『炉岸に泣く砂』⑤〜人工太陽は誰のものか〜

 白い通路は、拍子抜けするほど静かだった。

 黒瀬のカードをかざすと、業務用の扉は音もなく滑り、廊下の照明が二人の歩幅に合わせて、先へ先へと灯っていく。警報は鳴らない。誰も来ない。

「……順調すぎて、吐きそうだ」

 透は低く言った。罠だと思う方が自然だった。それでも足は止めなかった。止めたところで、帰り道があるわけでもない。

 中枢の廊下は白かった。継ぎ目のない壁。同じ温度の空気。柔らかすぎる床。透にとっては初めて見る光景で、ミナトにとっては、世界のすべてだった場所。

 透は途中で気づいた。ミナトの歩き方が、変わっている。

 浜では、痛みの置き場所が分からないような、危なっかしい歩き方をしていた。ここでは違う。歩幅が揃い、足音が消え、白い廊下のリズムに、身体が勝手に合っていく。飼われていた身体が、檻の呼吸を思い出していく。

 透は、それが嫌だった。理屈より先に、嫌だった。

「おい」

「なに」

「……なんでもねえ。はぐれんな」

 透はミナトの手を掴んだ。ミナトの歩幅が、少しだけ崩れて、人間のものに戻った。

 エレベーターは、二人が乗ると勝手に動き出した。行き先のボタンは押していない。透は舌打ちした。

「招かれてんな、これ」

「うん」

「怖くねえの」

「怖い。でも、トオルがいる」

「……そういうこと真顔で言うな」

 扉が開いた。

 最上階。展望レストランだった。白いテーブルクロス。磨かれた床。一枚曇りのない大きな窓の向こうに、東京湾の夜景が広がっている。壁際には警備員が二人。そして窓を背にして、男が立っていた。

 真壁高臣。炉岸庁長官。日本の炉岸化を統括する、天照計画の総監。銀縁の眼鏡の奥で、目だけがほとんど動かない。

「五分間なら、前例がある」

 真壁は言った。

「掛けたまえ。茶も用意させた」

 ミナトは動かなかった。動けなかった。彼女の目は、部屋のあちこちを彷徨っていた。真新しいガラスの匂い。貼り替えられた床の一角。テーブルの位置。

「ここ……」

「気づいたか」

 真壁は眼鏡の奥から、感情の読めない目でミナトを見た。

「片付けさせた。ガラスも入れ替えた。良い職人だったよ。二日で元通りだ」

「ここで、お母さんが」

「そうだ」

 真壁は隠さなかった。

「君の母親は、ここで死んだ。私が撃った」

 透の頭の中が白くなった。気づいた時には踏み出していて、警備員二人に両腕を取られていた。

「テメェ……! 母親を、こいつの目の前で……!」

「事実確認が早くて助かる。説明の手間が省ける」

 真壁は椅子を引き、自分だけ腰を下ろした。

「ミナト。座席は用意したが、強制はしない。立ったままでも話は進む」

 透は、暴れた。警備員の腕の中で、めちゃくちゃに暴れた。だが、力ではかなわない。かなわないと分かった時、透は、暴れるのをやめた。代わりに、できる限りの、丁寧さを使うことにした。頭に血が上ったまま、それでも、言葉を選んだ。この男には、拳より、言葉の方が、まだ届くかもしれない。そう思った。

「なあ、あんた」

 透は、声を絞り出した。

「こいつ、ゲーセンの、光る魚より、キラキラした目してたんだよ。魚捕まえられなくてさ。傷つけたくないとか言って。……お前の方が光ってんじゃん、って、俺は思ったよ」

「…………」

「魚には、本当は骨があって、喉に刺さると、痛いんだ。その痛い喉を、冷たいアイスが通ると、気持ちいいんだ。こいつ、そんなことも、知らなかった。冷たいのは、悪いことだって、思ってたんだ。この街に来るまで」

 透の声が、震えた。

「俺、もっと、こいつに見せたいものが、あるんだよ。まだ、全然、足りねえんだ。そうだ、アイスな、アイス食ったら、ベロの色が変わるんだよ! まだ、見せてねえ! やり直しだ! だから、行かなきゃ──」

