『炉岸に泣く砂』⑩〜帰る場所〜

 あの夜から、十七日が過ぎた。

 琴弾浜は、元に戻ったわけではない。仮設フェンスの半分はまだ残っているし、砂の奥には測量杭の折れた先が埋まっている。炉岸施設の白い骨組みは、潮風の中で未完成のまま立っていた。撤去するにも、残すにも、会議が必要らしい。大人たちはいつも、壊す時だけは早く、直す時には会議をする。それでも、工事は止まっていた。透明板には、前と違う表示が出ている。

 琴弾浜暫定保全区域。

 調査中につき立入制限一部解除。

 立入制限一部解除、という言葉を、梅ばあは「勝手に入っていい」と訳した。役場の人間は訂正しようとしたが、浜弾きの夜に彼女がパンフレットで保安員を殴った話がすでに広まっていたので、誰も強くは言えなかった。
世界は、きれいに変わったわけではない。

 ニュースは混乱していた。日本政府は、砂時計の権限移譲を「炉岸OSの国際協調アップデート」と呼んだ。

 分散化。

 かつて、天才と呼ばれた一人の日本人が、中央集権を否定し、分散化されたデジタル通貨・ビットコインを生み出した。彼が願った分け合う火。分散化。あるいは非中央集権化。日本政府はその言葉を決して使わなかった。誰も存在を知らない彼が、密かにこの国で生きながらえ、密やかに息を引き取ったことも、世界は知らない。ただ、その娘、孫、ただの少年、そして、ただの人々へ受け継がれたことだけが、事実としてその列島に横たわった。

 海外メディアは「日本の演算覇権の終わり」と呼んだ。市場は揺れ、各国のAI利用料は乱れ、真壁高臣の名前はしばらく画面に出たり消えたりした。責任を取るという言葉は、誰が何を失うのか分からないまま、便利に使われた。だが、影町の人間にとっては、もっと小さな変化の方が大事だった。 

 古い端末が一台、通じるようになった。 

 梅ばあの薬が、三割安く手に入った。

 若い漁師の妹が、遠隔診療を受けられた。

 透の名前は、まだどこにも登録されていない。けれど、彼が存在しないことを、国が前ほど簡単には言えなくなっていた。

* * *

 黒瀬仁が目を覚ました場所は、ヤマトのあばら家だった。

 最初に見えたのは、三種類の木材で継ぎ接ぎされた天井だった。隙間から光が斜めに落ちている。潮の匂いと、古い網の匂いと、薬草のような苦い匂いがした。身体を動かそうとした瞬間、脇腹に熱い杭を打ち込まれたような痛みが走った。

 「動くな。縫い目が開く」

 ヤマトの声がした。黒瀬は目だけを動かした。ヤマトが鍋の前に座っていた。いつもの汚れた上着。伸びた髪。白い髭。けれど手元には、やけに丁寧に洗われた医療器具が並んでいる。影町にあるはずのないものだ。

