『炉岸に泣く砂』④〜未来ゲーセン〜

 存在しない魚は、夜に運ばれる。

 琴弾の漁師が獲る魚の一部は、漁協の帳簿に載らない。獲った人間に戸籍がないからだ。存在しない人間が獲った、存在しない魚。けれど味だけは、この国のどの養殖槽の魚より確かだった。日本最後の生きた浜で育った天然の魚は、闇の中を静かに東へ運ばれて、口にする資格のある人間の皿に、最高値で載る。その皿がある街の名前を、透は荷台の暗がりで初めて実感として聞いた。

「東京湾出島区。着くのは夜明け前だとよ」

 保冷車は無人だった。運転席そのものがない。シゲ爺が発泡スチロールの箱を積み込みながら、行き先の登録画面を骨ばった指で叩き、最後に箱の隙間へ透とミナトを押し込んだ。

「魚に化けとけ。検問は通らんルートだが、念のためだ」

「爺さん、この車、なんで止められねえの」

「存在しない魚を運ぶ車はな、存在しない扱いなんだよ。国のお偉いさんも食うんだ、この魚」

 シゲ爺はそう言って、歯の抜けた口で笑った。

「ヤマトによろしくな、とは言わん。あいつは礼を言われると逃げる」

 扉が閉まり、世界は冷たい暗闇になった。荷台の中は魚と氷の匂いがした。ミナトはヤマトのパーカーにくるまって、箱と箱の間に膝を抱えて座っていた。吐く息が白い。透は自分のパーカーの前を開けて、少し迷ってから、言った。

「……寄れ。凍えるぞ」

「寄る」

「くっつけって意味だよ。深い意味はねえからな」

 ミナトは素直に肩を寄せてきた。細い肩だった。骨の位置がそのまま分かる肩だった。透は歯を食いしばって前だけを見た。深い意味はない。ないと決めた。決めたのに、心臓のやつが勝手にうるさかった。

 車が走り出して一時間もすると、ミナトの頭が透の肩に落ちてきた。眠っていた。浅い眠りの中で、ミナトの唇がかすかに動いていた。声は出ていない。息だけが、ひそやかに旋律をなぞっている。海がどうとか、砂がどうとか、そういう歌に聞こえた。透の知らない歌だった。古いのに、なぜか浜の匂いがする歌だった。

 透は聞かなかったことにした。ただ、肩だけは動かさないでおいた。

* * *

 夜明け前、車は湾の底へ潜った。

 真新しい湾底トンネルの脇に、忘れられた保守路が残っている。ヤマトの地図にあった古い搬入路だ。照明の半分は死んでいて、路面のひび割れを無人車のタイヤが几帳面に避けていく。やがて車は止まり、扉が開くと、そこは出島区の腹の底だった。

 搬入区画。湯気と、油と、魚の匂い。自動フォークが箱を吸い上げていく横で、人間の料理人が数人、黙々と下処理をしていた。白い調理服の袖から覗く腕は、日に焼けて、傷だらけだった。この街の光る側には出られない腕だと、透にはひと目で分かった。

 一番年かさの料理人が、箱の間から出てきた二人を見た。何も聞かなかった。ただ、顎で階段の方向を示し、また魚に戻った。

 階段を上がり、業務用の扉を押し開けた瞬間、世界が裏返った。

 光だった。

 夜明け前だというのに、街は昼より明るかった。ガラスと白い複合材の塔が、海の上に林のように立っている。塔と塔の間を透明なチューブが走り、その中を車両が音もなく流れていく。広場の噴水は水ではなく、細かい光の粒を噴き上げていた。空気は甘い。花の匂いと、焼き菓子の匂いと、名前の分からない上等な匂い。

 海上デッキには、屋台が並んでいた。屋台といっても、影町の鍋とは違う。自動アームが握る寿司、AIがその日の気分に合わせて調香する香水、脳波に合わせて色が変わる綿菓子。何でも清潔で、何でも高かった。空には歓迎の文字が、八カ国語で浮かんでいる。高級ホテルの壁面を、水の映像が滝のように流れ落ちていた。

