『炉岸に泣く砂』③〜調律者〜
黒瀬が影町のあばら家にたどり着いた時、そこはもう、もぬけの殻だった。正確には、人だけがいなかった。
入口の網をくぐると、狭い部屋の真ん中に、焚き火台の鍋がまだ湯気を立てていた。魚を煮た匂いが、まだ空気に残っている。そして、板の間に、欠けた茶碗が三つ。
黒瀬は、そのうちの一つを、しゃがんで拾い上げた。中に、崩れた魚の身が半分、残っていた。まだ温かい。
「三人、か」
黒瀬は呟いた。ひとつは、あるじのもの。ひとつは、追われている少女のもの。もうひとつは──この椀を、半分も残して逃げた人間のもの。よほど急いで、立たされたのだろう。
部屋の隅で、痩せた男が、網を繕う手を止めずに座っていた。白砂大和。影町では、ただヤマトと呼ばれている男だった。
「昼間から、物騒だな」
ヤマトは顔を上げずに言った。
「若い娘を、見なかったか」
黒瀬は椀を置いた。
「白い服の娘だ。首の後ろに、妙な痕がある」
「さあ。この歳になると、若い娘の顔はみんな同じに見える」
「隠すと、ためにならないぞ」
黒瀬は、部屋をぐるりと見た。三つの椀。二人分の足跡。乱れた毛布。何もかもが、たった今まで人がいたことを語っている。
「その椀。三つとも、まだ温かい。あんた一人で、三膳食う趣味でもあるのか」
ヤマトは答えなかった。ただ、網を繕う手が、ほんの少しだけ、遅くなった。
黒瀬は、その手元を見た。
「子どもを守る、勇敢な大人」
言いながら、黒瀬はヤマトの目を覗き込んだ。
そこにあったのは、勇気ではなかった。怯えだった。深く、古い、身体に染みついた怯え。権力というものに、一度、本気で殺されかけた人間だけが持つ種類の目。黒瀬は、そういう目を、何度か見たことがあった。
「……というわけでも、なさそうだな」
黒瀬は、少しだけ声を落とした。
その時、路地の奥で、隊員の声が上がった。
「指揮官! こっちに、抜け穴があります! 床下です!」
黒瀬が振り向くと、隊員たちが部屋になだれ込んできた。毛布を剥がし、棚を倒し、壁の板を蹴破る。ヤマトが後生大事に隅へ寄せていた古い紙束が、床に散らばった。ヤマトの肩が、びくりと跳ねた。だが、動かなかった。動けなかった。
「二手に分かれろ。半分は抜け穴を追え。残りは表から回り込む」
隊員たちが、床下の穴へ次々と潜っていく。黒瀬は、その様子を見届けてから、繕いかけの網を跨いで、戸口へ向かった。去り際、黒瀬は足を止めた。
「心まで貧しい大人には、なるなよ」
ヤマトが、初めて顔を上げた。
「ガキ二人、追いかけ回す大人が、よく言う」
黒瀬は、口の端だけで笑った。
「ガキの鬼ごっこに付き合うのも、大人の嗜みなんでね」
そう言って、黒瀬は小屋を出た。抜け穴を追う隊員たちとは、別の方向へ。長年の勘が、逃げる子どもの行き先を、地図なしで指していた。
* * *
一方、透とミナトは、床下の抜け穴を這い出て、潮見の防潮堤の下へ出ていた。
「走れるか」
「走る、は分かる」
「分かるだけじゃなくて、やるんだよ」
「やる」
「返事だけはいいな」
ミナトは必死に頷いた。透は自分のパーカーの袖を握らせ、路地の奥へ駆け出した。
影町の路地は、外の人間には迷路だった。透にとっては庭だった。
最初の角を折れると、頭の上に古い網が幕のように渡された細い道に入る。日の光が網目に刻まれて、地面にまだらの影を落としていた。魚の匂いが濃い。透は身を屈め、ミナトの頭を手で押さえて網の下をくぐらせた。
網の道を抜けた先は、潰れた民宿の裏だった。玄関は板で塞がれている。透は勝手口を肩で押し開け、暗い土間へ飛び込んだ。潮を吸って膨れた畳が、波打つように盛り上がっている。ミナトが踏むたび、ぶかぶかのスニーカーごと沈んだ。
