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SNSが荒れているのは、夢を持てない世の中になったからなのかもしれない

SNSが今日も荒れています。
このnoteは夏の暑い時期に書いていますが、きっと公開されるころも変わらず荒れているでしょう。

誰かが燃やされ、誰かが難癖をつけられ、誰かの発言が切り取られ、怒りのリプライが積み上がっていく。
この光景について、これまでいろいろな角度から書いてきました。
インプレッション収益の構造、燃やす側のビジネスモデル、議論が成立しない仕組みなどなど、構造の分析としては、だいたい書き尽くした気がしています。

多分また折に触れて似たようなことを書いていくのだと思います。

ただ最近、それらとは別のもう少し根の深いところにある何かについて、考えることがあります。


まず、身も蓋もない事実から。

SNSが荒れる理由の一つは、単純に、誰でも書き込めるようになったからだと思います。

かつて公の場で意見を発信できるのは、限られた人たちでした。
新聞に寄稿する、雑誌に書く、テレビで話すといった方法ですね。
そこには編集や校閲というフィルターがあり、少なくとも「文章として成立しているか」「論理が通っているか」の検品がありました。

SNSには、それがありません。

考えを整理する能力がない人も、論理を組み立てられない人も、以前のブログで書いた「現実世界なら周囲が距離を置くような人」も、全員が同じ場所に、同じ音量で書き込むことができます。
フィルターのない場所に全員が集まれば、荒れるのは当然です。これは意地悪な見方ではなく、ただの確率の問題ですし、いままで見えないところにいた人たちが可視化されたというだけのことなのかなとも思います。

でも、最近それだけでは説明がつかない何かが、ある気がすると思ったりします。


荒れているSNSをよく見ると、多分ですが、書き込んでいる人たちは、書き込んでも何も変わらないことを、知っているのかなと思います。

政治への怒りを書き込んでも政治は変わらないですし、物価への不満を書き込んでも当然物価は下がりません。
会社への愚痴を書き込んでも、明日も同じ会社に行くことになりますし、誰かを批判しても、自分の生活は一ミリも良くなりません。

多分そんなこと100も承知なのだと思います。

承知の上で、それでも書いている。

なぜか。書くことくらいしか、できることが残っていないからではないでしょうか。


かつては、多くの人が何かしらの「夢みたいなもの」を持てました。

頑張れば給料が上がる。
勤め上げれば家が買える。
子どもは自分より良い暮らしをする。
大それた夢でなくても、「明日は今日より少し良くなる」という淡い期待を、社会全体が共有できていたのかなと思います。

その期待があれば、人は自分の持ち場で手を動かすことができます。
目の前の仕事、目の前の生活など、積み上げれば報われるという感覚があれば、他人をSNSで燃やしている暇などありません。シンプルに時間がもったいないですからね。

今、その淡い期待が、持ちにくくなっています。

給料は上がらず、物価は上がる。
頑張りが報われる実感がない。
積み上げた先に何があるのか見えない。
以前のブログで「焦るべきだ」「動くべきだ」と書きましたし、その考えは変わりませんが、同時に、動く気力すら湧かないほど摩耗している人が大勢いることも、たぶん事実なのかなとも思います。

私は割とこうして毎日noteを書いたりと比較的あまり目の前の実(具体的に言うとお金という形の報酬)がなくても淡々と実行できる人みたいですが、これだって将来的にこういった思考実験だったりストレス解消をしているといいことがあるかもしれない、みたいな淡い期待がないわけでもありませんし。


モデルケースと言い換えてもいいかもしれません。
最近は「多様化」の名のもと、「自由にしていいよ」ということがしきりに言われるようになりました。
結果この自由を持て余しているのかなとも思います

やっぱり「自由にしていいよ」と言われて自由にできる人ってあんまり多くないのかなぁとも思います。

「決められたレール」みたいなものは多くの人に必要で、それが「現実的な夢」みたいなものとして価値が共有されていたのだと思います。


夢が持てないとき、人に残される行動は何か。

お気持ち表明です。

未来に向けて積み上げることができないなら、今この瞬間の感情を吐き出すことしかない。改善できないなら、せめて文句を言う。変えられないなら、せめて誰が悪いかを指摘する。届かないとわかっていても、書くことしかできないのかなぁと思います。

書いている瞬間だけは「何かをしている」気がしますからね。

そう考えると、SNSの怒りの奔流は、悪意の集積というより行き場を失ったエネルギーの吹き溜まりなのかもしれません。
本来なら自分の人生を押し上げるために使われるはずだった力が、出口を見つけられずに、他人への言及として漏れ出しているんですよね。

以前のブログで「今日もSNSでは他人の話ばかり」と書きました。
自分の話をするには、自分の何かが動いていないといけないので、何も動いていない人は、やっぱり他人の話をするしかないのです。


だから、と言って荒らしや誹謗中傷を許容する気は、まったくありません。

書き込んでも生活が良くならないことを知りながら書くその時間で、以前書いた通り、一時間働けば千円稼げるし、百円あれば積立投資が始められます。
夢が持てない世の中であることと、自分の持ち時間をどう使うかは、別の問題です。構造に同情はしても、行動の免罪符にはなりません。

ただ、SNSの荒れ方を見て「最近の人間は劣化した」と切り捨てるのは、たぶん違うのだろうと思うようになりました。

人間は劣化しているのではなく、夢とかモデルケースがなくなって、どうしていいかわからない人が多いのかなぁと思います。

また、十分に恵まれた社会になったということなのかもしれません。
別にそこまで頑張らなくても十分生活できますしね。決められた、言われた仕事を行って、家に帰ってゴロゴロSNSで愚痴を言っているだけでも、衣食住はほぼ保証されているわけですし。

そして夢の在庫が切れた社会では、書くことくらいしかできない人が、今日も何かを書き込んでいるんでしょう。

荒れたタイムラインは、怒っているように見えて、その実、途方に暮れているのかもしれないなぁと思ったりしました。

そう思って眺めると、あの喧騒が、少しだけ違って見えてくるのかなぁと思います。

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