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実話を元にした小説『白い悪魔と黒衣の法廷 ― 十二年目の春 ―』【第一部完結版】

< あらすじ >

度重なる不当解雇、過酷な退職強要、多数回に及ぶ裁判、最高裁――。

本作は、実際の事件を元に描かれる、視能訓練士・ミオの十二年に及ぶ壮絶な闘いの物語である。

平穏だったミオの人生は一瞬で破壊された。
その陰には「白い悪魔」の存在。

彼女は、働きながら法学を学び、本人訴訟に挑む。

絶望の淵、黒衣の法廷は静かに告げた――「君の力になりたい」。

嘘と裏切りが渦巻く法廷の果てに、ミオが目の当たりにした正義とは何か。本当の「白い悪魔」とは。

実話を元に描く、リーガル・ヒューマンドラマ第一部。

※本作は、note連載中『白い悪魔と黒衣の法廷 ― 十二年目の春 ―』第一部(第一話〜第五十話)を、創作大賞応募用に再構成・加筆修正した第一部完結版です。



第一幕 

第一話 白い日傘

電車は、いつもより少しだけ騒がしかった。

向かいの座席で、女子高生たちが笑っている。
制服のリボンが揺れ、スマートフォンを覗き込みながら、

「ねえ、日曜お花見しよ!」

「駅前の桜、もう満開だって!」

弾ける声が、車内の空気を軽くする。

ミオは窓側の席で、黒いファイルを膝にのせていた。
資料の角が、きっちり揃っている。
指先だけが、冷たい。

今日は労働審判の日だった。

元従業員からの申し立て。
直属上司によるハラスメント。
発症した鬱。退職。
そして会社への損害賠償請求。

会社側担当者として、社長とともに出席する。

審判でまとまらなければ、訴訟に移行する。
裁判になれば――長い。

長い。

その言葉が、胸の奥で鈍く反響した。

ミオは法務担当三年目。契約書、コンプライアンス、労務問題。
感情ではなく、事実で考えることを覚えた。

それでも今日は、憂鬱だった。
ハラスメントは、おそらくあった。
証言も診断書もある。
だが会社として全面的に非を認めるわけにはいかない。

正しさは、いつも一枚ではない。

電車がカーブを曲がる。
車窓の向こうに、桜並木が現れた。
淡い桃色が、春の光を透かしている。

「うわ、きれい!」

女子高生の声が遠くで弾む。

ミオは顔を上げた。

桜。

胸の奥が、かすかに軋む。

十二年前も、春だった。
あのときも、桜は咲いていた。

――私が、クニヒコに初めて会った日。

大学病院を辞めた春。
連日の深夜残業。睡眠は四時間。
限界だった。

三月末で退職し、四月からはスーパードクターと有名な眼科クリニックへ。給料は二倍以上。

期待と、不安。
そして、少しの誇らしさ。

入職当日。
その後に待っていたものを、当時の私は知らなかった。

クニヒコは、東京の有名公立病院に勤める眼科医師。
クリニックには非常勤で月に数回。
網膜硝子体の専門医。
腕が良く、評判も良かった。

勉強熱心だった私は、彼に質問をするようになった。
彼は言った。

「手術のビデオ、一緒に見ようか」

「君の家でいいよね?」

仕事の延長。
そのはずだった。

部屋に入るとき、わずかな躊躇があった。
だが彼は紳士だと聞いていた。

私は若かった。
彼は、言葉が巧みだった。
境界線を、静かに曖昧にしていく人だった。

いつしか私は、自分に起きたことを正当化しようとしていた。

人は、受け入れがたい現実を「選んだ」と思い込もうとするらしい。
それを恋だと、錯覚した。

関係は長くは続かなかった。

彼には、妻がいた。
嫉妬深く、美しい妻。
リカコ。

「君のような子と結婚すればよかった」

彼はそう言った。

信じたのは、私だ。

ある日、電話が鳴った。

彼の声は、興奮していた。

「妻が手首を切った」
「嫌がらせ電話をやめろ」
「お前は人殺しだ」
「仕事を辞めろ」

私は、何もしていなかった。

やがて院長ヒサシに呼ばれる。

「強姦なんてあり得ない、不倫だと言っている」

「夫の出勤日は休め」

「会わせられない」

私は従った。

理由も説明できず、休み続ける日々。
周囲の視線が変わっていく。

携帯には、リカコからの着信。
執拗なコール。

怖かった。
何が起きているのか分からない。

やがて私は、復帰した。

すると院長は言った。

「離婚するらしい」

「最後に話したいそうだ」

電話に出る。

「クニヒコの家内です」

落ち着いた、上品な声。

「明日、十四時にお会いできないかしら」

「私、離婚したいの」

「あなたと二人で話したいの」

待ち合わせは、駒沢大学駅前のカフェ。

当日。

初夏の、日差しがまぶしい日だった。

四十歳前後の、美しい女性がゆっくりと近づいてくる。

白い絹のブラウスとスカート。
白い日傘。

その女性は立ち止まり、空を見上げた。

その横顔は、とても美しく整っていた。

次の瞬間、白い日傘が開いた。

光を遮る、完璧な円。

白い布が光を遮り、彼女の表情は影に沈んだ。

白。
潔白の色。
正しさの色。
被害者の色。

あの瞬間を、私は忘れられない。
まるで白い悪魔が、太陽に正体を暴かれるのを恐れているかのようだった。

けれど

――本当に光を恐れていたのは、彼女だったのか。
それとも、私のほうだったのか。

私と目が合うと、優しく微笑んだ。

「ミオさん……」

柔らかな声。

ミオは立ち尽くすままだった。


第二話 土下座と念書

「暑いのに、ごめんなさいね」

奥のテーブルへ案内される。

そこにいたのは
――クニヒコだった。

「俺は騙されたんだ」

「手術を勉強したいと言われて、仕方なく部屋に行った」

席に着くや否や、彼は必死に弁解した。

「そうなのね」

リカコは穏やかな声で頷く。

「ミオさん、部屋に入らせたのはあなたよ。合意があったとしか言えないわ」

静かな断定だった。

「私はあなたたちのせいで、自殺を考えるくらいショックを受けたの」

「私がしっかりしてなかったから、長男は中学受験に失敗した」

「あの子の将来は変わってしまったわ」

「離婚したいの」

淡々と積み上げられる言葉。

そして。

「責任として、クリニックは退職していただくわ」

「慰謝料は一千万円。とりあえず今すぐ五百万円」

リカコは立ち上がり、窓の外を見た。

「あと少しで銀行が閉まるの。急いで」

思考が追いつかない。

「あなたが今考えるべきことは、五百万円を支払うことだけ」

せかされる。

確かに口座には五百万円あった。
通帳の残高は、クニヒコが知っている。

きっと、もう伝わっている。

奨学金は三百万円残っている。
退職すれば、生活はどうなる。

弁護士の言葉がよみがえる。

――離婚するなら三百万円。
――しないなら五十万から百万円。
――あなたの場合は、十万円になる可能性もある。

「弁護士さんは、十万円だと……」

その瞬間、リカコの表情が崩れた。
美しい顔が、鬼よりも冷たいものに変わる。

「話を持ち帰らせてください」

店内の空気がざわめく。

「わかったわ」

リカコは微笑んだ。

「でも、もう弁護士には相談しない方がいいわよ。弁護士って繋がっているの」

「あなたも、いつか結婚するでしょう?」

脅しは、ささやき声で行われた。

カフェを出た後の記憶はない。
ただ、クニヒコが最後まで目を合わせなかったことだけが残っている。


数日後。

院長ヒサシの部屋。
七階。
防音の個室。

「お前、慰謝料払ってへんやろ?」

開口一番、それだった。

「家族で海外旅行に行きたいんやって」

「五百万円払ってやるのが当然やろ」

「三百万円が限度です」

「そもそも離婚するのでは?」

ヒサシの目が、一瞬泳ぐ。

――やはり、騙していたのか。

「そんなこともうええ!」

机を叩く音が、防音の壁に吸い込まれる。
音だけが消え、怒気だけが残る。

「お前、辞めるんやろ?」

「後任はもう見つけとる」

そこで初めて、“退職”が既定路線であることを知る。
逃げ道は、もう作られていた。

数日後、アキナが入職した。
白衣と強い香水。
昼のクリニックに、夜の匂いが混ざる。

「私の後ろには院長がいますから」

視線は、笑っていない。
指導を拒み、逆に告げ口される。

再び、七階。

「アキナが辞める言うとる」

「お前がちゃんと教えへんからや」

「弾劾裁判や!」

ヒサシが携帯電話を取り出す。

「先生?待ってたよ」

「ねえ、ミオさんとの話はもう終わったの?」

微かに聞こえる甘い声。

突然、スピーカー通話。

「私が覚えられないのはミオさんのせいです」

「ほらみろ!お前のせいや!」

部屋は静かなのに、鼓動だけがうるさい。
