『炉岸に泣く砂』②〜いないことにされた人たち〜

 砂の上なら、まだよかった。浜を離れると、地面はすぐに変わった。割れたアスファルト。錆びた鉄板。誰かが捨てたガラス片。古い網。踏めば痛いものばかりが、昼下がりの光の中で待っていた。

 ミナトは裸足だった。

 一歩進むたびに、足の裏が小さく縮む。痛い、と言わない。顔にも出さない。けれど透には分かった。歩き方が、痛みを知らない人間のものだった。痛みを我慢しているのではなく、痛みにどう反応すればいいのか、分からないみたいだった。浜の外は、雑で、痛くて、匂いがあった。濡れた木材の匂い。古い魚の匂い。焦げたプラスチックの匂い。生活の匂い。ミナトはその全部に少しずつ驚きながら、透のあとをついてきた。

「無理すんな」

「無理?」

「いや、もういい」

 透はしゃがんで背中を向けた。

「乗れ」

 ミナトは立ち止まった。

「乗る?」

「おぶってやるって言ってんの。知らねえのか、おんぶ」

 ミナトはしばらく透の背中を見ていた。やがて、おずおずと腕を回してきた。

 透は立ち上がった。

 軽かった。

 あまりにも軽くて、思わず声が漏れた。

「……軽っ」

 ミナトが背中で固まった。

「ごめんなさい」

「いや、謝るとこじゃねえし」

 透は歩き出した。背中の体温は低い。濡れた白い服が背中に染みてくる。意識しないようにした。意識しないようにした分だけ、首筋にかかるミナトの息や、腕の細さが気になった。人を背負う時、もっと身体の中心にずしりと来るものだと思っていた。前に、酔った漁師を浜から民宿まで運ばされた時は、肩も腰も潰れるかと思った。ミナトにはそれがない。軽いのに、妙に怖い。空の段ボール箱を抱えているみたいに、少し強く掴めば形が変わってしまいそうだった。

「お前、年いくつ」

「十八」

「は?」

 透は思わず足を止めかけた。

「……俺より上じゃねえか」

「上?」

「年上」

「そうなの?」

「そうなの、って自分の年だろ」

「数字は知ってる」

 透は歩きながら、何とも言えない顔をした。年上の女を背負っている。そう思うと急に背中が熱くなる。けれど、その女は靴も履けず、味も知らず、痛みにどう顔をすればいいかも知らない。熱くなった自分が、少しだけ恥ずかしくなった。

「お前、普段なに食ってんの」

「決まったもの」

「まずそう」

「味は、ついで」

「ついでってなんだよ」

「栄養は足りているって、言われていた」

 透は少し意地の悪い声を出した。

「その病院着みてえな白いの。どっかの施設で、実験体でもやらされてたのかよ。どうりで、味も知らねえわけだ」

 ミナトの肩が、背中で小さく跳ねた。

 透は、しまった、と思った。育ちのいい人間なら言わない言い方だと、自分でも分かっている。育ちがよかったことなんて、一度もないのだが。

「……悪い。言い方」

「ううん」

「今の、八割くらい国に言ってる」

「残りは?」

「海風の冷たさ」

 ミナトは返事に困ったようだった。透は少しだけ笑った。

 防潮堤の裏側へ回ると、そこから先は影町と呼ばれる場所だった。地図にも、行政の案内にも、観光用のARにも表示されない。古い民宿の一階に廃船の船底を屋根として乗せた家があり、漁具倉庫の壁にはブルーシートが部屋のように継ぎ足され、使われなくなった観光案内所の床下には、人が潜り込めるだけの寝床があった。電柱には電線が絡み、そこからさらに細い線が勝手に分岐している。雨が降れば漏り、風が吹けば鳴り、役場の人間が来れば一斉に人が消える。

