『炉岸に泣く砂』⑧〜調律者回収〜

 フェンスの表示が、無機質に光った。

 調律者回収手順、開始。

 その文字を読めた人間は多くなかった。影町の老人たちには、細い線で描かれた漢字が滲んで見えた。若い漁師たちは読めても、意味がすぐ身体に入ってこなかった。ただ、真壁高臣の背後で白い保安部隊が動いた瞬間、全員が同じことを理解した。

 あの少女を連れていく気だ。

 浜を、いま壊す気だ。

 保安部隊は、出島湾で見た黒い隊員たちとは違っていた。工事現場の作業員と保安員の境目が分からない白い装備。腕には炉岸庁の標章。銃口は目立たない。だが腰の横にも、腕の内側にも、人を倒すための細い器具が収まっていた。暴力の形だけを、できるだけ清潔に隠した道具だった。

 ミナトは砂の上で、透の袖を握ったまま動けなかった。海水を吸ったパーカーが重く、細い身体に貼りついている。唇は青い。膝の傷は塩水で赤くなり、そこに砂がまとわりついていた。透は、その手を振りほどかなかった。振りほどく代わりに、前へ出た。

 「来んな」

 声は震えていた。寒さのせいだけではない。それでも、透は一歩も下がらなかった。

 真壁は仮設足場の上から、濡れた少年を眺めていた。足場は砂浜より三メートルほど高い。まだ壁も屋根もない炉岸施設の骨組みの一部で、白い支柱が海に向かって並び、透明な防音板が途中まで取りつけられている。真壁はそこに立っているだけで、この浜の未来をもう所有しているように見えた。

 その足場の下、白い車の横で、立川すみれが立ち尽くしていた。

 彼女が透をここまで連れてきた。黒瀬に言われたからではない。命令として処理したかったからでもない。自分の目で確かめろと言われ、その通りにしただけだ。だが目の前で起きていることは、教本のどの章にも載っていなかった。

 一人の少女が、海で死のうとした。

 一人の少年が、それを止めた。

 その直後に、自分の所属する組織が、少女を回収対象として包囲している。

 すみれは端末を握ったまま、真壁を見上げた。

 「長官」

 真壁は返事をしなかった。ただ視線だけを下ろす。

 「本当に、これが正しい方法なのでしょうか」

 風が止まったように感じた。

 保安部隊の数人が、すみれを見た。かつて彼女が訓練で指導した若い隊員もいた。彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに正面へ戻した。命令を待つ顔だった。

 真壁は、ゆっくりと息を吐いた。

 「立川一尉」

 声は穏やかだった。怒りではない。その穏やかさの方が、すみれには怖かった。

 「君は目の前の一人を見ている。現場に立てば、それは当然だ。泣いている子供、濡れた少年、怯えた住民。人間は近くの苦痛に反応するようにできている。だからこそ国家には、近くにない苦痛を計算する者が必要だ」

 すみれは唇を結んだ。

 真壁は続けた。

 「この少女が中枢に戻らなければ、砂時計は基準を失う。炉岸ノードの同期は崩れ、演算供給は乱れ、医療、金融、防衛、気候制御に遅延が出る。遅延は、まず遠い国の貧しい病院から人を殺す。次に、電力を買えない都市から水を奪う。やがて、戦争に発展する」

 言葉は砂浜に落ちていった。住民たちには半分も分からなかった。だが、分からないのに重い、ということだけは伝わった。

 「君が今見ている一人を救うために、君が見えない数億人を危険にさらす権限は、君にも、私にもない」

 「では、あの子には」

 すみれの声が揺れた。

 「あの子には、自分を救う権限もないのですか」

 真壁の目が、ほんの少しだけ細くなった。

 「ある。だからこそ、彼女を生かして回収する。彼女が死ねば、誰も救われない。彼女が戻れば、少なくとも世界は保たれる」

 「世界を保つために、あの子を」

 「言葉を選べ。君は保安官だ」

 それで会話は終わった。真壁は浜全体へ声を通した。

 「調律者を生存回収。抵抗者は排除。住民への致命傷は避けろ。施設工事は続行する」

 命令が下りた。白い保安部隊が動く。

 すみれは反射的に一歩前へ出た。

 「やめなさい!」

 その声は、よく通った。訓練場なら、それだけで隊員の足は止まる。だが浜では止まらなかった。彼らはもう、すみれの部下ではなかった。真壁の命令系統に組み込まれた、白い列だった。

