『炉岸に泣く砂』⑨〜浜弾き〜
ヤマトの足は、最初だけ迷っていた。
砂の上に置いた右足が、小さく鳴る。次に左足。昔覚えたはずの拍子が、膝の奥からなかなか出てこない。長いあいだ使わなかった道具のように、身体が錆びている。それでも、三歩目で戻ってきた。
浜弾き。
琴弾浜に古くから残る踊りだった。祭りの日だけのものではない。大漁の夜にも、嵐のあとにも、浜を清める時にも、昔の漁師たちは裸足で砂を踏んだ。砂が鳴くかどうかで、浜の機嫌を知った。砂が鳴らなければ、汚れたということだ。浜が泣いているということだ。だから、踏む。鳴らす。歌う。人間の方から、もう一度浜に合わせる。ヤマトはそのことを、ずっと忘れたふりをしていた。ミナトの歌が、忘れていた深いところを踏んだ。
「ヤマト」
梅ばあが言った。
「それ、あんた」
「うるせえ」
ヤマトは砂を踏んだ。
「足が勝手に動いただけだ」
「なら、もっと動かしな」
梅ばあは履いていた左右違いのサンダルを脱いだ。裸足の指が、砂に沈む。腰は曲がっている。膝も悪い。それでも彼女は、ヤマトの隣で一歩踏んだ。
きゅ、と鳴った。
それを聞いた老人たちが顔を見合わせた。影町の奥で何十年も酒と魚の骨と諦めを噛んできた顔が、少しずつ別のものになる。昔、祭りで見た顔。子どもの頃、親の背中越しに見た顔。自分たちがまだ、いないことにされる前の顔。
「おい、あの拍子、覚えてるか」
「覚えてるわけねえだろ」
「足が覚えてりゃいいんだよ」
「足の方が頭よりマシか」
誰かが笑った。笑いは、すぐに足音になった。
きゅ、きゅ、と砂が鳴る。
最初は数人だった。ヤマト、梅ばあ、若い漁師、影町の老人たち。次に、フェンスの外で立ち尽くしていた女たちが加わった。基礎配当の説明パンフレットを握っていた手が、その紙を砂の上に置く。紙はすぐに海風でめくれた。
透はミナトの横に立ち、何が起きているのか分からないまま見ていた。
ミナトは歌っていた。歌いながら、少しずつ息が通っていく。白い部屋では、歌は隠すものだった。監視に聞こえないように、喉を震わせず、舌の上だけで転がすものだった。今は違う。声を出しても、誰も止めない。むしろ人々が、その声に足を合わせている。怖かった。自由は怖い。母が言った通りだった。けれど、怖いまま歌ってもよかった。透が隣にいた。ヤマトがいた。梅ばあがいた。知らない人たちが、足で返事をしてくれた。
工事機械の音が、一瞬だけ乱れた。
砂に刺さっていた測量杭が、細かく震え始める。作業ロボットの脚が、砂を掴み損ねる。透明フェンスの板が、低く唸った。白い仮設足場に取りつけられた防音板が、ワイングラスの縁を指でなぞった時のような音を立てる。
真壁は足場の上で振り向いた。
「振動を止めろ。地盤補正を入れろ」
技術員が端末を叩く。
「補正値が入りません。砂層全体に不規則な音響反応」
「不規則ではない」
真壁はミナトを見た。
「歌だ」
その顔から、初めて余裕が少し消えた。
「止めろ。歌わせるな。足を止めさせろ」
保安部隊が動いた。
だが、もう人が多すぎた。捕まえるべき対象は一人ではない。止めるべき足は、十、二十、五十と増えていく。老人の足。漁師の足。子どもを抱いた女の足。工事用の安全靴を脱いだ作業員の足。誰かが、防音シートを引き剥がした。別の誰かが、砂を押さえていた重しをどかす。浜を守るためではなく、浜を鳴らすために、みんなが勝手に動き始める。
「地引網、出せ!」
ヤマトが叫んだ。その声は、ヤマトさんの声ではなかった。影町の奥で網を直していた男の声でもない。かつてこの浜で人を動かした男の声だった。誰かが反射的に走る。古い地引網が倉庫から引きずり出された。濡れて重い。破れもある。けれど、砂をならすには使える。
「何に使うんだよ!」
若い漁師が聞く。
「浜を起こす!」
「説明になってねえ!」
「足で分かれ!」
網が砂の上を引かれる。覆土が薄く剥がれ、下から乾いた白い砂が顔を出す。鳴く砂。踏まれるのを待っていた砂。月明かりはまだ薄い。朝の名残と、炉岸施設の白い工事灯と、砂の反射が混ざって、浜全体が妙な色を帯びていく。
ミナトの背中が熱くなった。