 大人たちはそこを影町と呼んだ。正式な名前はない。正式な名前があると、正式に壊されるからだ。

 二〇二〇年代にベーシックインカムと呼ばれて議論されていた制度は、この時代の日本で、国民基礎演算配当という形に変わっていた。通称、基礎配当。現金だけではない。住居、医療、食料、通信、最低限のAI利用権。国はそれらを国民全員に行き渡らせていると発表している。ただし、国民として数えられていれば、の話だった。高性能端末を持たず、個人ノードに参加できず、認証IDを失った人間は、統計の外へ落ちた。国の発表では救済済み。現実では、影町にいる。

 細い路地の隙間から、海が見えた。浜の向こうには、まだ炉岸化されていない砂が白く続いている。けれどそのさらに先、岬を越えた水平線には、別の海岸に建てられた炉岸施設の塔が薄く見えた。白い塔、白い橋、白い冷却壁。そこだけ未来が勝手に上陸して、古い海を押しのけているようだった。琴弾浜も、いずれああなる。大人たちはそう言っていた。反対する声もある。だが、反対だけでは薬は買えない。基礎配当の対象になれば、医療も通信もAI利用権も戻るかもしれない。そう言われて、黙る人間もいた。透はその沈黙を責めきれない。責めきれないから、余計に腹が立った。

「ここ、なに?」

 ミナトが背中で小さく言った。

「表向きはない町」

「ない?」

「日本は理想国家なんだと。みんな家があって、医者にかかれて、AIも使えて、飯も食える。そういうことになってる。だから、ここにいる連中は、いることになってない」

 ミナトは黙った。

 路地の奥へ進むほど、道は細くなった。古い防潮堤と民家の裏壁の間に、人ひとり半が通れるだけの道が伸びている。頭上では洗濯物が低く垂れ、錆びた物干し竿が何本も渡されていた。足元には雨水を逃がすための浅い溝があり、そこを踏み外すと腐った海藻と一緒に足首を取られる。壁には誰かが手描きした矢印や、子どもの身長を刻んだ線や、古い炉岸反対のステッカーが剥がれかけて残っていた。影町は迷路ではない。迷路に見えるように作った生活だった。外から来た人間は、道だと思って入った先が誰かの台所で、空き地だと思った場所が寝床で、出口だと思ったところで犬に吠えられる。住んでいる人間だけが、どの板を跨げば音がしないか、どの屋根の下を通れば雨に濡れないか、どの家の前で足を止めると怒鳴られるかを知っていた。

 路地の途中に、腰の曲がった老婆が立っていた。片手に欠けた鍋、もう片方に網袋。影町の連中が梅ばあと呼ぶ女だった。

「トオル。昼間っから女背負って、出世したねえ」

「拾った」

「女を?」

「人間を」

「同じだよ」

「違うわ」

 梅ばあはミナトを覗き込んだ。ミナトは背中の上で小さく会釈した。

「白い子だねえ。幽霊かと思った」

「幽霊なら俺が困る」

「ヤマトんとこかい」

「何も言ってねえじゃん」

「隠すんだろ。人を」

 透は何も言い返せなかった。梅ばあは、それ以上詮索しなかった。この町の老人は、隠しごとの匂いには、鼻がきかないふりをするのが上手かった。

 その一番奥に、あばら家があった。家と言うより、壊れた倉庫の一部を無理やり住めるようにしたものだ。壁は板とトタンと広告看板の寄せ集めで、入口には古い網が暖簾みたいにかかっている。中から、ぎしぎしと何かを締める音がした。

「ヤマトさん」

 透が声をかけると、音が止まった。

「昼間からうるさい。魚なら置いてけ。説教なら捨ててけ」

「人拾った」

「物みたいに言うな」

 網の暖簾が持ち上がり、ヤマトが出てきた。五十を少し過ぎたくらいに見える。伸びた髪を後ろで雑に束ね、髭には白いものが混じっている。痩せているが、背中は曲がっていない。汚れた防寒着に、左右で違う靴。けれど目だけは、ホームレスという言葉で雑にまとめるには鋭すぎた。古い写真の中の記者か、海難事故を生き残った船長か、あるいはその両方の残骸みたいな目だった。その目が、透の背中のミナトを見た。