 「聞こえないの!」

 すみれはもう一度叫んだ。若い隊員の一人が一瞬だけ彼女を見た。目が揺れる。だが次の瞬間、隣の隊員が肩で押し、列は前へ進んだ。

 透はミナトの前に立った。

 「来んなって言ってんだろ」

 「鳴瀬透、退きなさい」

 すみれが言った。命令口調だったが、そこにいつもの硬さはなかった。

 「退いたらどうなんだよ」

 「私が前に出ます」

 透は一瞬だけ、すみれを見た。

 白い隊列の前へ、彼女は本当に出た。腰の武器には手をかけていない。両手を広げるわけでもない。ただ、背筋を伸ばして立ちはだかった。

 「立川一尉、退避を」

 隊員の一人が言った。

 「命令を停止しなさい」

 「権限がありません」

 「なら、私はあなたたちの前に立つ権限を行使します」

 「意味が分かりません」

 「人間なので、たまには意味の分からないこともします」

 その返答に、透は少しだけ笑いそうになった。笑う場面ではなかったので、歯を食いしばった。

 最初の隊員がすみれを避けて、横からミナトへ伸びる。透は砂を蹴った。目潰しにもならない。だが一瞬だけ視界が乱れる。その隙に、低く潜って相手の膝へ体当たりした。訓練された動きではない。品もない。強くもない。ただ、真正面から殴り合うよりは、まだ少しだけ勝ち目がある低さだった。隊員は倒れなかった。軽量装甲が衝撃を逃がす。逆に透の肩へ痛みが跳ね返った。

 「ってえ……!」

 次の隊員が透の腕を取る。捻り上げる。膝が砂に落ちた。

 「トオル!」

 ミナトが叫んだ。彼女は喧嘩を知らない。戦い方も知らない。ただ、痛いという言葉を覚えたばかりだった。自分の膝を擦りむいた時、血が出ることを知った。皮膚が破れると、世界がそこだけ熱くなることを知った。だから透の顔が歪んだ瞬間、それが何なのか分かった。

 「やめて」

 声は細かった。隊員は止まらない。

 ミナトは砂の上のスニーカーを掴んだ。ヤマトがそばへ置いた、ぶかぶかの靴。片方だけ紐の癖が違う。その靴を、透を押さえている隊員のすねへ投げつけた。威力などない。だが予想外だった。隊員の視線が一瞬落ちる。

 その隙に、すみれが動いた。

 彼女の動きは透とは違った。低く、短く、無駄がない。相手の手首を取り、関節の向きだけを外す。大きな音はしない。隊員が一歩分だけ崩れる。

 透は腕を抜いた。逃げるのではなく、前へ戻る。ミナトを庇う位置へ。

 「何やってんだよ、お前」

 「痛そうだった」

 「見んな。かっこ悪いだろ」

 「ありがとう」

 真っ直ぐ言われて、透は言葉に詰まった。痛みより、その一言の方が変なところに刺さった。

 「……あとで言え」

 「うん」

 浜の向こうで、フェンスが揺れた。

 最初に動いたのは、若い漁師だった。彼は透明板の継ぎ目に両手をかけ、力任せに引いた。留め具が軋む。隣の老人が、何も言わず工事用ロープを引き抜いた。梅ばあが丸めた基礎配当の説明パンフレットで、保安員のヘルメットを叩いた。