その時だった。ミナトの足が、床から突き出た錆びた配管の継ぎ目に、引っかかった。大きすぎるスニーカーのつま先が、ぐらりと傾く。ミナトは、受け身も知らないまま、前へ倒れた。膝から、割れた土間へ落ちる。
「っ……」
透が振り向いた。
「ミナト!」
ミナトは、自分の膝を見ていた。擦りむいた膝の皮膚が、赤く滲んでいた。じわり、と、赤い玉が盛り上がってくる。それは、生まれて初めて見る、自分の血だった。
白い部屋では、採血ですら、痛みを感じないように管理されていた。転ぶことも、擦りむくことも、なかった。血が、こんな風に、自分の身体の外へ出てくるものだということを、ミナトは知らなかった。
「あか……い」
「見てる場合か!」
透はミナトの腕を掴んで、引き起こした。
「立て! 痛いのは後だ!」
破れた障子を突き破って、二人は反対側の路地へ抜けた。その先の表通りに、黒い防護服が見えた。
「っ、こっちだ」
透は身を翻した。魚箱を積んだ台車の陰から、干物を並べていたシゲ爺が、こちらを見もせずに低く言った。
「浜側は回られてるぞ。梅の裏、抜けろ」
「助かった!」
「借りにしとくよ、じゃねえのか」
「借りにしとくよ!」
「返せんのか!」
「いつか!」
梅ばあの小屋の裏手では、梅ばあが何食わぬ顔で、洗いたてのシーツを物干しに広げていた。二人はその真後ろを走り抜ける。追ってきた隊員の視界を、白い布がゆっくりと横切った。
「あら、ごめんなさいねえ」
梅ばあの声だけが、のんびりと路地に残った。
ミナトは息を切らしていた。顔は青い。膝からは、まだ血が滲んでいる。それでも、袖を離さない。
「トオル」
「喋んな。息使え」
「うん」
最後の抜け道は、ひっくり返した廃船を屋根代わりに渡した通路だった。大人が身を屈めてやっと通れる幅と高さしかない。透は迷わず滑り込んだ。ミナトが続く。背後で、防護服の装備が船板に引っかかる鈍い音と、押し殺した悪態が聞こえた。ここは、身軽な人間しか通れない。影町は、そういう風にできている。船底のトンネルを抜ければ、防潮堤の階段だ。浜へ出て、岩場の陰まで走れば、追跡は撒ける。透はそう計算していた。
階段の上に、黒瀬がいた。走ってきた様子はなかった。ただ、そこに先にいた。
「……読まれた」
透は歯を食いしばった。
「影町から浜へ抜ける口は、三つしかない」
黒瀬は言った。
「漁協横の坂。旧観光案内所の脇。この階段。庭を知ってる人間は、一番遠い出口を選ぶ」
黒瀬は片手を上げた。追いついてきた隊員たちを止める合図だった。
透は、拳を握った。ミナトを背中にかばう。
「……誰だよ、テメェ」
透が、睨みつけて言った。
「名乗れよ。人に立ちはだかっといて」
黒瀬は、少しだけ息を吐いた。呆れたような、それでいて、どこか感心したような息だった。
「人にものを尋ねる時は、自分が先に名乗る。そう習わなかったか」
「習ってねえよ、そんなん」
「そうか。なら、大人が手本を見せてやる」
黒瀬は、コートの襟を正した。
「黒瀬仁。炉岸保安機構の、まあ、犬だ」
透は、面食らった。まさか、こんな状況で、大人の方が先に、律儀に名乗るとは思わなかった。名乗られてしまうと、名乗り返さないのが、なんだか子どもじみて見える。悔しいが、そういう空気になっていた。
「……鳴瀬透」
「そうか。鳴瀬透」
黒瀬は、その名を確かめるように言った。
「けど、俺はIDねえからな」
透は、吐き捨てるように付け足した。
「その名前が本当かどうか、テメェには確かめようがねえだろ。嘘かもしんねえぞ」
黒瀬は、薄く笑った。だが、次の瞬間、その声から、ふっと温度が抜けた。
「……もし、この状況で、わざわざ嘘の名を選ぶようなガキなら」
黒瀬の目が、透の後ろのミナトへ移る。
「尚更、その子を、お前のそばに置いておくわけにはいかない」
ミナトの手が、透のパーカーの裾を、強く握った。
「渡さねえよ」
透は言った。