 瞬間、ヤマトの顔から色が抜けた。が、ヤマトはすぐにいつもの面倒くさそうな顔に戻った。戻した、と言った方が正しい。

「中へ入れ。濡れてる」

 中は狭かった。畳の代わりに発泡マットと古い毛布が敷かれ、壁には漁具と、使えそうな金属片と、分解された端末の部品が吊るされていた。隅には小さな焚き火台と鍋、干した魚。古い新聞が何枚か壁に貼られ、風が入るたびに端が鳴った。生活は汚れていたが、散らかってはいなかった。部屋の隅には、古いラジオが壊れたまま置かれていた。つまみを回しても音は出ない。代わりに、壁の隙間から浜の音が入ってくる。波が防潮堤に当たり、網が風で擦れ、誰かが遠くで咳をする。ミナトはそのすべてに、いちいち目を上げた。白い部屋では、音は管理されていた。必要な通知音、検査の起動音、ドアの開閉音。ここでは、意味のない音が多すぎた。意味のない音が、こんなに人を安心させることを、ミナトは知らなかった。

 透はミナトを毛布の上に降ろした。ミナトは地面に足をつけた瞬間、小さく顔をしかめる。ヤマトがそれを見た。

「裸足か」

「浜からずっと」

「バカか、お前は」

「俺?」

「背負うまでが遅い」

「なんで俺を責めんだよ」

「責められるような顔をしてる」

「顔の問題かよ」

 ヤマトは棚を漁り、古いパーカーを引っ張り出してミナトに渡した。フードのついた、色あせた紺色の一着だった。

「着ろ。白すぎる」

 ミナトは、自分の服を見下ろした。白い部屋では、白は普通だった。ここでは異物だった。受け取ったパーカーは重く、少し魚の匂いがした。袖を通すと、世界の匂いを着せられたみたいだった。パーカーは、サイズが特別大きいわけではなかった。それなのに、ミナトが着ると、肩から袖から、頼りなくルーズに垂れた。中身の線が、細すぎるのだ。フードを目深に被ると、首の後ろの炉脊が、すっぽりと隠れた。