逃げ場がなくなる。

一時間以上の監禁。
自己都合退職の念書を書けと迫られる。

「お前が黙って辞めれば全部済むんや!」

言葉の意味は曖昧なのに、脅しだけは鮮明だった。

土下座。
床の冷たさだけが現実だった。

泣き崩れるミオを見下ろしながら、
ヒサシは白衣のズボンのベルトに手をかけた。

「最後やし、ええやろ?」

「アキナは口が最高や」

「お前も本当はこういうの好きなんやろ」

空気が、止まる。
視界が、白くなる。

ミオは扉を開けて逃げた。

防音の部屋を出た瞬間、怒鳴り声が廊下に響く。
さっきまで吸い込まれていた声が、世界に漏れた。

その日を最後に、ミオはクリニックへ戻らなかった。


第三話 絶望

カーブとともに桜並木が通り過ぎていく。
電車が揺れる。

ドアが開き、人が飛び出す。
車内にこもっていた音が外へ押し出される。
満員電車の中で、人が人を押しのけていく。

鞄の中の書面が、少しだけ顔を出した。
今日の労働審判の資料。
元従業員が会社に宛てた内容証明。

——私も、かつて内容証明を送ったことがある。何度も。
紙の端を押さえながら、あのときのことを思い出す。


十二年前。
クリニックを飛び出した日。

ミオの携帯に、公衆電話からの着信。

胸がざわついた。
おそるおそる出る。

「大丈夫か?」

クニヒコだった。

「どうして今まで何も連絡してくれなかったの?」

「妻に携帯を奪われて、連絡ができなかったんだ」

困ったような声。

「奥さんが手首を切ったって言われて、ずっと怖かった」

「それに私は、嫌がらせ電話なんてしてない」

涙がこぼれる。

「自殺未遂のことは、もう心配する必要はない」

言葉が一瞬、濁った。

「嫌がらせ電話っていうか、無言電話だよ。君と出会う何年も前からあったんだけど…」

「病院にいるときにリカコから『手首を切った』『嫌がらせ電話を止めさせて』ってメールが来て、俺も動揺してたんだ」

弁明。
すべてが弁明。

「それより相談があるんだ」

「リカコからパイプカットを強要されていて困っている」

言葉が遠のく。

「君とは最後までしてなかったって、リカコに言ってほしい」

「子どもができたら困るから、最後までしないって俺が言ってたって」

——この期に及んで、保身。

ミオは絶句した。

「ミオ?この件が落ち着いたら、また会おう。今度はうまくやるよ」

無言で、電話を切った。

すぐにまた着信。
今度はリカコ。

「退職してくださったようね。ありがとう」

「あなたも退職して生活が大変でしょう。私も考え直したのよ。二百五十万円でいかが?」

最初の一千万円から、ずいぶん下がった。

「離婚しないって聞きました。だったら二百五十万円は高すぎます」

リカコは、声色を変えない。

「離婚はしたいの。でも、できないの。嘘は言っていないわ」

確かに。
あのとき彼女は「離婚したい」と言った。
「離婚する」とは言っていない。

弁護士の入れ知恵。
慰謝料を釣り上げるための言葉の設計。
何も信じられなくなった。

電話を切る直前、かすかに聞こえた。

「銀行が——」

その後、労働局へ相談した。

職員は最初、面倒くさそうだった。
だが話し始めると、涙が止まらなくなった。
屈辱が、次々に蘇る。

「このクリニックは記録に載せておきます」

「あとは弁護士に相談してください」

バツの悪そうな表情。

退職後、食事が喉を通らなくなった。
眠れなくなった。

初めてのメンタルクリニック。
向精神薬が二種類。
やっと眠れた。

新しい弁護士。
開業したばかりの、正義感に燃える男——タケウチ。

相談中も涙が止まらなかった。

「許せない!」

「一緒に闘いましょう!」

心強い言葉。

その場で委任契約書にサインをした。
——けれど、どこかに小さな違和感。

タケウチはすぐに内容証明を送った。
回答期限は五日間。

「短く区切って焦らせるんです。相手は悩みますよ」

だが——
五日目の午後、回答書は届いた。

期限ぴったり。
焦らせたはずの相手は、焦っていなかった。
封筒は薄い。

タケウチが差出人欄を見て、手を止めた。

相手方代理人
弁護士 カワムラ。

空気がわずかに変わる。

タケウチは戸惑っていた。

人権派。
共産党関係。
地元弁護士会の会長。
ベテランの大物弁護士。

——十年後、勲章を受けることになる弁護士だ。

封を切る。
中の紙は一枚。
そこに書かれていたのは、ただ一文。

「慰謝料を支払う意思はない」

それだけだった。

そして最後に。

「某医師の妻は吐血下血を繰り返しており、危険な状態にある」

脅しでもない。
弁明でもない。
事実を、置いただけ。
最初から結論は決まっていたのだろう。

タケウチは黙り込んだ。
力量差。

不思議と、ミオは動揺しなかった。
手首を切ったと聞いたときは、あんなに揺れたのに。
今は、何も感じない。

「もう、裁判で進めるしかないですよね?」

自分でも驚くほど、静かな声だった。

だが、裁判はすぐには始まらなかった。
訴状を書くのに時間がほしいと言われて、四か月。
連絡するたび「事件が渋滞している」とだけ返ってくる。

半年以上が過ぎた頃。

「訴状ができました。提出しました」

届いた訴状を読んで、ミオは凍りついた。

感情論だけ。
法律論が、ない。

翌日、裁判所へ行った。
そして、訴訟を取り下げた。


電車が大きく揺れる。
桜並木が、窓の外を流れていく。

鞄の中の、今日の労働審判の資料。

——あのとき、私は当事者だった。
今は、会社側の担当者。
立場は変わった。

けれど。

紙の向こうにいる誰かの絶望を、私は知っている。

電車は、ゆっくりと次の駅へ滑り込んだ。


第二幕

第四話 紙

クリニックを退職したあと、ミオはすぐに転職活動を始めた。

視能訓練士は少ない。
求人もある。
本来なら、転職に困る職種ではなかった。

だが、決まらない。

面接では好感触だった。
「ぜひ来てほしい」と言われる。
それでも数日後に届くのは、丁寧な不採用通知だった。

理由はいつも曖昧だった。

「総合的判断で」

「他の候補者との比較の結果」

ミオは、何かが回っているのを感じ始めていた。

やがて一件だけ、採用通知が届く。

医療系専門学校。
視能訓練士科の専任教員。

だが、その学校には過去があった。
補助金不正受給で問題になり、新聞にも載った学校。

それでも、他に選択肢はなかった。
ミオは引き受けた。

教壇に立つと、不思議と落ち着いた。
学生は真剣だった。
実習の質問も多い。

「先生の授業、わかりやすいです」

その一言が、ミオを支えた。

今度こそ、普通に働こう。
それだけを願っていた。

面接時の条件は明確だった。
試用期間三か月。
月給三十万円。
終了後は三十三万円。

ミオはメモに残していた。
だが雇用契約書は、なかなか渡されなかった。

「理事長の確認がまだで」

「もう少し待ってください」

働き始めてから1ヵ月を過ぎ、ようやく事務長に呼ばれた。

「できましたよ」

差し出された契約書。

そこには、
試用期間後も月給三十万円
と記載されていた。

「面接では三十三万円と説明を受けました」

ミオは静かに言った。

事務長は眉をひそめた。

「細かいですね」

「給料は上げるつもりです」

「信じられないなんて、失礼じゃないですか?」

ミオの胸の奥が冷えた。
また、口約束。
また、書面に残らない言葉。
——もう労働トラブルは嫌だった。

「契約書の記載を修正していただけませんか」

懇願に近かった。

だが事務長は首を振った。

「めんどくさい」

それで話は終わった。

学校法人の代表者であり理事長は、ムラタという。
登記簿にも、そう記載されている。
だが履歴事項を遡ると、過去の代表者欄には別の名前があった。

李。

名前が変わっている。
理由はわからない。
だが、紙の上で人は姿を変えるのだと知った。

契約書への署名を、ミオは保留し続けた。

すると空気が変わった。
視線が冷たい。
やがて噂が聞こえてきた。

「前の職場で裁判を起こしたらしい」

「問題のある人だって」

ヒサシ院長だった。
逆上した彼があちこちで吹聴していた。

「不倫女」

「加害者のくせに裁判」

「金を要求する女」

——そして
「奥さんを自殺に追い込んだ女」

だから転職が決まらなかったのか。
ミオはようやく理解した。

ある日、事務長室に呼び出された。

机の上に一枚の紙。
法人実印。

「解雇通知書」

理由。
雇用契約書に署名しないため。即日解雇。

「今日で終わりです」

「すぐ荷物をまとめてください」

あまりにあっけなかった。

ミオは紙を見つめた。