「雨を、飾ってる」

 ミナトが、水の壁を見上げて言った。

「金持ちは、濡れない雨が好きなんだろ」

 透は答えた。

 江戸の昔、鎖国した日本が世界へ開けた唯一の窓は、長崎の出島だった。二百年あまり経って、炉岸で国を閉じたこの国は、同じ名前をもう一度使った。東京湾出島区。外国の富裕層と、企業と、外交官と、特別な貨物だけが通される、覇権国家の玄関。世界中の金が、この人工島に落ちる。そして皮肉なことに、日本で唯一「よそ者」が風景の一部である街でもあった。肌の色も言葉もばらばらな観光客の群れの中で、薄汚れた少年と、フードを被った少女は、かえって目立たなかった。

 翻訳ドローンが一機、ミナトの前をふわりと横切り、電子音で何かを話しかけて、手を振った。ミナトが振り返そうとする。

「振り返すな。向こうも仕事だ」

 透はその手を押さえた。

「なんだよ、これ……」

 透は立ち尽くした。怒ろうと思っていた。ここにあるもの全部が、琴弾から吸い上げられたものの成れの果てだと知っていたから。なのに、喉の奥から先に出てきたのは、怒りではなく、ため息だった。きれいだった。腹が立つほど、きれいだった。

 人の流れが濃くなる。ミナトの足が乱れた。人混みというものを、彼女の身体は知らない。誰かの肩がかすめるたび、びくりと震える。

「おい、大丈夫か」

「人が、多い」

「はぐれんなよ」

 ミナトは少し黙ってから、言った。

「手、繋いでもいい?」

 透の足が止まった。

「十八歳は、誰かと手を繋いでもいい年って」

「……誰に習ったんだよ、それ」

「お母さん」

 透は何も言えなくなった。それから、乱暴にミナトの手を掴んだ。細くて、冷たい手だった。

「はぐれたら面倒だからな。それだけだからな」

「うん」

 ミナトは頷いた。握られた手を、不思議そうに見ていた。転ばないための手でも、逃がさないための手でもない手を、彼女はまだ数えるほどしか知らなかった。

 沖合に目をやると、白い作業機械がいくつも浮いていた。人間は乗っていない。四本脚の建設AIが海面に立ち、海底へ伸びる柱を打ち込んでいる。鉄の杭が沈むたび、水面が丸く盛り上がった。作業灯は静かで、怒鳴る人間も、汗を拭う人間もいない。昔なら何百人もの労働者がいたはずの場所に、機械の足跡だけが増えていく。

「人が、いない」

 ミナトが言った。

「いるよ。あれ作ったやつとか、命令出してるやつとか、金もらってるやつとか」

「ここには?」

「ここには、要らないんだろ」

 透はそう言って、自分で嫌な気持ちになった。要らない。影町の人間が一番聞き慣れた言葉だった。口に出さなくても、制度がそう言う。

 海沿いの遊歩道に出ると、湾の向こうに、ひときわ高い白い塔が見えた。

 ミナトの足が止まった。

「あの塔」

「でけえな。……中枢ってやつだろ、あれが」

「私の部屋が、ある」

 透は横顔を見た。ミナトは塔を見ていた。怯えているというより、身体の芯が勝手に姿勢を正してしまうような、嫌な静けさだった。

「……行くのか、あそこに」

「うん」

「怖くねえの」

「怖い」

 ミナトは即答した。それから、母の言葉を思い出すように付け足した。

「でも、その先を知りたい」

 透はポケットの中のカードと、ヤマトの地図を握った。忍び込むなら夜だ。ヤマトの裏道へ入るのは、観光客が引き上げる時間帯がいい。つまり、それまでは時間がある。時間が余るというのは、透の人生であまりなかったことだった。

「……寄り道すんぞ」

「寄り道?」

「夜まで時間を潰す。それだけだからな」

* * *

 未来ゲーセン、と呼ぶのが正しいのかは分からない。入口の看板には多言語で長い正式名称が光っていた。

 BAY─ARENA。

 現実の身体で遊ぶ、全感覚型アミューズメント施設。透の頭の中では、ガキの頃に動画で百回見た「都会のゲーセン」の完成形だった。

 吹き抜けの空間に、光の柱が何本も立っている。柱の一本一本がゲームの筐体で、中では観光客が身体ごと仮想空間に浸かって、飛んだり殴ったり歌ったりしていた。天井近くには順位表がオーロラみたいに流れている。