「それ、被ってりゃ、その首の変なのも見えねえな」

 透が言うと、ヤマトが手を止めた。ほんの一瞬。それから、何も言わずに次のものを取り出した。

 小さなスニーカーだった。色あせた女ものの、薄いピンク。片方の紐は途中で切れて、別の紐で継いである。透は、それを横目で見た。

「中古ランクCだね」

 透が、靴を値踏みするように言った。

「ふん。どうりで売れねえわけだ」

 ヤマトが、鼻を鳴らす。

「ここいらじゃ、上等すぎるだろ」

「おめえの目利きだけは、確かだ」

 ヤマトはミナトの前に靴を置いた。

「履けるか」

 ミナトは靴を見て、それから自分の足を見た。足を入れるところまではできた。けれど、紐を前にして止まった。

「これ」

「結べねえの?」

 透が言うと、ミナトは素直に頷いた。

「知らない」

「マジか」

「マジ、です」

 ヤマトが片膝をついた。透も反射的に、もう片方の靴の前にしゃがんだ。

「俺がこっち」

「なら、俺はこっちだ」

 二人はミナトの前で、それぞれ片方ずつ靴紐を結び始めた。ヤマトはゆっくり、手順を見せるように。

「輪っかを作る」

 ヤマトが言った。

「輪っか」

「もう片方を回す」

「回す」

「引く」

「引く」

 ミナトは真剣に見ていた。靴紐の結び方を覚える顔が、世界の秘密を教わっているようだった。透は自分の結んだ方を見た。少し形が悪い。ヤマトの方はきれいだった。

「なんでそっちだけ上手いんだよ」

「年季」

「靴紐の年季って何だよ」

「逃げる時、ほどけたら死ぬ」

 その一言に、透は黙った。冗談の調子だったのに、奥に別のものがあった。

 スニーカーは、それでも大きかった。足の先に余りができている。だが裸足よりはずっといい。

「ブカブカだな」

「歩ける」

 ミナトは答えた。少し嬉しそうだった。

 ヤマトの指が止まった。ほんの一瞬だけ。それから、きつく結び直した。

「名前は」

「ミナト」

「そうか」

「あなたは?」

「ヤマト」

「ヤマトさん」

 ミナトはその音を、口の中で確かめるように言った。

 ヤマトは顔を逸らした。

「飯、ある?」

 透が焚き火台の横にしゃがみ込んで言った。

「お前は人を拾ってきて、まず自分の飯の心配か」

「俺も人だから」

「そこは否定しない」

 ヤマトは鍋を火にかけた。水を足し、昨日の残りの魚と、少しだけ米を入れる。米は粒が割れている。いい米ではない。だが火にかけると、白い湯気が立ち、魚の脂が表面に小さな丸を作った。

 ミナトの腹が、小さく鳴った。自分の身体が音を出したことに驚いて、腹を押さえた。透が見た。

「腹、鳴った?」

「……分からない」

「いや、鳴ったろ」

「施設では、鳴ったことない」

 透は何か言いかけて、やめた。代わりに欠けた茶碗を受け取り、ミナトへ渡した。

「熱いからな」

 ミナトは椀の中を覗いた。小さな魚の身が崩れている。骨も少しある。白い部屋の食事は、味も温度も安全に管理されていた。ここには骨がある。気をつけないと喉に刺さる。食べ物が、食べる側に注意を要求してくる。

 一口、飲んだ。湯気に、目を丸くする。

「熱い」

「ふうふうしろ」

 透が雑に言った。

「ふうふう」

「言うんじゃなくて、やる」

 ミナトは息を吹きかけた。湯気が揺れる。もう一口飲んだ。

「口の中で、みんな、喧嘩してる」

「喧嘩?」

 透は一瞬、意味が分からなかった。魚の味、潮、焦げ、骨、脂、熱。白い部屋で一種類の味しかしなかった少女には、それら全部が一度に来るのだろう。

 ヤマトが、鍋を見たまま言った。

「生き物を食ってる味だ」

「生き物」

「そう。ありがたく食え。魚にも、煮た俺にもな」

「文句なら、トオルの方が上手」

 透は茶碗を持ったまま固まった。ヤマトが、ふ、と喉を鳴らした。ほとんど笑いだった。

「……意外と言うな、お前」

「悪い。言い方」

 ミナトが真面目に言うので、透は吹き出しかけた。

「それ、俺のやつだろ」

 ミナトは椀を両手で持って、崩れた魚の身を、大事そうに口へ運んだ。ヤマトが聞いた。

「うまいか」

 ミナトは、昨日のケーキを思い出した。蝋燭の火と、白いクリームと、母の声。同じ言葉を使っていいのか、少し迷った。

「なくなるのが、嫌です」

 ヤマトの目が、ほんの少しだけ揺れた。

 透は何も知らずに笑った。

「それはうまいってことらしいぞ」

 その時、小屋の外で誰かが叫んだ。

「ヤマト! 黒い車!」

 入口の網がめくれ、梅ばあが顔だけ突っ込んだ。

「三台。浜の方から上がってきた。あんな綺麗な車、ここに来る用事ないよ」

 透の顔が変わった。ヤマトが鍋の火を弱める。外の足音が増え、ざわめきが影町を走った。ミナトの椀は、まだ半分残っていた。透はそれを見て、なぜか腹が立った。残すな、と言いたいのではない。ようやく温かいものを食べている人間を、また走らせなければならないことに腹が立った。