 透が立ち上がろうとして、また、押さえつけられた。膝が、床につく。それでも、透は、真壁を見上げた。

「頼むよ……」

 透は、言った。生まれて初めて、誰かに、本気で頭を下げた。

「こいつを、あの部屋に、戻さないでくれ」

 真壁は、しばらく、透を見ていた。感情の読めない目で。それから、静かに言った。

「娯楽用のモニターの設置。魚料理の提供。……処遇の改善は、検討しよう」

透の奥歯がギシリと軋む音がフロアに響いた。

「──飼うなって、言ってんだよ!」

 透は、叫んだ。

 真壁の眉が、わずかに動いた。理解できない、という顔だった。彼にとって、それは最大限の譲歩だったのだ。

「君は、奇妙なことを言う」

 真壁は、湯呑みを一口含んだ。

「その子には、最高の医療と、最高の設備と、この国の存続がかかった役割がある。飢えることも、凍えることもない。君の浜の人間より、よほど恵まれている。それを、飼うと言うのか」

「役割じゃなくて、人生を返せって言ってんだよ」

 透が唸った。真壁は、初めて、まともに透を見た。

「鳴瀬透。……君のような子どもを作ったのは、確かに我々の設計の粗だ。それは認める」

「認めるのかよ」

「認めた上で言う。君の浜は、世界平和の代金だ」

 真壁は窓の外を示した。光の街。海の上の白い塔たち。

「二〇三〇年代、世界はエネルギーとAI演算を奪い合う寸前だった。あのまま我が国の核融合技術を自由市場に放てば、計算力は兵器になり、電力は人質になった。奪い合いで最初に死ぬのは、いつでも貧しい国の、貧しい人間だ。数億人単位でな」

「…………」

「日本が独占しているから、戦争が起きない。一つの国が、一つの秩序で、世界中の演算を配っているからだ。歪だよ。不公平だ。だが、世界は今、不公平によって、平和なんだ。私はこの歪な平和の、管理人に過ぎない」

 透は言葉に詰まった。真壁の言葉は、憎らしいほど筋が通っていた。学のない自分でも分かるように、わざわざ平たく話しているのも分かった。それが余計に悔しかった。だから透は、理屈を捨てた。

「……なら、なんでその計算に、こいつの人生は、入ってねえんだよ」

 透はミナトを見た。

「何十億人も救うんだろ。すげえよ。で、なんで、その表の中に、十八年間、白い部屋に閉じ込められてる女が一人いることは、載ってねえんだよ。載せろよ。あんたの正しい表に、こいつも載せてみろよ!」

 真壁は、すぐには答えなかった。湯呑みを置く音だけが、静かな部屋に響いた。

「載っている」

 真壁は言った。

「犠牲、という欄に、な」

「ふざけんな──」

「君は正しいよ、少年。だが、正しさは、配電網には流せない」

 真壁は立ち上がった。

「取引をしよう。ミナト、君が自分の足で部屋へ戻るなら、琴弾の炉岸化計画は、私の権限で見直しを検討する」

「検討って何だよ。約束しろよ」

「約束はしない。約束は、弱い人間の道具だ。私は前向きに検討する。それが、現実に存在する最大値だ」

 ミナトは俯いていた。細い肩が震えている。透は嫌な予感がした。この女は、自分の値段を、低く見積もりすぎている。ソフトクリーム一つで世界を貰ったような顔をする人間は、自分一人差し出すことを、安い買い物だと思いかねない。

「ミナト、乗るなよ」

「でも、琴弾が」

「お前が背負うな!」

「席は一つだ」

 真壁が静かに割った。

「少年は帰したまえ。IDのない人間は、この国には存在しない。存在しない人間に起きたことは、誰にも起きていない。……意味は分かるな」

 警備員の手に、力がこもった。ミナトの顔から血の気が引き、彼女は一歩前に出た。

「私が座れば、透に、何も」

 その時、照明が落ちた。完全な闇ではない。窓の外の夜景だけが、部屋の輪郭を、かろうじて浮かばせている。警備員がざわめき、真壁の短い舌打ちが聞こえた。

「……停電まで、あの女の真似か」

 闇の中で、ミナトが、動いた。

 目を閉じないで。

 母の声が、身体に残っている。ミナトは、テーブルの脇の椅子を掴んだ。細い腕に、どこにそんな力があったのか。彼女は、その椅子を振り上げ、透を押さえていた警備員の後頭部へ、叩きつけた。母が、あの夜、窓を割った時と、同じ動きだった。見て、覚えていた。

 警備員が崩れる。透の腕が、自由になる。

「トオル!」

「ミナト、お前──」

 だが、真壁も、対策していないわけではなかった。非常用電源が、わずか三秒で復旧した。白い光が、部屋に戻る。そして、その光の中で、真壁は、懐から取り出した銃を、透に向けていた。