 入口はゲートになっていた。子どもたちが、手首の端末をかざすだけで、次々と通っていく。

 透の足が、ゲートの手前で、勝手に止まった。拒否されることには、慣れている。だが、慣れているから傷つかないわけではない。IDのない人間がゲートの前に立つ時の、あの、機械に値踏みされて弾かれる一瞬が、透は何より嫌いだった。

「……やっぱ、やめとくか」

 透がそう言いかけた時、ミナトが先に、一歩、前に出た。ミナトは、自分が入れるとは思っていなかった。ただ、光る柱に近づいてみたかっただけだった。仕組みなんて、何も分かっていない。

 ゲートの青い光が、ミナトの胸元から背中へ、薄く走った。画面に、短い表示が出た。

 特別保護ID確認。

 同伴者一名、許可。

 扉が、開いた。透は、その開く音を聞いた。今まで、自分の前では、決して開かなかった音だった。

 透は、すぐには動けなかった。

 ミナトは端末も持っていない。手首には何も巻いていない。それなのに、彼女の身体そのものが──あの首の後ろの、白い痕が──この街の機械と、勝手に握手をしている。炉脊に、IDが組み込まれているのだ。彼女は、生まれた時から、逃げ出した今も、システムの一部として、この国に登録され続けている。その事実は、悲しかった。

 だが、透は、扉の表示を、もう一度見た。

 同伴者一名、許可。

 透は、ふいに、喉の奥が詰まった。なぜ、同伴者が許可されるのだろう。ミナトは、白い部屋に一人きりだった。友達も、遊びも、連れも、いなかった。それなのに、彼女のIDには、「誰かと一緒に来た時のための席」が、最初から一つ、用意されている。このIDを、ミナトの炉脊に組み込んだ誰かは──たぶん、母親は──いつか、この子が、誰かと二人でこういう場所へ来て、楽しい時間を過ごす日を、夢見ていたのではないか。白い部屋から出て、隣に誰かがいて、笑う日を。叶うはずのないその願いだけが、システムの片隅に、一行、残っていた。透は、その席に、今、自分が座ろうとしていることに気づいた。

「……行くのか、行かないのか、どっちだよ」

 自分に言い聞かせるように、透は言った。

「これがその人の望みなら、俺が使ってやる。ついでに、俺も遊ぶ。時間潰しだ。それだけだからな」

「時間潰し」

「そう。復唱すんな」

 透は、開いた扉をくぐった。

* * *

 最初に二人がやったのは、反射神経を競うゲームだった。空中に現れる光る魚を、手で捕まえる。捕まえた瞬間、手のひらに小さな振動が返る。子ども向けの簡単なものらしい。

 透は、七匹捕まえた。
 ミナトは、一匹も捕まえられなかった。

「魚、逃げる」

「そりゃ逃げるだろ。捕まるために出てきてねえんだから」

「でも、ゲーム」

 次の魚が出る。ミナトは両手で包むように捕まえようとして、魚の映像を、そっと胸に抱きしめる形になった。当然、すり抜けて逃げられた。

「捕まえる気あんのか」

「傷つけないように」

「映像だぞ」

「でも、魚の形をしてる」

 透は、頭を掻いた。

「琴弾の生きた魚見たら、お前、驚くかもな」

「魚で?」

「いや……なんでもねえ。行くぞ」

* * *

 次に透が選んだのは、一番大きな光の柱だった。VRの、三次元アクションアドベンチャー。二人一組で、仮想の遺跡を攻略し、最後に待つ巨大な守護者を倒す協力プレイだ。

 透は、こんな最新のゲームを、当然、やったことがない。だが、動画でなら、飽きるほど見ていた。金がなくて遊べないぶん、他人のプレイ動画だけは、千回でも見た。どのタイミングで敵が来るか、どこに罠があるか、頭には全部、入っている。あとは、野生の勘と──ミナトを守らなきゃならない、という一点が、透の身体を、驚くほど滑らかに動かした。