「食っとけ」

「でも」

「食え。走るなら腹に入れとけ」

 ミナトは急いで椀を口に運び、熱さにむせた。透は背中を叩こうとして、パーカーの下の白い光を思い出し、手を止めた。代わりに、肩を軽く叩いた。

 ヤマトは入口の網を下ろし、床の隅の板を一枚、外した。下に、低い抜け穴がある。人ひとりが這えば通れる幅。湿った風が、そこから吹き上がってきた。

「潮見の下へ出る。足元を見ろ。途中で板が腐ってる」

「なんでこんなのあんだよ」

「いないことにされた人間には、もう一つ玄関が要る」

 外で、車のブレーキ音が止まった。硬いドアの閉まる音が続く。この町に似合わない音だった。

 透が、ミナトの手を引いて、抜け穴へ潜ろうとする。その背中へ、ヤマトが言った。

「トオル。さっきの言葉、訂正だ」

「あ? どれだよ」

 路地の向こうで、複数の足音が、砂利を踏んで近づいてくる。ゆっくりと、迷いなく。ヤマトは、そちらを見たまま言った。

「おめえの目利きは、最低だよ」

 誰が、こんな面倒なものを拾ってくる。追われている娘を、よりによって背負ってくる。だが、その声には、責める色はなかった。むしろ、そういう拾い方をする人間であることを、どこかで知っていた、というような声だった。

 透は、一瞬だけ、口の端を上げた。

「うるせえ」

 それだけ言って、透はミナトと抜け穴へ身を滑らせた。

 残されたヤマトは、入口の網の方へ向き直った。近づいてくる足音を、まっすぐ迎えるように。

 影町の昼が、急に静かになった。

* * *

 同じ頃、東京湾中枢施設の地下。

 真壁高臣は、中央資料室にいた。

 ネットワークに繋げば消せる。書き換えられる。だから本当に危険なものだけが、消せない紙のまま、この部屋に封じられている。真壁の手には、赤い判の押された薄いファイルが一つあった。

 TOP SECRET。

 朱色の判は掠れ、紙は古い。表題は、短くこうあった。

 調律者の解放。

 真壁は、そのページを長いこと見ていなかった。見る必要が、これまでなかったからだ。彼がその古いファイルを引き出したのは、ほんの数時間前、あの母親が、娘を突き落とす直前に口にした一言が、頭から離れなかったからだった。

 美しい世界へ。

 白砂陽子は、そう言って、娘を窓の外へ突き落とした。

 真壁は、その言葉を、死にゆく母親の、最後の感傷だと聞き流すこともできた。だが、白砂陽子は、感傷で動く女ではなかった。国中の炉を同調させた頭脳が、意味もなく口にする言葉などない。あれは、行き先だ。あの女は、娘を、どこかの「美しい世界」へ、逃がそうとした。真壁の脳裏に、ひとつの浜が浮かんだ。この国で、最後に残った、美しい砂浜。真壁は、開いたファイルの余白に、たった一語、囲って書かれた文字を、指でなぞった。

 共鳴。

 真壁は、静かにファイルを閉じた。

* * *

 黒瀬仁が琴弾浜に降り立った時、日はまだ高かった。

 波打ち際に、沖から流れ着いた救難ドローンの残骸が引き上げられている。焦げた機体の周りに、朝から住民が集まっては散っていた。黒瀬は、その残骸を一瞥した。それから、防潮堤の向こうに広がる、猥雑な影の町を見た。地図には載っていない町。統計に入らない人間たちの町。

 逃げた人間が身を隠すなら、ああいう場所だ。人間の習性を追えばいい。

「なるほどねぇ」

 黒瀬は、誰にともなく呟いた。

「最後の、美しい世界、か」

 真壁からの指示は、この浜の名だけだった。理由は告げられなかった。だが黒瀬には、真壁がなぜここを名指ししたのか、何となく見当がついていた。死んだ設計者が、娘に見せたかった最後の景色。それが、この日本で最後に残った、鳴く砂の浜なのだろう。

 黒瀬は、砂を一歩、踏んだ。

 きゅっ、と、足の下で砂が鳴いた。

 黒瀬は、少しだけ眉を上げた。それから、影町の方へ、ゆっくりと歩き出した。

(続く)

いいなと思ったら応援しよう!

三輪江一 サポートいただいた資金はすべて活動の足しにさせていただきます!