『炉岸に泣く砂』⑦〜還る場所〜
琴弾浜の朝は、浜より先に機械が鳴った。
波の音ではなかった。砂の鳴く声でもなかった。浜の端に打ち込まれた仮設杭が低く震え、白い重機の腹で圧縮空気が鳴り、上空の測量ドローンが羽音を重ねる。音はどれも小さく抑えられている。政府の機械は、乱暴な顔をしない。やわらかい白と、清潔な曲線と、正しい手順で、取り返しのつかないことを始める。
砂浜の手前には仮設フェンスが張られていた。透明な樹脂の板で、向こう側の海が見える。見えるのに、触れられない。フェンスには大きく表示が出ている。
琴弾沿岸炉岸化準備区域。
地域再生事業。医療・通信・基礎配当対象化予定。
その言葉を見て、喜ぶ人間もいた。年寄りの薬代。壊れた家の修繕。止まったままの通信端末。AIを使えないまま置いていかれた子どもたち。炉岸化が始まれば、そのいくつかは戻るかもしれない。戻るかもしれないもののために、今あるものを差し出せと言われている。誰も、それを簡単に悪いとは言えなかった。
梅ばあは、フェンスの前で腕を組んでいた。背中は曲がっているのに、目だけはまっすぐだった。隣で若い漁師が煙草を噛んでいる。火は点けていない。点けるとドローンが注意しに来るからだ。
「とうとう来たな」
漁師が言った。
「来るものは、だいたい来るよ」
梅ばあは答えた。
「止められんのか」
「あたしが止められるなら、あたしは今ごろ総理大臣だね」
笑う者はいなかった。笑えるほど、朝は軽くなかった。
フェンスの向こうでは、作業ロボットが砂を測っていた。砂の上を滑るように進み、一定の間隔で細い杭を刺していく。杭の先端が砂へ入るたび、ほんのかすかに音がした。昔なら、裸足で踏んだ時だけ鳴った音。今は機械の針で、検査項目の一つとして鳴らされている。
ヤマトは少し離れた場所で、壊れた網を膝に広げていた。直す必要のない網だった。手を動かしていないと、立っていることができなかった。
その時、海沿いの旧道に、小さな自動搬送車が止まった。観光客用ではない。医療搬送にも見えるし、保安用にも見える、白い卵のような車体だった。扉が上へ開く。
中から、ミナトが降りた。パーカーのフードを被っていた。出島湾で透が被せてくれたものだ。肩の線に合っていないはずのない服なのに、彼女が着ると布が余って見えた。足元のスニーカーはまだ大きい。膝には、影町で擦りむいた傷が薄く赤く残っている。
誰かが息を呑んだ。
「調律者……」
言葉は、波打ち際の小石みたいに人から人へ転がった。調律者。白い子。政府が追っていた少女。黒い保安官が来た理由。琴弾を壊す理由。救う理由。どれも同じ顔をして、ミナトの細い身体に集まった。
ミナトはフェンスの前で立ち止まった。透明な板の向こうに、砂浜が見える。初めて来た時、足の裏で鳴いた砂。透が「鳴き砂」と言った砂。彼女を呼んでいる気がした場所。今は、工事区域になっていた。
作業員の一人が近づこうとして、止まった。触れていいのか分からない。保護すべき対象なのか、危険物なのか、神様のようなものなのか、誰も教えられていない。政府から来た説明では、彼女は「調律者」だった。人間ではない呼び名は、人間の手を鈍らせる。
梅ばあが一歩出た。
「ミナトちゃん」
ミナトは振り向かなかった。
「トオルは」
その声を聞いて、梅ばあの口が止まった。あの子は、まず透を探した。自分がどうなるかより、あの乱暴な少年を探した。
「まだ戻ってないよ」
ミナトは小さく頷いた。
「よかった」
「よかないだろ」
梅ばあは叱るように言った。けれどミナトはもう聞いていなかった。彼女はフェンス沿いに歩き出した。フェンスの端は、波打ち際でまだ閉じ切っていない。工事は始まったばかりで、海だけはまだ誰のものにもなっていなかった。