 「紙だけ先に配るんじゃないよ!」

 音は小さかった。叩かれた保安員も、最初は何が起きたのか分からない顔をした。けれど、その小さな音を合図に、浜の空気が変わった。

 誰かがフェンスの固定ピンを抜いた。誰かが測量ドローンに干した網を投げた。女が工事用の白いコーンを蹴飛ばした。子どもを奥へ隠していた男が、戻ってきて廃材を抱えた。老人が砂袋を引きずり、漁師がスコップを持ち、ただ見ていた人間が、見ているだけの場所から一歩出た。

 それらは立派な抵抗ではなかった。足並みの揃った蜂起でもない。怖くて、遅くて、みっともなくて、声も揃わない。だが、みんなが少しずつ前へ出た。ひとり分の勇気にも満たないものが、人数だけ集まって、暴動の形になっていった。

「やめろ!」
「その子を連れてくな!」
「浜を壊すな!」
「先に飯を寄こせ!」
「それは今じゃないだろ、梅ばあ!」
「今だよ、全部今なんだよ!」

 怒声と悲鳴と、場違いな口げんかが混ざった。

 保安部隊の隊列が乱れる。すみれはその乱れの中で、透とミナトの前に立ち続けた。彼女の肩に隊員の肘が当たる。頬に砂が飛ぶ。それでも退かない。

 透は、すみれの横顔を見た。

 「お前、政府の人間だろ」

 「そうです」

 「なのに邪魔すんのかよ」

 「今、確認中です」

 「何を」

 「自分が、何の人間か」

 透は何か言い返そうとして、やめた。言い返せるほど、自分のことも分かっていなかった。

 真壁は足場の上で、その様子を見下ろしていた。怒ってはいなかった。焦ってもいない。ただ、計算に不要な変数が増えた時のように、わずかに眉を動かしただけだった。

 「感情の伝播は厄介だな」

 彼は懐から拳銃を取り出した。それは大きな銃ではなかった。黒く、薄く、儀礼用にも見える拳銃。だが、銃口がこちらを向いた瞬間、浜の音が消えた。真壁が狙っていたのは、ミナトではない。

 透だった。

 ミナトを守る中心にいる少年。住民たちを動かした少年。すみれを迷わせた少年。彼が消えれば、暴動は数分で崩れる。真壁の目は、そう計算していた。

 すみれが気づいた。

 「長官!」

 間に合わない。

 透は銃口を見た。逃げようとは思わなかった。身体が動かなかったのではない。自分が避けたら、後ろにミナトがいる。それだけが分かった。

 ミナトの手が、透の背中に触れた。

 「トオル!」

 銃声。弾は、透の頬を掠めなかった。もっと手前で、横へ跳ねた。

 真壁の手首を、黒い手袋が掴んでいた。

 「──現場規定外です、長官」

 黒瀬仁だった。いつ現れたのか、誰にも分からなかった。足場の支柱の陰から上がったのか、保安部隊の混乱に紛れたのか、海側の搬入口から回ったのか。分かったのは、真壁が撃つその一瞬に、彼が間に合ったということだけだった。

 黒瀬は真壁の腕を外側へ捻っていた。銃口は空を向き、火薬の匂いだけが浜へ落ちてくる。

 「黒瀬」

 真壁の声は低かった。

 「君は、自分が何をしているか分かっているのか」

 「拳銃の安全管理です」

 「詭弁だ」

 「長官の部下ですので」

 「部下?これで幾度目だ。背くのは」

 「現場では、命令より優先される事象が起きるものです」

 「なら……優先的に死ね!」

 短い揉み合いだった。真壁は細身だが、弱い男ではなかった。支配する側の男は、支配されることを想定して身体を鍛える。黒瀬の脇腹に、真壁の肘が入る。黒瀬の息が詰まった。拳銃の銃口が一瞬、上を向く。

