『炉岸に泣く砂』⑥〜GAME OVER〜

 「最優先権限を確認。ID認証完了。目的地へ出発します」

 白い車の音声は、どこまでも丁寧だった。謝罪も、説明も、問いかけもなく、ただ決まった処理を告げる。ドアが閉まり、座席がわずかに沈み、窓の外の出島湾が音もなく後ろへ流れ始めた。

 後部座席に、ミナトが一人で座っていた。フードは深く被ったままだった。膝の上には、ワタルにもらったスニーカーのつま先が並んでいる。まだミナトには大きすぎる靴だった。走れば踵が浮き、立ち止まれば靴紐の余りが床に垂れる。透とワタルが片方ずつ結んでくれたその紐が、片方だけほどけていた。ミナトは俯いたまま、それを見ていた。車は目的地へ向かっている。母が愛した場所。透がいた浜。白い部屋ではない場所。そこへ向かっているはずなのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。

 トオルに、嫌われた。

 その言葉だけが、車の自動音声より正確に響いていた。ミナトは靴紐に手を伸ばした。教えてくれた通りに、まず二本を交差させる。片方をくぐらせる。輪を作る。もう片方を回す。引く。ほどけた。

 もう一度。交差。くぐらせる。輪。回す。引く。また、ほどけた。

 指先が震えた。白い部屋では、服は誰かが選び、靴は必要なく、外へ出る扉も自分では開かなかった。紐を結ぶこともできないまま、十八歳になった。その事実が、なぜか今になって胸を刺した。三度目に失敗した時、涙が一粒、靴の甲へ落ちた。ミナトは慌てて拭こうとして、さらに紐を絡ませた。ほどこうとすればするほど、結び目は小さく固くなっていく。まるで自分みたいだ、とミナトは思った。外へ出たのに、どこにも行けない。自由になったはずなのに、何をすればいいのか分からない。

 白い車は、そんな少女を乗せて、静かに夜の湾岸を走っていった。

* * *

 GAME OVER。

 空中に浮かんだ赤い文字が、何度目かの点滅を繰り返していた。BAY-ARENAのリングの床に、透は大の字で転がっている。床は数ミリだけ沈み、負けた人間の背中を腹立たしいほど優しく受け止めていた。
少し離れたところで、係員ロボットが横倒しになっている。胸部パネルは外れ、片腕は関節から妙な角度で折れ、まだ生きている音声だけが壊れかけの玩具みたいに繰り返していた。

「おきゃくさまぁ……困りま……すよぉ……ID未確認の……ご利用はぁ……」

 透が壊した。入れなかったからだ。入れなかったのに、どうしてもここに戻ってきてしまったからだ。ミナトと笑った場所に、ミナト抜きで。

CHALLENGER。

 急に巨大な表示が空中に現れた。と、同時に。

「お客様ぁ、困りますよぉ」

 今度は、ちゃんとした人間の声だった。しかも聞き覚えのある、場違いなほど落ち着いていて、規律正しく、人を食ったような抑揚が腹立たしい声。
透は顔も向けなかった。

 「捕まえたければどうぞ」

 「俺のこと、警察か何かと勘違いしてねえか?」

 黒瀬は壊れた係員ロボットを足先で少し避け、透に近づいた。

 「ミナトは?」

 「知らねえ」

 黒瀬がわかりやすく息を吐いた。透に聞かせることが目的のため息。

 「見込み違いか。調律者を調律できる、もう一つの音叉だと思ったんだが」

 「は?」

 透はようやく黒瀬を見た。

 「俺は白砂のお嬢様と違って、特別な力もIDも持ってねえよ」

 黒瀬の目が、ほんの少しだけ冷えた。怒ったというより、残念そうだった。

 「お前、嫌な大人になりかけてるぞ」

 透は黙った。白砂のお嬢様。口に出した瞬間、自分でも分かっていた。嫌な言い方だ。ミナトが聞いていないからいい、という種類のものではない。聞いていない場所で人を汚す言葉を選ぶ時、人間はもう十分に汚い。