ヤマトが顔を上げた。ミナトの歩く方向を見て、網を放り出す。
「おい」
声は届いた。届いたが、ミナトは止まらない。
「おい、そっちは」
ヤマトは立ち上がった。だが足が思うように出ない。十八年前からずっと、彼は一番大事なところで足が遅れる。自分でそう思った瞬間、胸の奥が潰れた。
ミナトはフードを下ろした。顎のあたりで揃った黒髪が、朝の海風で少し揺れた。前髪は目にかからない。目を見られるために整えられた髪。背中の炉脊を隠すために着たパーカーの下で、彼女はまた、隠しても隠しきれないものの重さを感じていた。砂に足を踏み入れる。靴の底では、砂は鳴かなかった。ミナトはゆっくり靴を脱いだ。ヤマトがくれた大きなスニーカーを、波の届かないところへ揃えて置く。靴紐はほどけたままだった。裸足になると、砂が小さく鳴った。
その音で、何人かが顔を伏せた。工事の音に混じって、まだ浜は生きていた。生きているものを壊そうとしていると、急に分かってしまったからだ。
ミナトは海へ歩いた。水が足首を包む。冷たい。アイスクリームの冷たさとは違う。あれは甘くて、透が慌てて食べてくれた。これは甘くない。全部を持っていく冷たさだった。膝まで入る。パーカーの裾が濡れる。傷口に塩が染みた。痛い。ミナトはその言葉を、今度はちゃんと知っていた。痛い。けれど、止まる理由にはならなかった。
トオルは、白砂を嫌いになった。
そう思うと、胸の真ん中が痛んだ。膝よりずっと痛かった。自分がいなければ、政府はここへ来なかったかもしれない。自分がいなければ、透はあんな顔をしなかったかもしれない。自分がいなければ、母も、誰かを傷つけた名前も、全部、少しだけ遠くなるかもしれない。
母が愛した、美しい世界。
そこまで来て、ミナトはその美しさを壊す理由になっている自分が、ひどく場違いに思えた。
「止めろよ」
若い漁師が呟いた。
「誰か止めろよ」
誰も動かなかった。動けなかった。調律者に触れたらどうなるか分からない。政府の兵が見ている。ドローンが見ている。何より、自分たちが何を守りたいのか、まだ決めきれていなかった。浜か。生活か。配当か。少女か。どれも必要で、どれか一つを選べと言われると、足が止まる。
ミナトの腰まで、海が来た。
ヤマトが走り出した。だが遅い。年齢と、飢えと、後悔の全部が足に絡む。
その時、旧道の向こうで、政府の白い車が砂利を噛むように止まった。車体は浜の光を受けて白く、角のない形をしていた。影町を囲んだ黒い車とは違う。出島湾の中枢で見た、あの冷たい清潔さをまとった車だった。扉が跳ね上がり、立川すみれが先に降りた。すみれは後部座席の方へ手を伸ばし、襟を掴んでいた少年を外へ引っ張り出す。
透は車の床に片膝をつくようにして転がり出た。顔にはまだ殴られた腫れが残っている。唇の端は切れ、パーカーの胸には乾いた血が黒くなっていた。
「ミナトは?」
すみれが視線だけで海を示した。
透はそれ以上、何も聞かなかった。政府車両の認証に反応して、仮設フェンスの作業ゲートが静かに開いていく。開ききるのを待つ時間すら惜しかった。透は隙間に肩をねじ込み、透明な板に頬を擦りながら浜へ飛び込んだ。
「ミナト!」
叫びは、機械の音を裂いた。
海の中のミナトの肩が、ほんの少し震えた。だが、振り返らない。振り返ったら、戻ってしまう。戻ってしまえば、また誰かを傷つける。そう思い込んでいる背中だった。海はもう胸の下まで来ていた。波が上がり、ミナトの頬に飛沫がかかる。
「何やってんだよ、バカ!」
透は水へ入った。冷たさで膝が止まりそうになる。止まるな、と自分の足に怒鳴る。波が砂をさらい、足裏の支えが消える。透は前のめりになりながら、ミナトの背中へ手を伸ばした。肩まで浸かりかけたミナトを、背後から抱き止める。細かった。冷たかった。抱き止めた腕の中で、ミナトは驚いた鳥みたいに震えた。