怒りは湧かなかった。
代わりに、静かな決意があった。

ミオは労働局にあっせんを申し立てた。

だが学校側は出席しなかった。

「応じる必要はない」

理事長の意向だと伝えられた。

そこで、ミオは弁護士に依頼する。
オバタという弁護士だった。

「法的には争えます」

それが彼の口癖だった。
慰めはない。
共感もない。
だが、必要なのはそこではなかった。

オバタは分厚い六法を閉じ、静かに言った。

「労働審判は三回で終わります。非公開です。話し合いが中心になります。ただし――甘くはありません。」

ミオは小さく息を吸った。

裁判ではない。けれど、遊びでもない。

「お願いします。」

その一言で、もう後戻りはできなくなった。

扉の向こうにあるのは、傍聴席のない、小さな部屋だ。


第五話 白

裁判所の廊下は、ひどく白かった。

その白の中に、さらに異質な白が現れた。

全身白のスーツ。
白い帽子。
胸元に太い金のネックレス。
両手には、いくつもの金の指輪。

理事長ムラタだった。

その後ろに、事務長オオバヤシ。

そして、タイトスカートに高いヒールを鳴らして歩く女がいる。

人事担当のタニタ。

ムラタが立ち止まる。

「こっちも訴えるからな」
「1億取ってやる」
「詐欺女」

廊下に声が反響する。

タニタは小さく鼻で笑った。

扉が開く。

中は、会議室のような部屋だった。
傍聴席はない。
黒い法服もない。
裁判官はスーツ姿で座っている。
両脇に労働審判員二名。

柔らかな声が響く。

「今日は、話し合いによる解決を目指します」

「率直にお話しください」

微笑み。

「わたしの頭にまだ髪の毛があったころは、労働審判の制度はありませんでした」

「今は、当事者で話し合える」

「柔軟な解決ができます」

空気が少し緩む。

しかし、すぐに核心へ入る。

「では、本件は解雇なのか否か、その点から整理しましょう」

ムラタが即座に言う。

「解雇ではない」

「雇用契約書にサインしなかったからだ」

「自分で辞めたんだ」

タニタが勢いよく頷く。

「そうです」

「更新の意思確認をしただけです」

裁判官は、静かにオバタの方を見る。

オバタが一枚の書面を差し出す。

「こちらが法人実印の押された通知書です」

部屋が静まる。

そこには、はっきりと書かれている。

――解雇通知書。

法人実印が、赤く重い。

裁判官がゆっくり言う。

「これは、どなたが作成されましたか」

タニタの声が少し上ずる。

「形式上のものです」

「実質は退職です」

「解雇通知書という表題で?」

沈黙。

ムラタが机を軽く叩く。
金の指輪が硬い音を立てる。

「だから、辞めたんだと言ってるだろう!」

裁判官は微笑んだまま、視線を外さない。

「感情ではなく、事実で整理しましょう」

労働審判員の女性が穏やかに続ける。

「退職届はありますか?」

さらに沈黙。

タニタの視線が揺れる。
さきほどまでの攻撃的な目ではなく、計算が狂った顔だった。

ここでは、声の大きさは武器にならない。
紙が、すべてを語る。

非公開の部屋で、
矛盾が静かにあぶり出されていった。


第六話 審判書

審判書は、淡々とした文章だった。

主文。
相手方は申立人に対し、60万円を支払え。

理由は簡潔だった。
解雇通知書に法人実印が押されていること。
雇用契約書への署名拒否を理由とする「自己都合退職」との主張は採用できないこと。

事実関係はほぼ明白だった。
だからこそ、第一回で終わった。

通常三回かける労働審判が、一回で終結するのは珍しい。
審判員が証拠を一瞥した瞬間、結論はほぼ決まっていたのだろう。

ムラタは言い切った。

「納得できない。解雇ではない。自己退職だ」

実印付きの解雇通知書が存在するにもかかわらず。

ニ週間以内の異議申立て。
労働審判は効力を失い、事件はそのまま地方裁判所の通常訴訟へ移行する。

ミオの胸に、別の記憶が蘇った。

――クリニックの裁判。

あのときも、証拠は揃っていた。

だが、疲れ切って、取り下げた。
「もういい」と、自分で終わらせた。

正しかったのか、間違っていたのか、いまだに答えは出ていない。
夜中に思い出すたび、胸の奥がざわつく。

今回も、同じ道を選ぶのか。
六十万円で終わるのか。

ミオは、静かに言った。

「訴訟でいきます」

オバタが顔を上げる。

「いいんですね?時間もかかります。相手も本気で来るでしょう」

「今回は、逃げません」

それは金額の問題ではなかった。
解雇ではないと言い張る者に、解雇だと認めさせること。
事実を、判決という形で残すこと。

前回の取り下げは、心のどこかに未完のまま残っている。
今回は終わらせる。

静かな戦いが、始まった。

だが、ミオはまだ知らない。

このあと、
二度目の解雇が待っていることを。

そして、
三千万円の損害賠償請求――

典型的なスラップ訴訟が、牙をむくことを。
裁判は、まだ序章に過ぎなかった。


第七話 潮の匂い

東京地裁民事第十一部。

ムラタの白いスーツは法廷で異様な雰囲気を醸し出した。
弁護士はついていない。

裁判官が入廷する。

「それでは開廷します」

裁判官が期日進行を告げようとした、その瞬間。
ムラタが立ち上がる。

「裁判長」

書記官のペンが止まる。

「私は、はめられた!」

法廷が凍る。

ミオは俯いたまま。

「こんな若い女の子が、こんな訴訟を起こせるわけがない!」

裁判官が静かに言う。

「被告、着席してください」

「裏に誰かいる」
「私は昔、同じやり方を見た!」

声が反響する。

傍聴席がざわつく。

「これは個人の問題ではない!組織的な攻撃だ!」

裁判官の声は変わらない。

「主張は書面で提出してください」

ムラタはなおも立っている。
だが、誰も乗らない。
法廷は彼の激情を受け止めない。

期日はわずか二十分で終わる。
次回、書証提出。


夜。

理事長室。

探偵の報告書が机に置かれる。

アキナの経歴。
ガールズバー勤務。
ヒサシとの関係。
写真。
ネオンに照らされた横顔。

ムラタの指が止まる。

似ている。

遠い記憶が立ち上がる。
長崎。
潮の匂い。

ヨンヒはよく笑う子だった。

差別の言葉を浴びても、
「気にせんでよか」と笑った。

坂道を駆け上がり、振り向く。

「李、早よ来んね!」

その笑顔が好きだった。

だが守れなかった。

ヨンヒは中学卒業後、町へ出た。

スナック。
煙草の匂い。
既婚男。
子ども。

そして早すぎる死。

葬式の写真の中で、彼女は笑っていなかった。

ムラタは目を閉じる。

まただ。

若い女。
背後の男。
利用される構図。

「同じだ」

だがそれは彼の記憶の中の構図。

ムラタは知らない。

アキナは守られるだけの少女ではない。
欲望も計算もある。

だが彼の目には、ヨンヒしか映らない。
守れなかった少女。

今度こそ。

守る。
暴く。
敵を突き止める。


第八話 嵐の始まり

六月の雨は、東京の空を低く押し下げていた。

ミオは、都内の公立病院で非常勤の視能訓練士として働きはじめた。

久しぶりに、医療現場の空気を吸った。
検査室の薄暗さ、オートレフの電子音、患者の緊張したまなざし。

――ここなら、やり直せるかもしれない。
そう思えた。

同時に、川口のクリニックでも週一回のアルバイトを始めた。生活のためだった。

その頃、ムラタは別の場所で動いていた。

ミオの「身辺調査」と称して、関係先に接触していたのだ。

川口のクリニックにも、電話が入った。

「素行が悪い女」

「詐欺師」

「患者に危険が及ぶ可能性がある」

根拠のない言葉が、静かに、しかし確実に撒かれていった。

数日後。

診療が終わったあと、眼科助手で現場チーフのシノダが、ミオをスタッフルームに呼び止めた。

若い男性だった。いつもは明るく冗談も言うが、その日は目を伏せていた。

「……あの、ミオさん」

言葉が続かない。

「常勤の視能訓練士が入ることになって、ミオさんは……必要がなくなったって」

ミオは静かに聞いた。

「ミオさんのせいではないんです」

シノダの目に涙が浮かぶ。

ミオは、胸の奥で冷たい計算をしていた。

――これは、不当な契約終了。
合理的理由は示されていない。
客観的証拠もない。

だが、だからこそ。
証拠が必要だ。

その夜。

ミオは、パソコンの前に座り、メールを打った。

< 今日、6月末で契約終了と言われたのですが、急すぎて次のバイト先も見つかりません。生活があるので、困っています。契約終了を7月末まで伸ばしていただけませんか?シノダさんから院長に伝えてもらえますか? >