 「あんたの家、俺が散々めちゃくちゃにしたはずだが」

 「元々めちゃくちゃだろ」

 「手当てまでしてくれたのか」

 「海が返してきた。拾わないと浜が汚れる」

 「俺は漂着ゴミか」

 「高性能のな」

 黒瀬は笑いかけて、痛みに顔を歪めた。しばらく、波の音だけがあった。

 「白砂大和」

 黒瀬が言った。ヤマトの手は止まらなかった。止まらないことで、逆に答えになった。

 「その名前は捨てた」

 「捨てたものが、よく残っていたな」

 「捨てても戻って来ちまう。漂着ゴミみたいなもんだ」

 黒瀬は天井を見た。

 「ミナトに……娘に、会わないのか」

 ヤマトは鍋の火を弱めた。

 「俺は逃げたんだ」

 声は平らだった。何度も自分に言い聞かせた言葉は、感情を削って平らになる。

 「今さら、どの面下げて会えるっていうんだ」

 「その面でいいんじゃないか」

 「汚ねえだろ」

 「娘は白い部屋に十八年いた。汚いものを見る権利くらいある」

 ヤマトは初めて黒瀬を見た。

 「嫌な言い方をするな」

 「仕事柄」

 「政府の犬が」

 「たまに人を噛む」

 ヤマトは鼻で笑った。笑った後、目元が少しだけ崩れた。

 「陽子に、会わせる顔もない」

 「奥さんはもう、あんたの顔を見て叱れない」

 「分かってる」

 「だから、娘に叱られろ」

 ヤマトは何も言わなかった。頑なな沈黙だった。逃げるためではなく、逃げることしか残っていない人間の沈黙だった。

 黒瀬は小さく息を吐いた。説得で動く相手ではない。言葉で出口を作っても、ヤマトはその出口から逃げる。なら、出口の方を畳むしかない。

 「端末を貸せ」

 「何に使う」

 「余計なお世話だ」

 「政府の犬の余計なお世話ほど厄介なもんはないな」

 「安心しろ。たぶん、もう犬としての籍も抜かれる」

 黒瀬は痛みをこらえながら、差し出された古い端末を受け取った。電源が入るまでに、ひどく時間がかかった。

* * *

 立川すみれは、黒瀬仁が死んだと思っていた。海に落ちた後、捜索は行われた。形式上は。潮の流れが速く、夜の海で、しかも銃創がある。生存の可能性は低い。そう報告書には書けた。書けたが、すみれは最後の欄に名前を入れられなかった。

 死亡確認者。

 そこだけが空白のまま、端末の中で点滅していた。その空白に、通信が入った。

 「立川。生きてるか」

 すみれは端末を落としかけた。

 「……隊長?」

 「声が大きい。死体が起きる」

 「隊長、生きて……」

 「泣くのは後だ。仕事がある」

 いつもの声だった。少し掠れていて、奥に痛みが混じっている。それでも、黒瀬仁の声だった。

 「どこにいるんですか」

 「海沿いの、最悪の宿だ」

 「医療班を」

 「呼ぶな。呼んだら撃たれ損になる」

 「隊長、命令系統はもう」

 「だから、お前に頼んでいる」

 すみれは黙った。頼む、という言葉を黒瀬の口から聞いたのは初めてだった。

* * *

 三日後、影町に車列が入ってきた。黒い車ではなかった。白い車でもなかった。灰色の、どちらにも見えない車だった。先頭に立っていたのは、立川すみれだった。制服は整っている。髪も乱れていない。だが、顔だけは少し痩せたように見えた。

 影町の人間たちは、一斉に身構えた。

 「また撤去か」

 「今度はどこの下に潜ればいいんだ」

 「役場と保安が一緒に来る時は、だいたいろくでもないよ」

 梅ばあが鍋を抱えて出てきた。

 「で、今日は何を壊すんだい」

 すみれは一礼した。

 「壊しません」

 「保安の人間がそう言う時は、だいたい壊すんだよ」

 「本日付で、この区域の全居住者は、国民基礎演算配当の暫定対象となります」

 言葉は、影町の上を一度素通りした。誰もすぐには反応しなかった。

 国民基礎演算配当。基礎配当。

 二〇二〇年代にベーシックインカムと呼ばれていた考えが、この国ではAI利用権や住居や医療まで含む制度になっていた。ニュースではいつも、全国民に行き渡っていることになっていた。影町の人間は、その「全国民」の外にいた。

 すみれは続けた。

 「新たな住居、医療、通信端末、基礎AI利用権が順次提供されます。拒否は可能です。ただし、申請前に死亡・失踪扱いになっている方についても、再登録手続きをこちらで行います」

 「つまり」

 梅ばあが目を細めた。

 「あたしら、急に人間になったってことかい」

 すみれは少しだけ言葉に詰まった。

 「……制度上は」

 「制度上ねえ」

 「実際にも、そうなるようにします」

 すみれの声は硬かった。だが、逃げなかった。彼女の号令で、撤去は静かに始まった。家財を壊すのではない。名簿を作り、古い端末を渡し、怪我人を医療車へ乗せ、まだ使える荷物には仮登録のタグを貼る。影町の人間たちは怒り、疑い、笑い、泣き、最後には自分の荷物を自分で抱えた。突然救われることは、突然追い出されることと、最初の手触りがよく似ていた。