「離して」
「離すか!」
「私がいない方が」
「俺が言ったことを、お前が死ぬ理由にすんな!」
ミナトの動きが止まった。
透は腕に力を込めた。ミナトの胸の前で自分の腕を交差させ、背中ごと抱え込む。浜で背負った時は、信じられないくらい軽かった。今も軽い。軽いはずなのに、海は重かった。水と、服と、絶望が、細い体にまとわりついている。
「足、砂に食わせな!」
梅ばあが浜から叫んだ。
透は返事をする余裕もなく、踵を砂にめり込ませた。波が引く瞬間に、一歩下がる。次の波が来る前に、もう一歩下がる。腕の中のミナトが崩れそうになるたび、透は歯を食いしばった。
ヤマトが水際で手を伸ばしかけた。だが、その手は途中で止まる。いちばん大事なところで、また遅れた。その事実に顔を歪めながら、それでも今は透から目を逸らさなかった。
「軽すぎんだよ!」
誰に向けたのか分からない怒鳴り声を吐き出して、透は最後の一歩を引いた。二人は砂の上へ倒れ込んだ。ミナトの体から海水が落ち、砂がそれを飲んだ。透は咳き込み、海水を吐き、すぐに起き上がった。
ミナトは泣いていなかった。泣くより先に、壊れたような顔で透を見ていた。
「どうして」
「どうしてじゃねえだろ」
透は息を切らしながら言った。
「俺が悪かった。あの資料室で言ったこと、全部、俺が悪かった。お前の母親が何を作ったかなんて、俺にはまだ分かんねえ。でも、お前が死んでいい理由にはならねえ。白砂だからとか、調律者だからとか、そんな名前で、お前を海に捨てていい理由にはならねえんだよ」
ミナトの唇が震えた。
「でも、私は」
「でもじゃねえ!」
透は立ち上がった。海水を含んだ服が重い。膝も腕も痛い。だが、その痛みが腹の奥で火になっていた。彼はフェンスの外にいる大人たちを見た。作業員。漁師。老人。役場の腕章をつけた男。基礎配当の説明パンフレットを握った女。誰もが、見ていた。
「テメェら大人だろ!」
声が浜に響いた。測量ドローンが一斉に向きを変える。
「なんで黙って見てられるんだよ! なんで放っとけるんだよ! この浜がどうとか、配当がどうとか、国がどうとか、そういう話の前に、人が一人、目の前で海に沈もうとしてたんだぞ!」
誰も言い返さなかった。
「怖いなら怖いって言えよ! 金が欲しいなら欲しいって言えよ! 生きるのに必要なんだろ、それは分かるよ! でも、だからって、こいつを見殺しにしていい理由になるのかよ!」
透の声は途中で割れた。かっこよくはなかった。理屈も整っていない。ただ、濡れた少年が、濡れた少女の前に立って、怒っていた。
その怒りに、最初に目を逸らしたのは、役場の男だった。次に若い漁師が、噛んでいた煙草を吐き捨てた。梅ばあが腕をほどいた。ヤマトは、砂の上のスニーカーを拾い、黙ってミナトのそばに置いた。
そこに、拍手の音が響いた。乾いた、場違いな音だった。
フェンスの向こう、建設中の炉岸施設の仮設足場。白い支柱と透明な防音板の上に、真壁高臣が立っていた。黒いコートの裾が海風で揺れている。顎を押さえる仕草はない。透の拳など、彼の世界ではすでに処理済みの出来事なのだろう。真壁はゆっくり手を叩きながら、浜を見下ろした。
「感謝するよ、鳴瀬透」
声は拡声器を通していないのに、不思議なほどよく通った。
「調律者を救ってくれて」
透の背筋に、海より冷たいものが走った。
真壁の背後で、保安部隊が展開する。白い工事機械が再び動き出す。フェンスの表示が切り替わった。
調律者回収手順、開始。
ミナトは砂の上で、透の袖を掴んだ。今度は、離れないために。
(続く)
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