パーカーの下で、炉脊が光を持ち始めていた。ミナトはその白く光るもう一人の自分に撥ね付けられたようにパーカーを脱ぎ捨てた。この浜に初めて降り立った時と、同じ格好。白い服。白い肌。白い部屋に溶け込んでいた姿。だが、自由を求めた白。その渇望が、少しの赤みを帯びて白い線を浮かび上がらせている。白い部屋にいた時とは違う。あの時は、人の身体を縛る線だった。今は、砂の音に反応して、ほどけていく線に見えた。
「痛いか」
透が聞いた。
ミナトは歌の合間に、首を横に振った。
「熱い」
「やばい熱さか」
「分からない。でも、ひとりじゃない」
透は頷いた。
「なら、たぶん大丈夫だ」
「根拠」
「ない」
ミナトは少しだけ笑った。歌いながら笑うのは難しく、音が少し外れた。その外れた音に、砂が高く鳴った。
浜弾きは、踊りというより騒ぎになっていった。
誰も完璧な振りを覚えていない。右へ踏む者もいれば、左へ回る者もいる。手拍子が合わない。歌を知らない子どもが、勝手に別の節を混ぜる。梅ばあは腰を押さえながら文句を言い、若い漁師は笑いながら転び、工事員は安全靴を片手に持ったまま裸足で跳ねる。
ええじゃないか、と誰かが叫んだ。奇しくもこの国が閉じていた遠い昔に叫ばれた、人を動かす言葉。共鳴の呪文。それが何の意味なのか分からないまま、別の誰かが続けた。
「ええじゃないか!」
「鳴らせ!」
「踏め踏め!」
「浜が生きてるぞ!」
真壁が足場から降りてきた。銃はない。黒瀬と一緒に海へ落ちた。周囲の保安員は命令を待っている。だが命令は足音に飲まれ、ドローンの警告音は歌に紛れた。
「何をしている! 捕まえろ!」
真壁は自ら群衆の中へ入った。長官の黒い靴が砂に沈む。白い浜弾きの円は、彼のために開かなかった。むしろ、何も知らない子どもが彼の足を踏んだ。
「痛っ」
真壁が初めて、政治でも理論でもない声を出した。次に、子どもへ向かって手を振り上げた。
梅ばあが踊りながら、彼の脛を蹴った。
「あ、ごめんよ。足が勝手に」
「貴様」
「浜では足が偉いんだよ」
若い漁師が笑い、工事員が肩で真壁を押し、誰かの裸足が真壁の革靴を踏みつけた。真壁はバランスを崩し、砂の上に膝をついた。高い足場から見下ろしていた男が、人々の足元に沈む。その姿を見て、透は笑いそうになった。笑ってはいけない気がしたが、少し笑った。
「トオル」
ミナトの声が強くなった。
歌が、彼女だけのものではなくなっていた。ヤマトが低い声で重ね、梅ばあが調子外れに重ね、子どもたちが意味も分からず真似る。歌詞は崩れている。けれど、旋律の骨だけは浜に残っていた。浜が覚えていた。
砂の音が変わった。
足元だけではない。少し離れた場所、さらに向こう、フェンスの外、重機の下、地引網で均された白い面。浜全体が、細かく震え始める。鳴き砂は、一粒ずつが擦れ合って音を出す。きれいで乾いた砂だけが鳴る。その砂が何万人分もの小さな喉を持ったように、次々と声を重ねていく。
共振。
陽子が窓を割った時と同じ言葉を、ここにいる誰も知らない。ただ、身体で知った。ひとつの小さな揺れが、別の揺れを呼び、さらに大きな揺れになって返ってくる。椅子で叩いたガラスではなく、人の足で叩いた砂。閉じるためではなく、開くための振動。
建設中の炉岸施設が唸った。
白い支柱の中を走る仮設ケーブルが震え、未完成の冷却塔が薄く光る。工事灯が順に消え、代わりに、砂の下から月光のような白い光が滲んだ。月はまだ高くない。光源は月だけではなかった。砂そのものが、古い記憶を反射しているように見えた。
ミナトの炉脊が、強く光った。
彼女は一瞬、膝を折りかけた。透が支える。今度は海から引き上げるためではない。歌い続ける身体を、横から支えるためだった。
「無理すんな」
「無理じゃない」
「嘘つけ」
「少し、怖い」
「それはたぶん、自由だからだろ」
ミナトは歌いながら、涙を流した。泣くことも、歌うことも、同時にできるのだと初めて知った。
* * *
その時、出島湾の中枢で、砂時計の表示が変わった。白い制御室には誰もいなかった。避難命令で人員は下層へ移され、機械だけが正常を装って動いている。全国の炉岸ノードを示す点が、地図の上で瞬いていた。東京湾、若狭湾、瀬戸内、九州北部、東北沿岸。すべての点が、琴弾浜から届く微細な基準音を受け取った。
中央承認不可。
調律者反応、外部共鳴。
解放条件、照合。
照合完了。
文字は誰にも読まれないまま、次々と変わった。砂時計は、日本政府の中枢から一段ずつ権限を外していく。切断ではない。破壊でもない。ひとつの手から、無数の手へ、火を分けるように、演算権限が渡っていく。