 二発目の銃声。黒瀬の身体が揺れた。

 「隊長!」

 すみれの声が裂けた。

 黒瀬は撃たれた側の肩を落としながら、それでも真壁の手首を離さなかった。逆に一歩踏み込み、拳銃を奪う。真壁の指から銃が剥がれるように離れた。

 「これは、現場で預かります」

 黒瀬は笑った。血が口の端に滲んでいた。

 真壁がもう一度、黒瀬を突いた。

 足場の端。透明な防音板はまだ取りつけ途中で、そこだけ海へ開いている。黒瀬の踵が空を踏んだ。落ちる瞬間、黒瀬はすみれを見た。

 何かを言ったのかもしれない。波と機械音に消えて、聞こえなかった。黒いコートが、夜の海へ沈むように消えた。拳銃も一緒に、白い泡の中へ落ちた。

 「隊長ー!」

 すみれが足場へ駆け寄ろうとした。真壁の声がそれを止めた。

 「回収を続けろ!」

 すみれは振り向いた。信じられないという顔だった。

 真壁は黒瀬が落ちた海を見ていない。彼にとって、失われたのは部品の一つに過ぎなかった。

 「調律者を確保しろ」

 命令は冷たかった。ミナトは、その冷たさを知っていた。撃たれた母。落ちていった母。いま、同じように海へ消えた黒い背中。自分のせいで、また誰かが落ちた。自分のせいで、また誰かが撃たれた。喉が凍った。

 「私……」

 声が出ない。

 透がミナトの前に立った。もう腕は上がらない。息も乱れている。頬には砂と海水が張りついている。それでも、彼は立った。

 「トオル」

 「大丈夫」

 「何が」

 「知らねえ」

 透は笑おうとして、失敗した。

 「でも、ここで終わったら、あいつが海に落ちた意味まで、全部あいつらに持ってかれる」

 ミナトは海を見た。黒瀬の姿はもうない。波だけが何もなかったみたいに戻ってくる。

 「私、どうしたら……」

 透は、彼女の肩を掴んだ。

 「どうしたらいいか、お前なら分かるだろ!」

 「分からない」

 「知ってるはずだ!」

 透の声は怒鳴り声だった。けれど怒りではなかった。沈んでいくものを、声で引き上げようとしていた。

 「お前の母ちゃんが、お前に残したもんがあるだろ! 白い部屋でも、ずっと持ってたやつが!」

 ミナトの目が揺れた。

 歌。

 幼いころ、母が教えてくれた歌。声に出すと監視が反応するから、息だけで歌っていた歌。白い部屋の底に、ないはずの波を生んだ歌。

 ミナトは唇を開いた。最初の音は、ほとんど声にならなかった。

 それでも、砂は聞いた。彼女の裸足の下で、きゅ、と小さく鳴いた。工事の機械音にすぐかき消されるような、弱い音だった。けれど、ヤマトだけが顔を上げた。彼の手から、拾いかけていたスニーカーが落ちた。

 「……その歌」

 ヤマトの声は、誰にも届かないほど小さかった。

 ミナトはもう一度、歌った。今度は少しだけ、声になった。海から吹く風が、その細い声を浜の上へ運んだ。

 真壁は足場の上で眉をひそめた。

 「止めろ」

 誰もすぐには動けなかった。

 ヤマトが、最初の一歩を踏んだ。裸足ではない。古いサンダルのままだった。だが彼はそれを脱ぎ捨て、砂の上に足を置いた。

 きゅ、と鳴った。それは、浜が覚えていた返事だった。

ヤマトは、もう一歩踏んだ。ミナトの歌に合わせるように、砂が鳴いた。

 黒瀬が落ちた海はまだ泡立っている。真壁の命令はまだ続いている。保安部隊はまだミナトへ向かっている。

 それでも、浜のどこかで、別の時間が始まった。

(続く)

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