 仮想の遺跡を、二人は駆けた。透が前を走り、罠を避け、飛んでくる敵を蹴散らす。ミナトは、まるで戦力にならなかった。敵が来れば棒立ちになり、罠には引っかかり、そのたびに透が引き戻す。二人ぶんの体力ゲージが、みるみる削れていく。それでも、ミナトは、透の邪魔だけはしないように、必死についてきた。

 最深部で、巨大な守護者が現れた。鎧をまとった石の巨人。動画で、何百人ものプレイヤーが、ここで負けていた。

 透は、守護者の攻撃パターンを覚えていた。だが、一人では、決定打を与える隙が作れない。守護者の正面は、鉄壁だった。

 その時、ミナトが動いた。守護者の前に、両腕を広げて、立ちはだかったのだ。攻撃するためではない。ただ、立ちはだかっただけ。守護者が、一瞬、その小さな影に、動きを止める。何をする気か、機械が測りかねて、怯んだ。

 その一瞬の隙を、透は見逃さなかった。透は地を蹴り、立ちはだかるミナトの股の下を、滑るようにくぐり抜けた。守護者の死角の下から、渾身の一撃を叩き込む。

 守護者が、崩れ落ちた。

 空中に、大きな文字が浮かんだ。

 WINNER。

 光の紙吹雪が、二人に降り注いだ。

 透は、勢い余って、変な格好で着地していた。片足立ちで、両手を突き上げ、感電した案山子みたいなポーズで固まっている。

 それを見て、ミナトが──笑った。

 声を出して、笑っていた。肩を揺らして、目尻に涙をためて、自分でも止め方が分からないみたいに笑っていた。生まれて初めて出す種類の声を、彼女は光の紙吹雪の下で出していた。

「あは、は……なに、その、格好」

「うるせえ。勝ったんだからいいだろ」

「変なの」

 ミナトは、まだ笑いながら、透に手を差し出した。引き起こすための手だった。誰かに教わったわけでもないのに、彼女はもう、それを覚えていた。

* * *

 外のテラスで、透はソフトクリームを二つ受け取った。受け取ってから気づいた。支払いは、また、ミナトの認証が済ませていた。
 海の見えるベンチに並んで座った。夕方が近く、塔のガラスが蜂蜜色に染まり始めている。ミナトはソフトクリームを一口食べて、目を丸くした。

「甘い」

「だろうな」

「ケーキと、違う甘さ」

「そりゃ違うだろ」

 ミナトは、もう一口食べて、それから、確かめるように、ゆっくり言った。

「おいしい」

 透は横を見た。

「なくなるのが嫌、じゃねえの」

「嫌。でも、これは、もうひとつ、ある」

 ミナトは、自分の舌の上で、言葉を探した。

「冷たい」

「そりゃアイスだからな」

「冷たいのに、嫌じゃない」

 ミナトは、不思議そうに、スプーンを見つめた。

「冷たいは、悪い言葉だと、思ってた。白い部屋は、いつも冷たかった。人も、声も、冷たかった。……でも、これは、冷たいのに、いい」

 透は、少し黙った。この女にとって、「冷たい」という言葉が、ずっと悪い意味だったのだと、初めて分かった。

「……いい方の冷たさも、あるんだよ」

 透は、ぶっきらぼうに言った。

「暑い日の、井戸の水とか。夏の、夜の風とか。そういうのは、冷たくて、気持ちいい」

「冷たくて、気持ちいい」

「そう」

 ミナトは、その言葉を、大事そうに、口の中で転がした。それから、自分のソフトクリームを、透の方へ、そっと傾けた。

「分けると、いいんでしょ?」

「……は?」

「大事な火は、分けるものだって」

「火じゃねえだろ、それは」

「……」

 ミナトの手が、止まった。少し、しゅんとした顔をした。否定された、と思ったらしい。

 透は、慌てた。

「いや、そうじゃなくて。……そんな冷たい火は、ねえよ、って話で」

 言いながら、透は、差し出されたソフトクリームに、齧りついた。

「もらうけどな!」

 ミナトの顔が、ぱっと明るくなった。彼女は、自分の分が少し減ったソフトクリームを、満足そうに、眺めた。分けられた、ということが、嬉しいらしかった。

 目の前を、家族連れが通り過ぎていく。子どもが親の手を両側から掴んで、ぶら下がるように跳ねている。誰も飢えていない。誰も追われていない。街は清潔で、安全で、優しかった。