* * *
同じころ、東京湾の地下深くで、サトシ・ナカモトが目を開けた。医療ベッドの周りには、延命装置が白い蔦のように絡みついている。サトシは、遠くの砂の音を聞いた気がした。
「……そうか」
声は掠れていた。強制延命のロックが、静かに外れる。機械は止まらない。ただ、彼の身体を無理にこちら側へ引き止める力だけが弱まっていく。
サトシは、少し笑った。
「やっと、死ねる」
それは絶望ではなかった。長すぎた仕事の終わりに、椅子から立ち上がる人間の声だった。
* * *
琴弾浜では、歌が、踊りが、まだ続いていた。真壁は砂の上で立ち上がろうとした。だが、足が滑る。誰かの踵が彼のコートを踏む。白い砂が眼鏡にかかる。彼は叫んだ。
「秩序を戻せ! これは事故だ! 貧民の暴動だ!」
誰も聞いていなかった。いや、聞こえてはいた。聞こえた上で、足を止めなかった。
* * *
列島の海岸線が光り始めた。
まず琴弾浜。次に、かつて竹野浜だった場所。炉岸施設に埋められた海岸の下で、わずかに残った砂層が反応する。瀬戸内の人工島。東京湾の出島区。白い塔の基部。北の冷たい湾。南の遠浅の海。日本列島の縁をなぞるように、白い光が走った。空から見れば、それは軍事ネットワークの点滅にも、都市の夜景にも見えただろう。けれど浜にいた者には分かった。あれは海岸線だった。かつて人が裸足で歩いた場所。魚を干し、網を引き、子どもが転び、誰かが帰ってきた場所。その記憶が、炉岸の白い構造物の下から一瞬だけ浮かび上がっていた。
* * *
光は日本だけで止まらなかった。
海底ケーブルを通り、衛星を経由し、世界中のデータセンターへ駆けていく。演算権限が分散される。医療AIも、気候予測も、金融も、軍事シミュレーションも、日本政府一国の承認だけでは動かなくなる。世界は混乱するだろう。奪い合いも起きるだろう。けれど、ひとりの少女を白い部屋に閉じ込めて保っていた平和だけは、終わった。
* * *
ミナトの歌が止まった。
砂の音も、少しずつ静かになっていく。炉脊の光が薄れた。消えたわけではない。白い回路痕はまだ彼女の背中にある。過去は消えない。ただ、そこから伸びていた見えない鎖が、切れた。ミナトは膝から崩れた。透が受け止める。今度は、驚くほど軽いだけではなかった。汗をかき、息をして、泣いて、歌い切った重さが腕にあった。
「ミナト」
「……トオル」
「生きてるか」
「うん」
ミナトは小さく頷いた。
「痛い」
透は笑った。泣きそうな顔で笑った。
「生きてるってことだろ」
「そうなの?」
「たぶん」
ミナトは、砂の上に横たわったまま空を見た。白い部屋の天井ではない。ガラス越しの東京湾でもない。雲があり、鳥があり、機械の光が遠くにあり、それでも空だった。
ヤマトが少し離れた場所で膝をついていた。彼はミナトへ近づこうとして、途中で止まった。今はまだ、自分が名乗る時ではない。彼女はたった今、ひとつの檻から出たばかりだ。そこへ別の重さを背負わせるのは、違う気がした。
梅ばあが息を切らしながら、砂の上に座り込んだ。
「久しぶりに踊ったら、死ぬかと思ったよ」
若い漁師が言った。
「死んでねえだろ」
「明日死ぬかもね」
「明日ならいいか」
「よくないよ」
笑いが起きた。
真壁は保安員に支えられながら、砂まみれで立っていた。眼鏡は曲がり、コートは破れ、靴は片方なくなっている。彼はまだ何かを叫んでいた。だが、その声はもう浜に届かなかった。
すみれは、海を見ていた。
黒瀬は上がってこない。波は何も返さない。彼女の手は、端末を握ったまま震えていた。命令を待つ部下たちが彼女を見る。真壁を見る。浜を見る。すみれは深く息を吸った。
「負傷者救護を優先。住民への接触は停止。工事機械、全停止」
部下の一人が目を見開いた。
「ですが長官が」
「私が現場指揮を引き継ぎます」
すみれの声は震えていた。だが、最後まで言い切った。
「全停止です」
浜の上で、まだ熱を持った砂が、最後に小さく鳴った。泣いているのか、笑っているのか、誰にも分からなかった。けれど透には、それが初めて、ただの悲しい音には聞こえなかった。
(続く)
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