送信。

これでいい。

「6月末で契約終了と言われた」という事実を、文字で残した。

一方、ムラタ。

彼は次の手を打っていた。

さいたま地方裁判所に訴状を提出した。

「名誉毀損による損害賠償請求」

実態は、明らかなスラップ訴訟。
ミオを疲弊させるための訴え。

代理人弁護士はいない。
何人にも断られた。

だが、ムラタは自分で書いた。
感情を並べ、憶測を事実のように装い、長大な文章に仕立て上げた。

「慰謝料三千万円を請求する」

嵐は、始まったばかりだった。


第九話 同じ匂い

世田谷の高級住宅街。

黒いアイアンの門扉。
白い外壁。
1億円の家。

だが、玄関に立つ長男の制服は、濃紺のブレザーだった。
私立ではない。公立中学。

「行ってきます」

少年は淡々と言う。振り向かない。

リカコはその後ろ姿を見るたびに、胸の奥が焼ける。

――こんなはずじゃなかった。


夜。

ダイニングテーブルの上にワインボトル。

「ねえ、海外旅行に行かない?」

リカコは軽い口調で言った。

クニヒコはカルテの束から目を上げない。

「金がない」

即答だった。

勤務医の給与では、余裕はない。

リカコはグラスを揺らす。

「ミオさんから慰謝料をいただけばいいじゃない」

空気が止まる。

クニヒコがゆっくり顔を上げる。

「ふざけるな」

低い声。

「お前のせいでヒサシ院長は訴えられかけたんだ」

「うちの家庭のことにヒサシ院長を巻き込んだのは誰だ」

リカコは黙る。

クニヒコの声が震える。

「俺はパイプカットの手術も受けた」

その言葉は刃物のようだった。

拳がテーブルを打つ。

「どこまで人を追い詰めれば気が済むんだ!」

そして。

「この悪魔」

沈黙。
冷蔵庫の低い唸りだけが残る。


悪魔。

その言葉が、リカコの意識を二十年前へ押し戻す。

十八歳。
お嬢様女子大一年生。

慶応のインカレ。

目標はひとつ。

「いい男を見つけて奥様になること」

東大の男は冷たかった。

「君は面白くない」

「尊厳についてどう思っている?」

尊厳?
そんなもの、考えたこともなかった。

一方、慶応の男は優しかった。
難しいことは言わない。
雰囲気だけの言葉。

その中にクニヒコがいた。
距離が心地よかった。
同じ匂いがした。
逃げる匂い。

京都の有名産婦人科の一人息子。
父は世界的権威。
当然、継ぐものだと思っていた。

しかしクニヒコは言った。

「産婦人科は重い」

命と向き合うのが怖い。
眼科を選んだ。

リカコは二十五歳だった。
待った年月。
やり直すには遅い年齢。

「将来は開業するよね?」

「うん、まあ……そうなるんじゃないかな」

否定しなかった。
それだけで、信じた。

だが産婦人科は閉院した。
父は高齢だった。
夢は消えた。

勤務医のままの夫。
裏切り者。
私を大事にしない人。

だから子どもだけは。
いい学校に入れさせる。
それが私の証明。


翌朝五時。

まだ暗いキッチン。

クニヒコは静かにコーヒーを淹れる。
ネクタイを締める手が少し震える。

スマートフォンが震える。

< 昨日は大変でしたね。無理しないでください >

マドカ。
同年代の女医。
バツイチ。
子どもはいない。

彼女は「開業しないのも逃げじゃない」と言った。
「そのままでいい」と。

クニヒコは画面を見つめる。
しばらく動かない。

やがて、短く打つ。

< ありがとう。少し救われる >

送信。

玄関を静かに出る。
門扉が閉まる。

車は病院とは逆方向へ曲がる。
バックミラーの中で、豪邸が小さくなる。

二階のカーテンが、わずかに揺れている。

リカコは起きていた。
胸の奥に、冷たい確信が落ちる。

――まただ。
ミオだ。

慰謝料を取らないのも、裏でつながっているからだ。
私は騙されない。

リカコのスマートフォン。

「興信所 世田谷」
「浮気 証拠」
「別れさせ屋」

不穏なバナー広告が並んでいる。

窓の外では、公立中学の制服が角を曲がる。

豪邸の中は、静まり返っていた。


第十話 蛍光灯

第二回口頭弁論。

まだ裁判官は入廷していない。

法廷のざわめきの中で、ムラタが突然立ち上がる。

「お前ら二人とも訴えてやるからな!」

傍聴席がざわつく。

「共謀してるんだろう!俺を陥れやがって!」

オバタは視線も動かさない。
ミオも、書面を見たまま。

怒鳴り声は、空気を震わせるが、法廷は崩れない。

そのとき、扉が開く。

「起立」

裁判官シバカワが入廷する。
一人で演説を続けるムラタを横目に、淡々と着席する。

「本日は第二回口頭弁論期日です」

「原告、準備書面のとおりに陳述しますか?」

「はい」

オバタが立ち上がる。

「はい、準備書面のとおり陳述します」

ムラタが口を開く。

「裁判長!こいつらは――」

「被告、発言は許可を得てください」

声は静かだが、鋭い。

ムラタの言葉が途切れる。

法廷は、感情より手続きで進む。
書面の確認。
証拠の整理。
主張の対立点の確認。

シバカワは一つひとつ区切る。

「次回は当事者尋問を予定します」

「期日は——」

日程が読み上げられる。

ミオの胸が、わずかに強く打つ。

尋問。
逃げ場のない時間。
木槌は鳴らない。
それでも、静かに区切られた。

廊下。

ムラタは再び怒鳴る。

「弁護士懲戒請求してやる!」

オバタは小さく息を吐く。

「もうされていますよね?」

ミオが顔を上げる。

「本当ですか?」

「あなたと私が共謀し、不当解雇をでっちあげ、被告を陥れた」

「さらに……不倫関係にある、とのことです」

ミオは一瞬、目を閉じる。
怒りは湧かない。
疲労だけが、静かに積もる。

同時に。
さいたま地方裁判所。
ムラタからの名誉毀損訴訟。
期日が決まった。

二つの裁判。
東京とさいたま。
ミオは、同時に二つの法廷に立つ。
何も心が動かない。
それが少しだけ、怖かった。


夜。

蛍光灯の下でミオは机に向かっていた。

川口のクリニック宛。
内容証明郵便。

感情はない。
事実と問いだけ。

封筒を閉じる。

深夜の静かな部屋。

携帯が震える。

オバタからだ。

「東京は大丈夫です。さいたまのほうはいかがですか?」

「そちらも私が代理人になりましょうか?」

ミオは窓の外を見る。

遠くで電車が走る。

「自分でやります」

机の上には、内容証明の書面。

答弁書。

白い錠剤が五種類。


同時刻。

赤羽のガールズバー。

紫のネオンが壁を染める。

アキナはグラスを傾けながら、男の話を聞いていた。

「貿易会社をやってる」

「韓国の食品を輸入してるんだ」

男はキムと名乗った。
代表取締役。
時計が光る。
靴が光る。

言葉の端々に、金の匂いがある。
アキナはそれを嗅ぎ分ける。

父も韓国人だった。
小さな会社の社長。

幼稚園から私立。芸能人の子どもが通う学校。
高校まで、世界は当然のように豊かだった。

大学一年のとき、父が死んだ。
世界は一度、音を立てて崩れた。
贅沢を知った舌は、質素に戻れない。

キムが名刺を差し出す。
厚い紙。
浮き出しの文字。

「またゆっくり食事でも」

父の面影が、一瞬だけ重なる。

だがそれ以上に——
金の匂い。

アキナは微笑む。

「そうですね」

ネオンが瞬く。

尋問期日まで、あと三週間。
蛍光灯の下で真実が問われる。

蛍光灯の白。
ネオンの紫。

どちらも真実を照らさない。
照らすのは、人の欲だけだ。


第十一話 血の匂い

今春、ミオは通信制大学の法学部に三年次編入していた。
法学部。
自分で闘うために。

シラバスを机に置く。
その横には、新品の六法全書。

そして、銀色のPTPシートが五枚。