「……悪くねえな、こういうの」

 透は、ぽつりと言った。言ってから、自分で驚いた。

「琴弾のみんなも、こっち側に生まれてりゃ、シゲ爺の膝も治って、梅ばあも薬もらえて、学校も……。仕組みは、ちゃんと回ってんだよな、こっち側では」

 ミナトは何も言わなかった。ただ、透の言葉を一つずつ、ちゃんと聞いていた。

* * *

 その頃。
 湾の向こうの白い塔の、どこか深い階層で、ログが一行、目を覚ましていた。認証履歴。決済履歴。位置座標。機械は喜ばない。怒りもしない。ただ、報せる。報せを受け取る側の人間が、静かに立ち上がる。

* * *

 最初に気づいたのは、ミナトだった。

「トオル」

「ん」

「あの飛んでるの、さっきより増えてる」

 透は顔を上げた。広場の上空を、白い球形のドローンが三つ、ゆっくり旋回していた。観光案内用と同じ色。けれど、動き方が違う。見ている。探している。

 柔らかいアナウンスが、広場に流れた。

「安全確認を実施しております。皆さまは、その場でお待ちください」

 人々は素直に足を止めた。誰も不安がっていない。この街では、安全確認は本当に安全のために行われるものだからだ。
 透は、ソフトクリームの残りを口に押し込んで、ミナトの手を掴んだ。

「走るぞ」

「食べてる途中」

「悪い! 走りながら食え!」

 二人は駆け出した。止まっている人の群れの中で、走る二人だけが浮き上がる。ドローンが一斉にこちらを向いた。広場の端から、黒いスーツの追手が歩き出す。走ってはいない。走る必要がないと知っている歩き方だった。

 透は、走りながら、ミナトのパーカーのフードを、頭からすっぽりと被せた。

「顔、隠せ。上から見られてる」

 フードの下で、ミナトが頷く。

 二人は、香水の宣伝をしている、巨大なホログラム広告の中へ、迷わず突っ込んだ。白い花が咲き、花びらの映像が、通路いっぱいに舞う。映像は触れない。けれど、追ってくるドローンのカメラには、一瞬、ノイズになる。透は、その理屈を知っていたわけではない。ただ、目くらましになりそうなものは、全部使う。

「見えない!」

 ミナトが叫ぶ。

「向こうも見えねえ!」

 広告を抜けると、動く歩道が、川のように流れていた。透はミナトの手を引いて、流れに逆らって走る。前から来る観光客が、次々と二人に驚いて避ける。追手のスーツが、人波に阻まれて、遅れた。

 途中、床を這う清掃ロボットが、ミナトのパーカーの裾を、ゴミと勘違いして吸おうとした。

「やめて」

「掃除されてる場合か!」

 透はロボットを蹴飛ばした。ロボットは抗議の電子音を上げて、その場でくるくる回り、後ろから来た追手の足に、見事に絡んだ。追手が、たたらを踏んで、転ぶ。

 動く歩道の終わりで、二人は、無人の屋台が並ぶ区画へ飛び込んだ。自動アームが、休みなく寿司を握っている。透は、積み上がった皿の山を、追手めがけて薙ぎ倒した。派手な音を立てて、皿が砕け散る。

「衛生違反です」

 屋台のAIが、律儀に言った。

「あとで謝る!」

「本当に?」

「今聞くな!」

 街のシステムは、豊かさのために、隅々まで自動化されている。だが、その自動化は、想定外の乱暴者には、驚くほど脆かった。清潔で、親切で、隙だらけ。透は、影町の路地を逃げる時と同じように、この街を、逃げ場として使い倒した。

 黒いスーツの追手が、それでも、しつこく食らいついてくる。だが、その数は、確実に、減っていた。街の親切な機械たちが、意図せず、二人に味方していた。

「この街、逃げやすくて助かるぜ!」

 透が、走りながら叫ぶ。

「助かる!」

「そこは『な!』でいいんだよ!」

 透は、ヤマトの地図を、頭の中で広げた。このまま表通りを逃げても、いずれ囲まれる。地図が示す裏道の入口は──あの、光り輝く高級ホテルの、裏手。従業員用の、目立たない通用口の、さらに奥。