 ヤマトは、その流れの端にいた。荷物は少ない。古い上着、工具、丸めた網。逃げるには十分で、生き直すには少なすぎる荷物だった。いつものように人の流れから外れようとして、足が止まった。裏へ抜ける道には車がいる。屋根へ上がる梯子にはタグを持った若い職員がいる。床下の抜け穴も、医療車の陰から見える。逃げ場が、減っていた。ヤマトは誰にも声をかけなかった。誰の声にも答えなかった。荷物を小屋の前へ置き、工具袋だけを手に取って、影町を抜けた。行き先は、浜だった。

* * *

 夕方の琴弾浜には、人がいなかった。少なくとも、ヤマトの周りにはいなかった。撤去の騒ぎも、基礎配当の説明も、梅ばあの怒鳴り声も、ここまでは薄くしか届かない。波だけが変わらず来て、変わらず引いていた。工事の止まった炉岸施設の骨組みは、夕日に照らされて白く光っている。白い骨みたいだった。

 ヤマトは波打ち際に立った。靴底の下で砂が小さく鳴る。昔は、この音を聞けば、何かを思い出せた。今は、思い出すものが多すぎて、何も掴めない。

 陽子のこと。

 生まれたばかりの娘のこと。

 逃げた夜のこと。

 生き残ってしまった十八年のこと。

 工具袋の紐が、指の中で軋んだ。

 「お父さん?」

 背後から声がした。時間が止まった。

 ヤマトは振り返れなかった。背中だけが固まる。波が足元まで来て、引いていく。

 彼女は、ゆっくり言った。

 「白砂……大和さん」

 ヤマトの肩が震えた。

* * *

 あの日、透と中枢の施設を逃げているとき。

 資料室。

 ミナトは見ていた。人工太陽は誰のものか。その記事の下にあった署名。母が隠していた父の名前。白い部屋で奪われていた自分の半分の血。

* * *

 「人違いじゃ……」

 ヤマトは言いかけた。

 その背中に、ミナトが抱きついた。躊躇はなかった。汚れた上着も、潮の匂いも、痩せた背中も気にしなかった。海へ沈もうとした自分を透が背中から抱き止めた時、彼女は初めて、後ろから来る腕が怖いだけではないと知った。今度は、自分の腕で誰かを止めた。

 「逃げないで」

 ミナトは言った。

 「私、もう白い部屋に戻らなくていいんだよ」

 ヤマトは息を吸った。吸った息が、途中で崩れた。

 「ミナト」

 その名前を呼ぶ声は、ヤマトさんのものではなかった。父親の声だった。十八年遅れた、あまりにも遅い声だった。

 「すまなかった」

 ヤマトの身体が折れるように崩れた。ミナトを抱いたまま膝をつき、夕方の砂の上で泣いた。声を殺そうとして、殺せなかった。涙は汚れた髭に溜まり、何度も顎から落ちた。

 「すまなかった。ずっと、すまなかった」

 ミナトは彼の背中に顔を押しつけた。

 「うん」

 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。許す、という言葉は重すぎる。責める、という言葉もまだ知らない。ただ、会えた。

 「でも、会えた」

 ヤマトは、もう一度泣いた。

 少し離れた場所で、透はその光景を見ていた。見ていて、何となく居場所がなかった。ミナトが誰かの娘になる瞬間に、自分が立ち会っていいのか分からなかった。

 横に、梅ばあが来た。

 「泣かないのかい」

 「泣くかよ」

 「目、赤いよ」

 「海風だよ」

 「便利だねえ、海風」

 透はそっぽを向いた。

* * *

 その日の夕方、琴弾浜では子どもたちが走っていた。誰の子どもか、透はよく知らない。影町に子どもは少ないはずだったのに、基礎配当の話が出た途端、どこからか少しずつ増えた。親が隠していたのか、親戚の家から戻ってきたのか、単に透が見えていなかっただけなのか。子どもたちは裸足だった。浜を走ると、砂が鳴る。きゅ、きゅ、きゅ、と不揃いな音が続く。浜弾きの夜のような大きな共鳴ではない。ただの遊びの音だ。それが、透には妙に贅沢に聞こえた。