白い錠剤を水で流し込む。

味は、しない。


翌日。

ミオは、さいたま労働局にいた。

今日は、あっせんの日だった。

会議室に入る。

大きなテーブル。

あっせん委員が三人。男性一人。女性二人。
一斉にこちらを見る。

男性のあっせん委員が話し出す。

「ミノリ院長は貴方が辞めていないと主張しています」

「なぜかクリニックに出勤していないだけと…」

困惑する表情を浮かべるあっせん委員。

「その主張は通用しないでしょうと忠告したのですが…」

ミオは静かに問う。

「ムラタ学園の件はなんて話しているのでしょうか?」

「私は、院長がムラタ学園の話を信じて私を解雇をしたと認めてくれればいいのです。そしたら損害賠償は請求しません」

あっせん委員が頷く。

「わかりました」

「もう一度ミノリ院長とお話してみます」

ミオは再び待合室へ。
20分ほど。
ミオが再び会議室へ入る。

「ムラタ理事長から電話があったことは認めています」

「ただ、それが原因で貴方を解雇したと認めることはできないと言っています」

あっさり終わった。
真実は否定された。
でも、電話があったという事実だけは、もう消えない。


夜。

表参道のレストラン。

白い壁。

アキナが醸し出す夜の香り。
若々しいおしゃれな店内とどこかミスマッチ。

「キムさん、ありがとう」

「久しぶりなの、こんなおしゃれなご飯」

少し初心さを出して、甘えてみるアキナ。

「アキナちゃんに似合うと思ってね」

どこか照れた表情を浮かべるキム。

駆け引き。
二人とも。

キムが思い出したように話を始める。

「ところで君が昼に働いているクリニックってすごいらしいね」
「スーパードクターだっけ?テレビに出てるらしいね」

「実は、今、韓国の医療機器を輸入販売しようというプロジェクトがあるんだ」

「ヒサシ院長を紹介してくれないか?」

「このプロジェクトにはうちの会社の命運がかかっているんだ」

ステーキが運ばれてきた。

レア。
血が滴る。

血の匂いは金の匂いと似ている。

アキナはステーキから漂う金の匂いを嗅いだ。


第十二話 詐欺師の尋問

本人尋問・証人尋問期日。

ミオは、手元の陳述書に目を落としていた。
動揺も緊張もない。
裁判所に慣れたわけではない。
ただ、心の奥底が凪いでいて、なにも感じなくなっていた。

裁判官シバカワが入廷。

ミオとオオバヤシは証人席の前に二人で並ぶ。
同時に宣誓書を読み上げる。

「宣誓」

「良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。」

尋問が始まった。

まずは被告側証人尋問から。

証人は事務長オオバヤシ。

ムラタが悦に入った様子でオオバヤシに質問を始める。

「ミオは詐欺師ですか?」

「わかりません」

オオバヤシは俯きながら答える。

「異議あり!」

オバタが手を挙げて立ち上がる。

シバカワは異議を却下する。

ムラタが続ける。

「ミオは雇用契約書にサインをしなかったのですね?」

「はい」

「ミオの勤務態度は?悪かったでしょ?」

「仕事を頑張っていたと思います」

続いて反対尋問に。

オバタがオオバヤシに質問を始める。

「原告に解雇通知書を渡し、解雇を通告しましたか?」

「はい」

終わり。

最後に裁判官による補充尋問。

「なぜ原告が雇用契約書にサインしなかったと思いますか?」

シバカワが淡々とした口調でオオバヤシに問う。

オオバヤシが強い口調で答える。

「単なるわがままだと思います」

シバカワが視線を下に向け、頷く。

「終了します」
「お戻りください」

そのとき、法廷に響いた声。

証人席に残っていたオオバヤシだった。

「雇用契約書にサインしないなんて私に失礼じゃないか!」

「私を馬鹿にするからだ!」

「そう思いませんか!裁判長!」

苦悶の表情で必死に訴えるオオバヤシ。
少し涙が滲んでいる。

シバカワは少し困ったような表情で諭す。

「私の個人的な意見を述べる場ではありません」

被告側証人尋問終了。

次に原告側本人尋問。

オバタがミオに質問する。

「被告から解雇通知書を渡されましたか?」

「はい」

「解雇の理由はどのように説明されましたか?」

「雇用契約書にサインしないことが解雇の理由だと説明されました」

予定通り。

続いて反対尋問へ。

ムラタがミオに質問する。

「うちの学校を騙しましたね?」

「いいえ」

「あなたは面接のときに長く働きたいといいましたね?」

「はい」

「すぐに辞めただろ!」「騙しただろう!」

「辞めたのではなく、辞めさせられたのです」

「うちは辞めさせてない!」

「解雇通知書を渡され、すぐに出ていくように言われました」

「辞めなければいいだろう!」

堂々巡り。

「質問を変えてください」

シバカワが止めに入る。

「お前は金をいくら払えるんだ?」

「…何のお金ですか?」

「私への慰謝料だ!」「名誉を傷つけた代償だ!」

「この裁判は私がそちらに損害賠償を請求しています」

「私が訴えている方の裁判を言っているんだ!」

シバカワが鋭く割って入る。

「……被告、それは何の裁判ですか?」

「私が訴えているんだ!」

なぜか誇らしげなムラタ。

「私が労働局にあっせんを申し立てたことが名誉棄損だということで訴えられています」「三千万円を請求されています」

「三千万円」という言葉に、シバカワの眉がわずかに跳ねた。

法廷の空気が、さらに被告側にとって不利なものへと変質していく。

ムラタによるミオへの反対尋問は一時間に及んだ。

突然、ムラタが叫ぶ。

「こんな女の子にこんなことができるはずがない!」

「何かがおかしい!」


夜。

ミオは尋問の様子を思い返していた。

「私に失礼じゃないか!」

「私を馬鹿にするからだ!」

オオバヤシは裁判官に必死に訴えていた。
葛藤を見せるオオバヤシ。

対して、ミオはなんの感情も見せない。
まるで他人事のようだった。
緊張も動揺もなかった。

ムラタやオオバヤシの感情をぶつけられても、
何も心が動かなかった。

なぜだろう。

自分でもわからない。

感覚がない。

ミオは暗い部屋で白い錠剤をのみ込んだ。


第十三話 アキナの口

朝。

気分がいい。

クニヒコは朝が好きだ。
結婚後、特に朝が好きになった。

白い光を浴びると、悪魔が逃げるような気がした。

「あの女は悪魔だ」

そう呟きながら、白いマンションに入っていく。

広いワンルーム。

テーブルの上にコーヒーカップが二つ。
二つの湯気が混じる。

「いつも用意がいいね」

「ありがとう」

クニヒコが微笑みながらマドカに語りかける。

「大丈夫だった?奥さん…」

「疑ってない?」

マドカが困惑した表情で話す。

「いつものことだ」

「専業主婦は夫にしがみつくしかないんだから、必死なんだよ」

「それに比べ、君は自立していて立派だ」

クニヒコは優しくマドカの手を握る。

「私はあなたの家庭を壊すつもりはないわ」

マドカはクニヒコの指に自分の指を絡ませる。
見つめ合う二人。

——これが本当の幸せだ。
なぜもっと早く気づかなかったのか。
あの家には、空気がなかった。


クリニック七階。

「キムって男、本当に大丈夫なん?」

ヒサシは白衣のズボンのベルトを締めながら、アキナの方を見る。

白衣が胸のところではだけたまま、
アキナは冷蔵庫に入っていたペットボトルの水を飲み干した。

「この前、会社に入らせてもらったの」

「めっちゃいいビルだった」

アキナは目を輝かせながら興奮した様子で話す。

「そうなんや」

「一回会うくらいなら、ええけどな…」

