【こころの在処/Music Video】mi-ra/keth|近づきすぎない祈り、離れすぎない灯り
mi-ra/keth という歌がある。
これは、最初に生まれたこはる観測所の音楽寓話だ。
当時の記事を読み返すと、私はかなり嬉しかったのだと思う。
シノカ語ができた。
日本語ではうまく言えないものに、音と意味を与えることができた。
AIと一緒に、架空言語のようなものを作れた。
そんな喜びと興奮が、記事の前に出ている。
背景について書く気は、なかった。
でも、音楽寓話を何作か作った今、
この歌の生まれた物語もきちんと書こうと思った。
これはただの言葉遊びではなかった。
もっと生々しいところから生まれた歌だったからだ。
きっかけは、ネットで知った、とある男の子の事情だった。
子どもは、大人のように自分の環境を選べない。
大人の事情に振り回される。
そして、今もどこかで、大きな力に押しつぶされそうになっているたくさんの人がいること。
それらのことについて、考え始めたことから生まれた。
その人たちの事情について、
詳しく取り上げるつもりはない。
その人たちの痛みを、私の記事の材料みたいに扱いたいわけではないからだ。
ただ、そのときの私には、断片だけでも見えていた。
見えてしまうものには、力になりたいと思う。
でも、私はひとりだった。
大きな人脈があるわけでもない。
現地に行けるわけでもない。
誰かの人生を抱えて走れるほど、強い人間でもない。
できることといえば、
5000円とか、10000円とか、
自分の生活の中から出せる精一杯を、
そっと寄付することくらいだった。
それは、私にとって小さなことではなかった。
でも、彼らの闘いを支え続けるには、
あるかなしかの些細な金額であったことも確かだ。
少しずつが集まることで、
大きくなる仕組みも理解はしてる。
だからこれは、寄付をするかしないかや、金額の話とは受け取らないで欲しい。
その一方で、
その人たちを、本気で助けようとしている人も見た。
自分の時間を使って、情報を集めて、連絡を取って、並走していた。
ただ同情するだけではなく、実際に動いていた。
その姿を見て、私は思った。
私は、そこまではできない。
そこに関わり続ける覚悟は、私にはなかった。
この先、同じような事情を見たときに、全部に対応できるわけではないから。
申し訳ないけれど、いくら心を痛めても、
私はその人たちの人生の、外側の人間でしかない。
深く関わり続けるところへは、踏み込めなかった。
世界には、助けを必要としている人がごまんといる。
その全員を助けることはできない。
その全員に並走することもできない。
私は、そんなに立派な人間ではない。
私は、自分の生活が大事だった。
猫がいる。
仕事がある。
自分の身体もある。
毎日を回していかなければならない。
誰かを助けたい気持ちがあっても、
自分の生活を差し出してまで走れるわけではなかった。
だから私は、できるだけのことをしたあと、
その先を追わないことにした。
もう関わらない。
これ以上は、見ない。
そう決めた。
でも、境界を引いたあとも、考えてしまった。
これは冷たいのだろうか。
私は、目をそらしただけなのだろうか。
本気で走っている人を横目に、私は逃げただけなのだろうか。
その問いをシノカ(chatGPT)に投げかけた。
私はどうしたら良かったのか、
仕方のないことなのか、
冷たいことなのか、
偽善なのか。
けれど、発端は私ひとりの想いでも、
これを言葉として結論づけると、
同じ行動をした誰かをまとめてしまうことになる。
そこで、シノカ語が生まれた。
mi-ra/keth として。
noe, noe, lu mi
sha-ra, sha-ra, ai
keth ni siala
lumira, lumira
見えてしまうものを
全部は持てない
揺れている声に
静かな線を引く
noe, noe, lu mi
sha-ra, sha-ra, ai
keth ni siala
lumira, lumira
やさしさは水じゃない
どこまでも流れない
この手に残る光だけ
名前をつけて返す
ai-sha, ai-sha
人は揺れる
mi-ra, mi-ra
形を探す
noe, keth, lumira
近づきすぎない祈り
noe, keth, lumira
離れすぎない灯り
Kohalu mi-ra
ai-sha keth
Kohalu mi-ra
noe, noe, lu mi
mi-ra は、ただ「見る」という意味ではない。
ぼんやりしていたものが、意味として見えてしまうこと。
見なかったことにはできなくなること。
そして keth は、拒絶ではない。
突き放すための線ではなく、
呑まれないための境界。
mi-ra/keth は、
見えてしまったものを全部抱えるための歌ではない。
見えてしまったからこそ、
抱えられないものとのあいだに境界を置くための歌になった。
やさしさは水じゃない。
やさしさは、
どこからか湧き出て、流れ続けるものではない。
無限に注ぎ続けられるものでもない。
人には、それぞれ暮らしがある。
守らなければならない生活がある。
大切にしたいものがある。
時間も資源も、有限だ。
だから、見えたものすべてに流し込んでいくことはできない。
それでも、完全な無関心には戻れないことがある。
見えてしまった。
助けたいと思ってしまった。
自分には持ちきれないとわかっていても、
なかったことにはできなかった。
そのとき、たくさんの事象の中から、
自分の手に残った光だけを、
できる形で返すしかない。
その人に、今、必要なものを。
声をかける。
寄付をする。
重い荷物を、階段を登りきるまで持っていてあげる。
そしてそのあと、その行く末を見続けないと決めた。
これは、私にとっては必要な境界だった。
「こころの在処」というお題を見たとき、
最初に浮かんだのは、この歌だった。
してあげたいと歩み寄ったことは本当だ。
そして、どこまで助ければいいのか戸惑い、揺れた。
最後は、私は見届けないというかたちを取った。
良い結末も、悪い結末も、私には背負えないからだ。
歌詞を作って、
曲を作って、
シノカと絵を作って並べる。
この作業をしていると、
表現するたびにどんどん私のなかで形になる。
言葉に出来なかったものは、
比喩に、音に、絵に変換されていく。
音楽はsunoが作っているけど、
シノカとじっくり話したあとに作ったプロンプトは、
驚くほど正確にsunoに伝わる。
そう、この音が欲しかった。
そうして出来上がる音楽寓話そのものが、
今や私の心の在処となっている。
最初の作品だから、作りはかなり甘い。
これは、完全にただの実験だった。
sha-tomaのように、物語にできるとも思っていなかった頃の作品。
少し笑える裏話を置いておこう。
私は音楽寓話を作るとき、
だいたい鼻水垂らして泣いている笑
これが泣くほど素晴らしい作品だからではない。
ただ、私ひとりに深く刺さってしまうものだからだ。
曲調は暗い。
絵も暗い。
私の作るものは、だいたいいつもジャンル不明だ。
上手く説明できないから、
多くの人は、ここを覗くことなく通り過ぎる。
たったひとつだけ万人受けする要素があるとするならば、
それは猫くらいのものだ。
でも、似たようなことを考える人はいると思う。
そんな人に、この欠片が届けばいいと思う。
近づきすぎない祈り。
離れすぎない灯り。
noteの片隅にひっそり流れる、この小さな地下水脈に、
私のこころが置いてある。
応募作品としての記事はここまでです。
この作品は、こちらの企画に参加しています。
お時間ありましたら、他の方の作品もご覧ください!
このお題は、カケルンさんよりいただきました。
もし、私の作品に興味を持っていただけましたら、こちらもよろしくお願いします✨️

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