「動くな」

 真壁は、静かに言った。

「動けば、また、大事な人間が死ぬぞ」

 ミナトの動きが、止まった。

 その構え。その、抑揚のない声。銃口が、大事な人間へ向けられる、その角度。

 ミナトは、見覚えがあった。

 あの夜。母を撃った、あの構えだった。

 ミナトの身体が、勝手に動いた。透と、銃口の間に、割って入る。両腕を広げて、立ちはだかる。

 真壁の指が、引き金の手前で、止まった。

 調律者は、撃てない。ミナトは、この国にとって、代わりのきかない部品だ。真壁は、彼女を撃てない。撃てないと分かっていて、ミナトは、立ちはだかった。

 真壁が、一瞬、怯む。

 その一瞬を、透は、見逃さなかった。ゲーセンと、同じだった。透は地を蹴り、立ちはだかるミナトの、股の下を、滑り抜けた。真壁の懐へ、潜り込む。がら空きになった顎へ、下から、渾身の一撃を叩き込んだ。

 真壁の銀縁の眼鏡が、宙に舞った。大きな身体が、よろめき、テーブルに手をつく。銃が、床を滑る。

「行くぞ!」

 透は、ミナトの手を掴んで、走り出した。

 扉が、開いていた。二人は、廊下へ飛び出した。

 曲がった、その先で。黒瀬と、目が合った。

 黒瀬は、廊下の反対から、こちらへ歩いてくるところだった。透と、一瞬、視線が交わる。多くを語る余裕は、なかった。だが、透には、直感で分かった。この停電も、開いた扉も、この男の、手引きなのだと。

 透は、何も言わなかった。ただ、一瞥だけして、ミナトの手を引いて、走り去った。

 その、すぐ後ろ。レストランから、警備員が出てきた。そして、廊下を走ってきた黒瀬と、出会い頭に、ぶつかった。

「黒瀬指揮官! 対象が──」

「何かあったのですか」

 黒瀬は、飄々と、警備員の前に立ちはだかった。さも今来たばかり、という顔で。

「非常電源に切り替わりましたね。侵入者ですか。長官は、ご無事で?」

「そ、それが、対象が逃走を──」

「落ち着いてください。まず、封鎖です」

 黒瀬は、従順な指揮官の顔で、端末を取り出し、口元へ寄せた。

「全班に告ぐ。対象、上層階で確認。各層の封鎖を──」

 端末には、電源が入っていなかった。

 黒瀬は、指示を出すふりをしながら、警備員を、廊下の一点に、足止めした。透とミナトが逃げた方向とは、逆の方向を、指差しながら。

 わずか、十数秒。だが、その十数秒で、二人には、十分だった。

* * *

 非常階段を、二層、駆け下りた。上の警報が、遠くなる。赤い非常灯が、白い壁を染めていた。

 ミナトの足が、ふいに、止まった。

「ミナト?」

 ミナトは、廊下の先の、分厚い扉を見ていた。廊下の白とは違う、鈍い金属の色。赤いランプ。掲示は、素っ気なく、こうあった。

 中央資料室。関係者以外接続禁止。

「ここに、ある気がする」

「何がだよ」

「私が、誰か」

 ミナトは、もう、カードを扉に当てていた。赤いランプが、緑に変わる。要人しか持てないはずのカードは、この扉さえ、開けた。

「おい、今それどころじゃ──」

 だが、ミナトは、もう中へ入っていた。透も、舌打ちして、続く。

 扉の中は、紙の匂いがした。この国で一番進んだ塔の、一番深い場所に、一番古い媒体が眠っていた。棚に並ぶ紙の束、印字された写真、製本された報告書。ネットワークに置けば、消せる。書き換えられる。だから本当に危険なものだけが、消せない紙のまま、ここに封じられていた。

 ミナトは、棚の間を歩いた。指が、迷いなく、一つの棚で止まる。理由は分からない。呼ばれてる気がした。

 天照計画。背表紙に、そうあった。

 引き出した冊子の中に、若い女の写真があった。白衣を着て、疲れた顔で、それでもカメラを睨むように笑っている。母だった。ミナトの知らない年齢の、知らない場所で撮られた、母だった。その隣の綴りに、冷たい言葉が並んでいた。

 調律者素体 経過記録。摂取量。接続時間。同調率。そして、一行。

 素体の歌唱行動は、抑制対象としない。同調維持に有益。

 ミナトの指が、その一行の上で止まった。歌ってもいいと、許されていたのではなかった。歌が、役に立っていたのだ。白い部屋でたった一つの遊びだったものは、白い部屋の設計図に、最初から、数えられていた。

 棚の一番奥に、古い雑誌が挟まっていた。紙は黄ばみ、角は丸まっている。表紙の特集の題字が、ミナトの目を捉えた。

 人工太陽は誰のものか。

 ページを開く。核融合の記事だった。難しいことは分からない。ただ、書いた人間が、怒っているのは分かった。海を、浜を、そこに生きる人間を、誰かが独り占めしようとしていることに、この記事は、怒っていた。