「本名だろうが、偽名だろうが、渡さねえ」
黒瀬はため息をついた。
「ガキが」
透は、殴りかかった。
次の瞬間、視界が、真横に飛んだ。何をされたのか、分からなかった。黒瀬は、ほとんど動いていなかった。踏み込んできた透の手首を取り、体重の向きを、少しだけ変えた。それだけで、人は飛ぶ。腕が捻られ、透の背中が、階段に叩きつけられていた。息が詰まる。
「トオル!」
ミナトが叫んだ。
透は咳き込みながら起き上がった。
「いってえ……」
黒瀬は少しだけ眉を上げた。
「寝てろ」
「命令すんな」
透は飛びかかった。
また投げられた。今度は膝から落ちた。口の中に血の味が広がる。ミナトが駆け寄ろうとする。黒瀬が一歩踏み出す。透はその足首にしがみついた。
「持ってくな」
「離せ」
「部品みたいに、その人を持ってくな」
黒瀬の目が、少しだけ変わった。
透はその隙に、砂のついた手で黒瀬の顔を殴った。拳は軽い。角度も悪い。だが、頬骨に当たった。黒瀬の口の端が切れた。
立川すみれが階段を駆け上がってくる。
「指揮官!」
黒瀬は手で止めた。
透は立ち上がった。膝が笑っている。まともに立てていない。それでも、ミナトの前に戻った。
「なぜ、そこまでする」
黒瀬が言った。
「今日会ったばかりの女だろう」
「関係あんのかよ、そんなの」
透は血の混じった唾を吐いた。
「目の前で腹が減ってる奴がいたら、飯を分ける。溺れてる奴がいたら、引っ張り上げる。それにいちいち理由がいるのかよ! テメェらは、理由がなきゃ、人も助けねえのか!」
黒瀬は、答えなかった。ただ、透を見る目から、面倒くさそうな色だけが、消えていた。しばらく、黒瀬は透を見ていた。値踏みするのでも、憐れむのでもない。ただ、何かを確かめるような目だった。
やがて黒瀬は、懐から小さな金属片を取り出した。薄いカードのようなものだった。透に投げるのではなく、その足元へ、ことりと落とす。
「東京湾へ行け。出島区の中枢だ」
「……は?」
「そのカードで、東ゲートが開く。救える道があるとしたら、そこにしかない」
すみれが、目を見開いた。
「指揮官」
黒瀬は、答えない。
透は、足元のカードと、黒瀬の顔を、交互に見た。
「なんで、俺に渡す」
黒瀬は、その問いには答えなかった。ただ、背を向けて、階段を降りていく。敵とも、味方とも、読めない背中だった。
透は、その背中に向かって、もう一度何か言おうとして、やめた。何を言っても、この男には一枚、上を行かれる気がした。
* * *
黒瀬が浜を離れ、車列へ戻る砂利道で、立川すみれが追いすがった。二人の声は、もう、階段の上の透たちには届かない。
「なぜ、逃がしたんですか。任務は、調律者の即時回収です」
「即時回収した」
「していません」
「中枢へ誘導した。報告書には、そう書け」
「指揮官」
黒瀬は、振り向いた。
「立川。音叉ってのはな、叩き方を間違えると、二度と鳴らない」
すみれは、何も言えなかった。
黒い車が、去っていく。影町に残ったのは、砂に刻まれたタイヤの跡と、昼の焚き火の煙と、膝から血を流す透と、同じく膝を擦りむいた少女だった。
透は、階段に座り込んだ。
「クソ強ぇ……」
ミナトが、その横に、そっとしゃがんだ。彼女は、透の切れた口の端と、擦りむいた膝を、じっと見ていた。それから、自分の膝を見た。同じところが、赤くなっている。同じ場所が、じんじんと、熱を持って痛む。ミナトは、初めて、他人の痛みが、自分の痛みとして分かった気がした。この人は、今、自分と同じところが痛い。それも、自分を庇って。
「痛い?」
ミナトが聞いた。
透は、ぶっきらぼうに顔を背けた。
「痛くねえよ」
「でも、血が」
「これくらい、なんともねえ」
喧嘩に負けたところを、女に見られた。それが、透には何より格好悪かった。だから、ことさら乱暴に、痛くないふりをした。