 「もうすぐ七十二時間だろ」

 透は起き上がらないまま言った。

 「あいつが戻らなきゃ、砂時計も、日本の偉そうな仕組みも終わる。だったら、それでいいじゃねえか。あいつも自由だろ」

 黒瀬はまたわざとらしく、深く、大きく息を吐いた。

 「これだからガキは」

 「あ?」

 「ゼンマイの切れた時計が、正しい時間を指すと思ってるのか」

 透の目が少しだけ動いた。

 「止まるか、壊れるかだ。壊れた時計は、誰も時間を教えてくれない。残るのは責任の押し付け合いと、力の奪い合いだけだ」

 黒瀬は透のそばまで来た。見下ろす角度は、真壁とは違った。上から支配する目ではない。起き上がれるか試す目だった。

 「白砂ミナトが、政府に追われなくなる一番簡単な方法は何だ」

 透は答えなかった。答えられなかった。答えが、喉のすぐ手前まで来ていたからだ。

 「信じていた相手に見放されて、母親の罪まで背負わされて、身体には一生消えない首輪がある。俺なら死にたくなるね」

 「やめろ」

 「あの子は琴弾へ向かった。母親が愛した海だ。死に場所としては、詩的すぎるくらいだな」

 「やめろって言ってんだろ!」

 透は跳ね起きた。拳を振る。黒瀬は避けなかった。手のひらで受け、関節をほんの少しひねる。本物の痛みが走った。ゲームの衝撃とは違う。血の通った痛みだった。

 「痛いか」

 「っ、痛えよ!」

 「あの子も、痛いって言えるようになったばかりだ」

 透の動きが止まった。影町で擦りむいたミナトの膝。血を見て驚いていた顔。あの時、自分はつっけんどんにあしらった。強がった。けれど、彼女は「ありがとう」と言った。痛い思いをしてまで守ったことを、ちゃんと見ていた。

 黒瀬は手を離した。

「走れ。分かった気になるのは後でいい」

「どこへ」

「西湾整備口。海へ出ろ。あとは、お前の足と口で何とかしろ」

「無茶言うなよ」

「無茶しかしてこなかった顔をしている」

 透は舌打ちして立ち上がった。体中が重い。それでも足は、さっきまでより少しだけ前を向いていた。

 VR世界を飛び出たところで、透は眼前の顔に驚き急ブレーキをかけた。立川すみれが、目の前に立っていた。黒い制服。乱れのない姿勢。だが表情だけが、以前とは違っている。任務の顔ではない。疑っている顔だった。

「黒瀬隊長」

 すみれは透ではなく、その後ろにいる黒瀬を見た。

「単独行動の理由を、お聞かせください」

「迷子の子どもを見つけた」

「その子どもは、対象の協力者です」

「だから迷子だと言っている」

 すみれの目が細くなる。尾けてきたのだと、透にも分かった。黒瀬の裏切りを確かめるために。あるいは、裏切りであってほしくないと確かめるために。 

 黒瀬は、すみれに向き直った。

「俺を信じる必要はない。だが、政府を信じることもするな。自分の目で確かめろ」

「命令ですか」

「まったく、AIみたいなこと言うやつだね」

 すみれは一瞬だけ黙った。次に、透へ歩み寄る。

「人間なので、方法は任せてもらいます」

「は?」

 すみれは透の襟首を掴んだ。細い腕なのに、力は強い。透の喉がぐっと詰まる。

「案内します。抵抗したら、引きずります」

「……政府側って、まともな案内できねえのかよ」

「できません。急いでいるので」

 黒瀬が少しだけ笑った。透は文句を続けようとして、やめた。襟を掴む手は乱暴だったが、進む方向だけは間違っていなかった。

(続く)

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