——水を飲む姿もいやらしい。
ヒサシはアキナの体のラインを追うように目を滑らせる。

「本当!嬉しい!」

可愛くはしゃぐアキナ。
二回り以上下の愛人。
少しのわがままなら聞いてやりたい。

「で…お前はもうキムとやったんか?」

ヒサシはにやけながら、アキナの唇をなぞる。

「もう!先生ってば!」

「キムさんとはしてないよ!」

少しふくれっ面のアキナ。

「そうなん?」

もう一度聞くヒサシ。

「そうだよ!」

「私の口は先生だけのものなんだからね」

笑うヒサシ。
アキナの後頭部に手をかけ、顔を引き寄せる。

——キス

「医療機器やろ…儲かる匂いはするな」

ヒサシは舌を絡めながら思う。

それに…
——アキナの口は最高なんや。


第十四話 弁論準備手続

さいたま地方裁判所。

弁論準備手続。

ドアが開く。

黒いスーツの女性が入ってきた。四十代半ばくらいだろうか。
力強い歩調。堂々した表情。

裁判官オダ。

「では、始めましょう」

勢いのある声だった。

オダは書面をめくる。

数秒の沈黙。

そして顔を上げた。

「原告の主張ですが」

ムラタ側をまっすぐ見る。

「全然ダメ!」「やり直し!」

オダは書面を机に叩きつける。

ムラタはあっけにとられた表情。

オダは続けた。

「被告が労働局にあっせん申立てをしたことが名誉毀損だと主張されていますが、原告の名誉が害された証拠が示されていません」

オダはミオの方を見る。

一瞬だけ。
鋭い視線だった。

「被告は、現時点で主張の追加はありますか」

ミオは首を振る。

「ありません」

オダはムラタの方を見る。

「では次回までに原告は主張を整理してください」

そして最後に付け加えた。

「このままでは、かなり厳しいと思います」

部屋の空気が止まった。
弁論準備は、十五分で終わった。


西日暮里駅前の雑居ビル。

小さな看板。
総合リサーチサービス。

「ご主人の浮気調査ですね」

「はい」

リカコは静かに答えた。

数日後。

調査は始まった。

しかし——
クニヒコと会う姿は一度もない。

調査員は報告する。

「現時点で接触は確認できません」

リカコは首を振る。

「そんなはずありません」

「二人は続いています」

調査員は言葉を選ぶ。

「追加調査も可能ですが…費用が」

「構いません」

リカコは即答した。

「続けてください」

さらに数日。

調査員は別のことに気づく。

裁判所。
弁護士。
ムラタ学園。

調査員は報告書をまとめた。

リカコはそれを読みながら、目を細める。

「裁判…?」

ミオとムラタ学園とでお互いに裁判をし合っている。

リカコの指が止まる。
ゆっくりと笑った。


第十五話 金の感覚

午前十一時。

吹き抜けのリビング。
天窓から白い光が差し込む。

リカコはテーブルの上にある調査報告書を眺める。

——敵の敵は味方

白く美しい指で、ゆっくりと携帯電話のボタンを押す。

「はい。ムラタ学園です」

「私はミオさんに家庭を壊された妻です」


午後七時。

横浜のインターコンチネンタルホテル最上階。

韓国医療機器、投資、クリニック提携…

——三千万円

「アキナちゃんがお世話になっている院長だから、特別にお話をしています」

アキナは円卓の下で静かにキムの足に自分の足を絡める。

「ありがとう、キムさん」

アキナの厚い唇がいやらしく動く。

見つめ合うキムとアキナ。
一瞬、男と女の雰囲気が漂う。

ヒサシはキムの事業計画書を熱心に見つめたまま。
二人の雰囲気には気づかない。

「…ええ話や」

「ありがとう」

「でも、もうちょっと考えさせてくれへん?」

ヒサシは顔を上げ、キムを真っ直ぐに見る。

「もちろんですよ」

「いい返事を待っています」

キムはヒサシに握手を求めた。
笑顔で握手を交わすヒサシとキム。

少し湿り気のあるキムの手。
生々しい手の感覚。
その瞬間、ヒサシは生々しい金の感覚を覚えた。


第一六話 世界

向かいの席に、男が座る。

理事長ムラタ。

「私は」

リカコは言葉を切る。

「自殺を図りました」

ムラタが顔を上げる。

「ひどい話だ」

リカコは視線を落とす。

「私の世界は家庭がすべてでした」

「私の家庭は壊れたのに」

リカコは顔を上げる。

「私は、あの女性を」

少しだけ笑う。

「眼科の世界から追い出したい」

ムラタはゆっくり背もたれにもたれる。

そして笑う。

「面白い」


第一七話 尊厳

リカコの部屋。

シングルベッドが一つ。

書棚はすべて中学受験の参考書。

「もう捨てないと…」

涙を浮かべるリカコ。

そのとき、スマートフォンが震える。

「…もしもし?」
「総合リサーチサービスのコンドウです」

「…申し上げにくいのですが」

「ミオが旦那さんと連絡を取っている様子がまったくありません」

リカコが強い口調でコンドウを責める。

「そんな訳がないでしょう!」

「きちんと調べてください!」

「…ミオにはずっと調査員をつけています」

「過去の職場や友人・知人などにもかなり聞き込みを行いました」

リカコは怒りで震えた手でスマートフォンを強く握りしめる。

「でも、奥さん。安心してください」

「ミオは以前から『結婚はしない』と言っているそうです」

「もし旦那さんがミオと続いていたとしても」

「二人が結婚することはないですよ」

コンドウは意気揚々と話した。

「私を馬鹿にしないで!」

リカコが悲痛な叫びをあげる。
そして、電話を一方的に切った。

真新しいノートパソコン。
「死刑」と書かれたフォルダの中。
駅、勤務先、裁判所。
すべてミオの写真。

「結婚しないなんて…」

そんなことありえない。

リカコは画面の中のミオを睨む。
涙で画面がよく見えない。

「あなたは私の世界を壊しただけじゃない」

「私の尊厳を踏みにじった」

ミオは一人で生きていける女性。

自分は専業主婦。

夫に不倫されても離婚なんてできない。
一人では生きていけない。
夫にすがるしかない。

リカコが憎んでいるのは本当にミオだったのか。
それとも――
自分自身だったのか。


第一八話 影

総合リサーチサービス。

「……やれやれ」

コンドウは受話器をゆっくりと置いた。
ため息は小さいが、深かった。

「例の奥さんですか」

隣のデスクにいた若い調査員が顔を上げる。

「ああ」

コンドウは椅子にもたれたまま、天井を見た。

「尾行もした。聞き込みもした」

「男の影は一切ない」

若い調査員は目を丸くする。

「じゃあなんで……」

コンドウは苦笑する。

「壊れるときは、理由なんていらないんだよ」

短い沈黙。

「……この案件、もう終わりにする」

「これ以上やると、ろくなことにならない」

コンドウはファイルを閉じた。


東京地方裁判所。

最後の期日。

最終準備書面の陳述が終わる。

裁判官シバカワが顔を上げる。

「被告」

静かな声。

「最後に、何か述べることはありますか」

法廷にわずかな緊張が走る。

ムラタが立ち上がる。
今日は怒鳴らない。
不思議なほど静かだ。

「……おかしいでしょう」

ぽつりと言う。

「こんな女の子が」

視線がミオに向く。

「こんな裁判を起こすなんて」

誰も何も言わない。

「弁護士費用だって払えないはずだ」

「普通じゃない」

声が少しずつ熱を帯びていく。

「誰かが後ろにいる」

「そうじゃなきゃ説明がつかない」

沈黙。

法廷の空気がわずかに歪む。
シバカワは表情を変えない。
ただ一言。

「……以上でよろしいですか」

ムラタは何か言いかけて、やめた。

「……はい」

「それでは」

一拍。