「こっちだ!」

 透は、光の大通りから、細い脇道へ、身を翻した。脇道は、細くなるほど、光を失っていった。最初は、ただの従業員通路に見えた。だが、進むほどに、床の材質が変わり、天井が低くなり、あの甘い匂いが、消えていった。代わりに、湿った匂いがした。カビと、汗と、煮炊きの匂い。透が、よく知っている匂いだった。

 やがて、二人は、その場所へ出た。

 ガラスの高層ホテルの、すぐ裏側。壁一枚を隔てただけの場所に、別の世界があった。むき出しの配管。段ボールで仕切られた寝床。伸びた電線から、勝手に分岐した細い線。顔を上げない人間たち。積み上げられた、壊れた観光用のスーツケースの山。天井の隙間から、表通りの光が、糸のように漏れてくる。その細い光の下で、痩せた子どもが、膝を抱えて座っていた。

 透は、息を呑んだ。

 影町と、同じだった。

 海を越え、何百キロも離れた、日本で一番豊かなはずの街の、一番きらびやかなホテルの、壁の裏。そこに、琴弾の影町と、寸分違わぬ光景が、広がっていた。

「……同じ、なのか」

 透は、呟いた。東京まで来れば、貧乏は終わっているのかと思っていた。終わっていなかった。ただ、照明の下に隠す技術が、上手くなっているだけだった。表通りが眩しいほど、その裏の影は、濃く、深くなる。持っている街は、持たない人間を、見えない場所へ、より丁寧に、押し込めていた。

「トオル」

 ミナトが、フードの下から、その光景を見ていた。

「ここは、影町?」

「……いや。でも、同じだ。同じ場所。見せる向きが、違うだけだ」

 透は、ヤマトの地図を、握りしめた。この道を、ヤマトは知っていた。政府の人間が、地図から消したがる場所。消された道は、見張られない。だから、ここを通れと、ヤマトは言った。

 スラムの奥に、古い鉄の扉があった。地図の印は、その扉を指している。半分剥がれた看板に、かろうじて、文字が読めた。

 東京湾中枢施設・保守連絡路。

 追手の足音は、もう、聞こえなかった。あの華やかな表通りで、二人は、街のシステムごと、追手を振り切っていた。この、地図から消された道までは、誰も追ってこられなかった。透は、鉄の扉に手をかけた。カードをかざす。古い機械が、目を覚ます音がした。ロックが、ひとつ、ふたつ、奥の方で、外れていく。

 扉の向こうに、白い通路が続いていた。観光地の白ではない。ミナトが知っている白に近い。音を吸い、匂いを消し、人間の足音だけを、余計なものとして浮かび上がらせる、あの白だった。

 ミナトの手が、透の手を、強く握った。

「大丈夫か」

「……ここ、似てる。白い部屋に」

「似てても、同じじゃねえ」

 透は、握り返した。

「俺がいる」

 言ってから、透は、顔が熱くなった。二人は、白い通路へ、足を踏み入れた。扉が、二人の背後で、静かに閉じた。

* * *

 その頃、黒瀬は、華やかな大通りの真ん中で、一人、立ち止まっていた。

 部下たちは、まだ、あちこちで、割れた皿だの、暴れる清掃ロボットだのに、足を取られている。肝心の子どもたちの姿は、もう、どこにもない。忽然と、消えていた。

 黒瀬は、二人が滑り込んでいった、細い脇道の方を、見た。あの奥に、地図には載っていない古い道があることを、黒瀬は知っていた。知っていて、あえて、追わなかった。

「……なかなか、やるじゃん」

 黒瀬は、誰にともなく、呟いた。口の端が、少しだけ、上がっている。

「一芝居、打とうと思ってたんだけどなぁ」

 わざと追い詰めて、わざと逃がす。そういう筋書きを、用意していた。だが、あのガキは、その筋書きが要らないくらい、上手く逃げてしまった。黒瀬は、コートの襟を正した。それから、ゆっくりと、別の道へ歩き出した。中枢へは、彼にしか通れない、正規の道がある。

 あの二人より、先に着くために。

(続く)

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