 記事の終わりに、署名があった。

 ミナトの目が、その一行で止まった。長い間、動かなかった。唇だけが、音にならない名前の形に、小さく動いた。ミナトは雑誌を閉じ、パーカーの内側へ、そっと差し込んだ。

「……おい」

 透の声が、背中から落ちてきた。振り向くと、透は、手前の閲覧台の前に立っていた。開かれたままの、管理端末。非常灯の赤い光の中で、画面だけが、白々と明るい。そこに、一枚の登録票が、表示されていた。

 調律者素体 白砂ミナト。

 母:白砂陽子(天照計画・主任設計者)。

 透の目は、その二行に、釘付けになっていた。

「……白砂」

 声は、平坦だった。怒鳴られるより、ずっと怖い平坦さだった。

「白砂って、あの白砂かよ。白砂モデルの、白砂かよ」

「トオル」

「母親なんだな。この人が。……炉岸を、作った人が」

 ミナトは、頷くしかなかった。白砂モデルが何なのか、彼女自身、正確には知らない。それでも、透の顔を見れば、それが、どういう意味を持つ名前なのかは、分かった。

「私は、部屋しか知らなくて」

「浜、見ただろ」

 透の声が、初めて揺れた。

「琴弾の浜。あれで最後なんだよ。他は全部、白い塔の下だ。シゲ爺の船も、梅ばあの家があった磯も、ヤマトさんが名前を捨てる前に住んでた町も、全部。……全部、お前の母ちゃんの、図面の下だ」

「…………」

「学校も、飯も、俺の親父が出てったのも、元を辿りゃ──」

 透はそこで、言葉を切った。切ったのに、一番言ってはいけない言葉だけが、口から零れた。

「……お前も、あっち側の人間だったんだな」

 ミナトの顔から、表情が消えた。怒るでも、泣くでもなかった。ただ、白い部屋にいた頃の顔に、すっと戻った。輪郭の消える、あの顔に。

 違う、と透は思った。今のは違う。八割どころか、十割、ただの八つ当たりだ。分かっていた。分かっていて、謝る言葉が、出てこなかった。十六年分の何かが、喉を塞いでいた。

 その時、資料室の扉が、開いた。

 黒瀬だった。

「──のんびりしてる暇はないぞ」

 黒瀬は、短く言った。廊下の奥から、複数の足音が、近づいてくる。

 二人は、弾かれたように、資料室を飛び出した。わだかまりは、置き去りにできなかった。抱えたまま、走るしかなかった。

* * *

 二人が去った資料室に、黒瀬は、一人、残った。端末に、電源を入れた。さっき警備員の前で、電源の入っていない端末で指示を出すふりをした、その同じ端末だった。今度は、本当に、通信を繋ぐ。

「第七層に、対象はいない。全班、他を探せ」

 偽りの指示を流し終えて、黒瀬は、通信を切った。それから、ミナトの指が辿った棚を、目でなぞった。

 棚の奥に、引き出しが、半分開いていた。中に、赤い判の押された薄いファイルが、一つ。

 TOP SECRET。

 朱色の判は掠れ、紙は古い。表題は、短く、こうあった。

 調律者の解放。

 黒瀬は、立ったまま、ページをめくった。数式は分からない。だが、図は分かった。列島の海岸線。連なる炉岸ノード。そこに重ねられた、波形。図の余白に、一語だけ、囲って書かれていた。

 共鳴。

 黒瀬は、長いこと、その一語を見ていた。

「……壊さずに、鳴らす方法か」

 背後で、硬い靴音がした。

 黒瀬は、振り向かずに、ファイルを、コートの内側へ、滑り込ませた。

「他を探せと、言ったはずだ」

「……長官が、お呼びです」

 立川すみれが、扉の前に立っていた。その目は、黒瀬の背中を、じっと見ていた。彼が、たった今、何かを、コートの中へ隠したこと。停電の直前、彼がどこにいたのか。逃げた二人が、なぜ、この深い資料室まで、たどり着けたのか。すみれの中で、小さな疑念が、ひとつ、またひとつと、形になっていく。

 黒瀬は、何食わぬ顔で、振り返った。

「そうか。行こう」

 黒瀬は、すみれの脇を通り、資料室を出ていく。

 すみれは、その背中を、見送った。従順な指揮官の背中を。だが、その背中は、もう、彼女の知っている上官の背中とは、少しだけ、違って見えた。

(続く)

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