 ミナトは波打ち際に座って、焼いた魚を食べていた。透が横で骨を取ってやる。

 「骨、まだ怖いか」

 「怖い。でも、知ってる」

 「知ってるなら避けろ」

 「避けたら、食べるところが減る」

 「急に貧乏くさいこと言うな」

 「トオルが言ってた」

 「俺のせいにすんな」

 ミナトは小さく笑った。笑い方は、最初よりずっと自然になっていた。下手なままではある。けれど、下手だからこそ本当に見えた。

 透は少し迷って、言った。

 「そういやさ」

 「なに」

 「父親、どうだった」

 ミナトは魚を見つめた。

 「泣いてた」

 「そうか」

 「背中。トオルより、少し重かった」

 「お前、抱きついた方だろ」

 「見てたんだ」

 「いや、なんとなく」

 「なんとなく。覚えた。便利そうだから」

 「……じゃあ、温度」

 「トオルと、少し、似てた」

 透は黙った。何を返せばいいのか分からない。するとミナトが、急に別のことを思い出したように彼を見た。

 「あ!」

 「何だよ」

 「さっき、君、私に“お前”って言ったよね」

 透は嫌な予感がした。

 「あの時も」

 「……どの時だよ。わりと何回も言った気がする」

 「ここで歌う前。あと、影町で。東京で。ゲーセンで。それから、たぶん最初に会った時も」

 「全部じゃねえか」

 「年上のお姉さんに向かって、よくないと思う」

 「そこ今言う?」

 「今、思い出した」

 透は魚の骨を皿に置き、両手を軽く上げた。 

 「すいませんでした」

 「軽い」

 「重く謝ると、お前、どうしていいか分かんねえだろ」

 ミナトは少し考えた。

 「分からない」

 「ほらな」

 「ていうか、今も言った!」

 「ごめんて」

 「恋人同士でも、そういう言い方はダメなんだよ」

 透の手が止まった。

 「……恋人?」

 ミナトの顔が、見る間に赤くなった。

 「ち、違う。仮に。仮にそうなったとしてもって意味」

 「仮に、ね」

 「この先、もし、万が一、そうなってもダメってこと」

 「万が一って、可能性はあんのかよ」

 「知らない」

 ミナトは魚の身を箸で崩した。箸の使い方はまだ危うい。

 「そういうのも、これから勉強する」

 透は笑った。今度は、隠さなかった。

 「じゃあ、まず骨の取り方からだな」

 「恋人の勉強?」

 「魚の勉強だよ!」

 ミナトはまた笑った。

 浜の向こうでは、未完成の炉岸施設が夕日に照らされている。白い骨組みはまだそこにあり、過去がなかったことにはならない。陽子も戻らない。サトシも戻らない。黒瀬は生きていることになっていないし、真壁が裁かれるかも分からない。世界は美しいだけではない。自由は、やっぱり怖い。それでも、波は来て、引いていく。

 子どもたちの足元で、砂が鳴く。

 ミナトは魚を食べ、少しだけ顔をしかめた。

 「骨、刺さった」

 「言わんこっちゃない」

 「痛い」

 「水飲め」

 「でも、おいしい」

 透は、少しだけ空を見た。白い部屋ではない空。東京湾のガラス越しでもない空。雲がゆっくり動いている。

 砂がまた鳴いた。泣いているのか、歌っているのか、今でもよく分からない。けれど少なくとも、それは誰かの帰りを拒む音ではなかった。

 帰る場所を失くした者たちのために、浜はまだ鳴いていた──。

(了)

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