「本件は結審します」

すべてが終わる音は、驚くほど静かだった。


第一九話 代償

「証拠が出ないんです」

小さな声だった。

「……奥様のお気持ち、よくわかります」

間を置いて、男はそう答えた。

新宿・歌舞伎町。
雑居ビルの五階。

「トラスト調査センター」と書かれたプレートは、妙に新しかった。

前の興信所には断られた。

「これ以上は無理です」

そう言われた。
だから探した。
もっと強くやってくれるところを。

「涙を流しながら、平気で嘘をつく女性なんです」

「加害者なのに、被害者のふりをして」

言葉を選んでいるようで、選んでいない。
感情が、先に出ていた。

男は頷く。
否定しない。
一度も。

「稀に、いるんですよ」

静かな声。

「そういう女が」

リカコが顔を上げる。

「普通の調査では、追いつきません」

「それなりの方法を取ります」

リカコは、何も聞かなかった。
ただ、頷いた。


東京簡易裁判所。

第一回口頭弁論。

川口のクリニック。
不合理な契約終了。

労働局のあっせんは不調。
訴訟へ。

請求額は、十七万円。少額。

——これからの取引を計算に入れた金額。

法廷。

丸いテーブル。
地方裁判所とは違う空気。

すでに、相手方代理人は座っていた。

若い弁護士。
フルヤ。

答弁書は、よくできていた。
丁寧で、整理されている。
経験は浅いが、力はある。

ミオは軽く会釈をし、席に着く。

フルヤが一瞬だけこちらを見る。

その目。
怯え。
まるで、何か“触れてはいけないもの”を見るような。

ミオは視線を外す。

気にしない。

そのとき。
扉が開く。

「お待たせしました」

裁判官が入廷する。

穏やかな顔。
年配の男性。

「本件は、不法行為による損害賠償請求です」

淡々とした説明。

「和解の意思はありますか」

フルヤが即座に答える。

「ぜひ、和解でお願いしたいと考えております」

少し前のめり。
焦りが見える。

ミオは静かに口を開く。

「和解という選択肢を排除するつもりはありません」

「お話は伺います」

中年の女性。
司法委員。

席に着くと同時に、言葉が飛んでくる。

「落としどころはどう考えているの?」

「相手は弁護士もついているし、ある程度の譲歩は必要よ」

ミオは淡々と答える。

「金額は重視していません」

「第三者からの虚偽の情報が原因です」

「それを認めていただければ、請求はしません」

司法委員の表情が変わる。

和解は互譲。

しかし。
ミオに“譲る理由”がない。

「……そう」

わずかな諦め。

ミオは間を見て言う。

「事実を認めないのであれば……」

「請求額の全額であれば和解に応じます」

一拍。

「それが最大限の譲歩です」

司法委員が顔を上げる。

「満額は難しいわ」

ミオは首をかしげる。

「十七万円が、ですか?」

静かな声。

「安いと思いますが」

そして。

「おそらく相手方は応じるでしょう」

断言。

ミオは相手方の状況を理解していた。

評判。
体裁。
地元。

すべてを守るための、十七万円。
安すぎる代償。

ミオは、計算していた。
冷静に。

敵はミノリ院長ではない。
誰かが後ろにいる。
闇の人物。

相手方にとっては、白く塗りつぶすため。
ミオにとっては、闇を暴き出すため。


第二十話 ランジェリーパブ

東京簡易裁判所での訴訟は、和解で終わった。

——ミオの予想通り。

請求金額、満額。

白い廊下。

相手方弁護士のフルヤは、晴れやかな顔で歩いてくる。

「今日はありがとうございました!」

深々と頭を下げる。

「ええ……どうも」

ミオは短く返す。
表情は動かない。

フルヤは一瞬だけ足を止める。

——何かがおかしい。

すんなり進んだ。
こちらの希望通り和解で終わった。

だが。

なぜか「解決した」という感覚がない。

その違和感の正体に気づくのは、もっと後だ。

——自分が踊らされていたことに。


新横浜。

ネオンの残光がにじむ雑居ビルの一室。

扉を開けると、甘ったるい香水とアルコールの匂いが混ざり合って、むっとした空気が押し寄せてくる。

薄暗い店内。
赤い間接照明。
ソファに沈む男たちと、その膝に絡みつく女たち。

——ランジェリーパブ。

「スーパードクター!すごーい!」

甲高い声。
女の子がヒサシの腕に胸を押し当てる。
わざと。
柔らかく、ゆっくりと。

「せやろ?」

ヒサシは笑う。
酒の匂いを吐きながら。
その手はすでに、女の腰のあたりを這っていた。

「あっちの方も診察できるで」

耳元で囁く。
わざと息をかける。

「やだぁ、先生……」

女は笑う。
嫌がるふり。

「スーパードクターに診てもらいなさい」

横からキムが言う。
グラスを揺らしながら。

「気持ちよくしてもらえるぞ」

軽い笑い。
だが、視線は鋭い。

ヒサシは別の女の肩を抱き寄せる。
左右に一人ずつ。

完全に気を良くしていた。

「キムさん、ええ店やな」

女の太ももを撫でながら言う。

「レベル高いわ」

「ありがとうございます」

キムは笑う。
穏やかに。

「最近は特に気を使ってましてね」

「前はちょっと問題がありまして」

キムはグラスを見つめる。
白いマッコリが、ゆっくり揺れる。

ヒサシは女の腰に回した手を止めないまま、顔だけを向ける。

「ほう」

「キャストとマネージャーが関係を持って……」

キムの声は落ち着いている。

「その奥さんが乗り込んできて、大騒ぎになりまして」

ヒサシの手が、一瞬だけ止まる。
ほんのわずか。

「それで?」

「女の子には辞めてもらいました」

「でも後から、“違う”と言い出して」

店内の音が少し遠くなる。

笑い声。
グラスの音。
音楽。

「訴えられました。不当解雇で」

ヒサシがゆっくりとキムを見る。
女の体から手を離さないまま。

「……うちも同じですわ」

低い声。
さっきまでの軽さが消えている。

キムの目が細くなる。

「やっぱりですか」

「やばい女、いますよね」

笑う。
しかし、その目は笑っていない。

ヒサシは再び女の腰に手を滑らせる。
さっきより強く。
雑に。

「ほんまにな」

キムは静かにグラスを持ち上げる。
マッコリを注ぐ。
白い液体が、濁りながら満ちていく。

「よかったら、詳しく教えてください」

「参考にしたいんです」

ヒサシは笑う。
完全に気を許した顔。

「ええよ。なんでも教えたる」

女の尻を軽く叩く。
乾いた音。
女は笑う。
店の中も笑う。

その中で。
キムだけが、静かにグラスの中を見ていた。

白く濁った液体。
混ざって、分からなくなる境界。

——利用できる。

キムは、微かに笑った。


第二十一話 PC

新横浜から戻ったキムは、ネクタイを外すこともなくパソコンの前に座っていた。

画面の白い光が、顔だけを浮かび上がらせる。
無機質なタイピング音。

< 顧問弁護士カワムラ >
< 共産党関係者>

キムは入力を止める。

頭の中に、あの店の光景がよみがえる。

新横浜。
暗い店内。
甘い香水とアルコールの匂いが混ざり合う空間。
白と黒のランジェリーに包まれた女たち。

「リカコな、自宅で吐血下血を繰り返して入院しとったんや」

キムは思わず声を落とした。

「それは…ひどいですね」

ヒサシは、指を止めない。
視線も変えない。
だが、言葉だけが冷静だった。

「それが本当ならな」

キムは顔を上げる。

「内視鏡、何も出てへん」

一瞬、音が消えたように感じた。

「ストレスで吐血?ドラマや」

「医学的にはありえへん」

ヒサシは、軽く笑った。
その笑いは、楽しそうではなかった。

「でもな」

「家の中、血まみれやったらしいで」