ミナトは、少し困った顔をした。それから、自分の膝を指した。
「わたしも、痛い。ここ」
透は、ミナトの膝を見た。血が滲んでいる。さっき、逃げる途中で転んだ時のものだ。自分と、同じところだった。
「……さっきの、まだ痛むのか」
「うん。血が、出た。初めて見た」
ミナトは、赤くなった自分の膝を、不思議そうに見下ろした。
「痛いって、こういうことなんだね。トオルは、これを我慢して、わたしを庇ったんだって、分かった」
透は、言葉に詰まった。
ミナトは、透をまっすぐ見た。
「ありがとう」
それは、痛いのを知っている人間の、ありがとうだった。痛みも知らずに言う「ありがとう」とは、重さが違った。透の格好悪さは、その一言で、少しだけ報われた。負けたことも、投げ飛ばされたことも、全部ひっくるめて、悪くなかった気がした。
「……おう」
透は、そっけなく答えた。耳が赤いのは、夕方の光のせいだ。そういうことにした。そして、心の中で、もう一度誓い直した。この痛みを、無駄にはしない。この女は、絶対に、あの白い部屋には返さない。
ミナトが、透の腕に、そっと手を添えた。
「立てる?」
「立てるっつってんだろ」
透は、膝を押さえて立ち上がった。よろけた。ミナトが、細い身体で支えようとして、二人でよろけた。
「支えんなよ、余計こける」
「ごめんなさい」
「だから、謝るとこじゃねえって」
その時、階段の下に、ヤマトが立っていた。いつから見ていたのか、分からない。防護服の隊員たちを、どうやってやり過ごしたのかも。ただ、その顔は、いつもより険しかった。
「東京湾へ行く気か」
「行かなきゃ、ここ潰されるってよ」
透は、拾ったカードを見せた。
「あの黒瀬ってやつが、これで東ゲートが開くって」
ヤマトは、しばらく黙っていた。それから、懐から、折り畳まれた古い紙を取り出した。何度も開かれた跡があり、角は擦り切れている。
「中枢へは、この裏道を通れ」
透は、その紙を受け取った。開くと、それは手描きの地図だった。東京湾出島区の、表通りではない道。搬入路、保守通路、旧い連絡路。今はどこにも載っていない道が、細かい字で書き込まれている。
「なんだよ、これ。……なんで、ヤマトさんが、こんな道知ってんだ」
透は、顔を上げた。
東京の、それも中枢のような場所の裏道を、なぜ影町の漁師が知っているのか。まるで、昔、この道を、何度も歩いた人間の地図だった。
ヤマトは、答えなかった。
「今は、どこもスラムになってる。人が住み着いてる。だが、それがいい。政府の人間は、そういう場所を、地図から消したがる。消された道は、見張られない」
「答えになってねえよ」
「なってる。お前が知る必要がないだけだ」
ヤマトは、それ以上、何も言わなかった。
ミナトが、ヤマトを見上げた。
「ヤマトさん」
「なんだ」
「ありがとう」
ヤマトは、返事をしなかった。ただ、少しだけ、顔を背けた。
影町の人々が、遠巻きにこちらを見ていた。誰も拍手しない。誰も止めない。行くなとも、行けとも言わない。ただ、行くしかないことを知っている顔だった。
透は、地図を握りしめて、立ち上がった。膝が痛い。口の中が切れている。それでも、ミナトのスニーカーの紐が、ほどけていないのを確認して、少しだけ安心した。
「行くぞ」
「どこへ」
「未来ワンダーランド。持ってる側の国の、ど真ん中だ」
「ワンダーランド」
「笑うとこじゃねえぞ。たぶん」
ミナトは、笑っていなかった。ただ、透のパーカーの袖を、もう一度握った。
二人は、影町を出た。日は、傾き始めていた。琴弾浜の砂が、遠くで鳴った気がしたが、透は振り返らなかった。
(続く)
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただいた資金はすべて活動の足しにさせていただきます!