いたとする日本書紀の記述を疑うことになりますが、延喜式の記述は墓守(陵戸・守戸)の記述に基づいていると思われ、私の見る所、(恐らく墓守が置かれた)中期以降の古墳の記述はかなり正確のように思います。年代的にも大古墳築造のタイムラグと寿陵の石津原の古墳とは別と考えると、特に矛盾があるとは思えません。
結局、問題は大山古墳に先行するランキング3位の大陵の石津原の古墳(上石津ミサンザイ古墳)が何なのか?に尽きています。私が思うにこれは応神朝に大雀皇子(後の仁徳天皇)が築造開始した応神天皇陵です。というのも石津は壬生氏(乳部氏/和珥氏)の地盤と思われ(石津町に更に先行する乳岡古墳があります)、応神天皇は和珥氏系の菟道稚郎子皇子に皇位を継承しようとしていたんですね。結局、仁徳天皇が即位しましたが、和珥氏の影響力を削ぐ為(吉備の造山古墳より明らかに大きな古墳を造ることを理由にしたか)、別の古墳を改めて造り直すことにしたのでしょう。
なお、結局応神天皇が誉田御廟山古墳完成まで待つための埋墓は百舌鳥の御廟山古墳ないし古市の墓山古墳あたりではないかと見ています。
最後に百舌鳥・古市古墳群の比定が延喜式によって可能だと知れ渡れば、河内王権論は自然に滅亡すると見ています。
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