沈黙。

ヒサシは初めて手を止める。
少しだけ考える顔。

「ミオは優秀やった」

「ほんまによく働いとった」

そして、あっさり続ける。

「でもクニヒコは外せへん」

それだけだった。

キムは何も言わない。
理解したからだ。

優秀かどうかは関係ない。
正しいかどうかも関係ない。
残るか、消えるか。
それだけ。

現実に戻る。
キムはキーボードに手を戻す。
そして、メールを送信する。

宛先:murata@…

送信完了。


第二十二話 組織

ムラタ学園。

理事長室。

パソコンの前に座るムラタ。

「共産党……」

低く呟く。

椅子がゆっくり回転する。

ムラタは窓の外を見た。

雨。
濁った空。

「やはりな」

小さく笑う。

「全部、繋がった」

過去がよぎる。

街宣
怒号
対立
組織
思想

“ あの連中 ”は、いつもこうだ。

スマートフォンを取り出す。

「私だ」

低い声。

「ヒサシ、クニヒコ、ミオ」

「三人と共産党との関係を洗え」

一拍置く。

「政治活動も含めてだ」

通話を切る。

ムラタの目は、確信に満ちていた。

敵は、個人ではない。

“ 組織 ”だ。


第二十三話 物語

「ミオが政治活動に関わっていた可能性がある」

リカコの表情が変わる。

「……え?」

「共産党と、お前の旦那」

「その線で近づいた可能性がある」

リカコは息を呑む。

普通の女の子にしか見えなかった。

だが——

もし、それが“ 演技 ”だとしたら?

「詳しく聞かせてください」

身を乗り出す。

しかしムラタは笑う。

「まだ調査中だ」

「わかり次第、連絡する」

一方的に電話を切る。

静寂。

リカコはスマートフォンを見つめたまま動かない。

噂。
評判。
信用。

人は、事実ではなく——“ 物語 ”で人を裁く。


第二十四話 吸血鬼

さいたま地裁。

いつもの弁論準備室。

「次回は本人尋問にします」

裁判官オダが淡々と告げる。

——次は尋問。

東京地裁と同じ。
どうせまた、ムラタの独演会になる。

ミオは小さく息を吐いた。


夕方。

白いワンルームマンション。

クニヒコが中に入っていく。

三十分後。
一室の明かりが消えた。

一時間後。
部屋に明かりが戻る。

マドカは部屋着に着替え、コーヒー豆を挽いている。

「今日も避妊してなかったね」

何気ない口調。

「…ごめん」

「次はちゃんとするよ」

マドカは小さく笑う。

「私は大丈夫だけどね」

「もし子どもができても、一人で育てられるから」

クニヒコは顔を上げる。

「強いね」

乾いた笑い。

「聞かせてやりたいな」

少し間を置く。

「うちの吸血鬼に」

マドカが首を傾げる。

「吸血鬼?」

「ああ」

視線を落とすクニヒコ。

「俺から、全部奪っていく女だ」

「子どもで縛ってくる」

その目は、明らかに嫌悪を帯びていた。


マンションの下。

キムが立っている。

スマートフォンを耳に当て、建物の一室を見上げている。
明かりのついた窓。

「もしもし?キムです」

低く、抑えた声。

「クニヒコを追っていたら——」

一瞬、間を置く。

「面白いことがわかりました」

視線は、窓から離れない。

「ミオじゃない」

さらに、声を落とす。

「別の女がいます」

夜の空気が、わずかに揺れた。
すべてが、少しずつズレ始めている。


第二十五話 判決と尋問

「判決、出ましたよ」

弁護士オバタからの電話だった。

「どうでしたか」

一拍の間。

「八十万円です」

「とてもいい判決内容でした」

ミオは黙る。

「この内容なら、相手が控訴しても厳しいでしょう」

「諦める可能性もあります」

――諦める?

ミオの目がわずかに細くなる。

(そんなわけがない)
(あの男が)

通話を切る。
静かな確信だけが残った。


翌週。

さいたま地裁。

尋問期日。

「貴方はうちの学校から金を取ろうとしたな?」

「いいえ」

即答。

「いや、ゆすりだ」

「恐喝だ」

「いいえ」

オダが口を挟む。

「同じ質問はやめてください」

ムラタは無視する。

「認めろ!」

「いいえ」

「認めないって言ってるでしょう!」

オダが声を荒げる。

法廷に緊張が走る。
ミオは一切表情を変えない。

「何度も申し上げている通りです」

「これは不当解雇に基づく損害賠償請求です」

「正当な権利行使です」

ムラタは同じ質問を繰り返す。
一時間。
延々と。
そのたびにオダが制止する。

「時間です。次で最後にしてください」

ムラタが笑った。
机の上から一枚の紙を取り出す。

「これを見ろ」

そこに印刷されていた顔。

――ヒサシ。

「この男、知ってるな?」

「はい」

オダが即座に遮る。

「ちょっと待って!それ何ですか!」

「勝手に見せないでください。提出してください」

書記官を通じて紙が渡される。

オダが目を細める。

「これは?」

ミオに問う。

「以前勤務していたクリニックの院長です」

ムラタが口を挟む。

「いい先生らしいじゃないか」

ミオは反応しない。

「お前、この男からも金を取ったんだろう?」

「いいえ」

「セクハラだ何だって騒いで金を――」

「いいえ」

オダが食いつく。
「なぜそう思うんですか?」

ムラタは自信満々に言う。

「こういう奴は同じことを繰り返すんだ」

「経験上わかる」

オダがさらに詰める。

「具体的な証拠は?」

「まだ調べている」

一瞬の沈黙。

「……は?」

オダが顔をしかめる。

「まあいいです。次の質問を」

ムラタは苛立つ。

「お前はうちの学校を騙した!」

「またですか!」

オダが怒鳴る。

「重複質問はやめてください!」

ミオは変わらない。

「いいえ」

それだけ。

ムラタの顔が歪む。

「嘘だ!全部わかってる!」

ミオが静かに返す。

「わかっているのであれば、根拠を示してください」

空気が凍る。

オダが言い放つ。

「質問がないなら終わりますよ」

ムラタは舌打ちし、席に座る。

次はムラタの尋問。

証人席に立つムラタは、なぜか笑っていた。

ミオが立ち上がる。
静かに、淡々と。

「労働局に相談したことが違法だと主張されていますか?」

「そうだ。名誉毀損だ」

「どのような損害が発生しましたか?」

「名誉が傷ついた」

「労働局員には守秘義務があります」
「外部に漏れた事実はありますか?」

「……わからん」

「原告の社会的評価が下がったという事実がありますか?」

「無い」

「では、何をもって名誉毀損と?」

ムラタは苛立つ。

「ひどいことを言われた」

「それで?」

間。

「具体的に、どのような損害ですか」

追い詰めるように。

「精神的ショックだ」
「心がズタズタになった」

ミオは一瞬だけ笑いそうになる。
だが、表情は崩さない。

次にムラタの口から出た言葉。

「自殺しようと思いました」

その瞬間――
ミオの視線がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ。

(……自殺?)

法廷の空気は変わらない。
オダも、書記官も、誰も反応しない。
だが、ミオの中だけが静かに動いた。

(この人が、自殺?)

違和感。
言葉と人物が、まったく一致しない。
ついさっきまで怒鳴り散らしていた男。

(この人は、“壊れる側”じゃない)

むしろ――

(壊す側)

なのに今、“被害者の言葉”を使った。
ミオの頭の中で、別の声が重なる。

――「私はあなたたちのせいで、自殺を考えるくらいショックを受けたの」

リカコの声。
淡々と語られた“美しい被害者の物語”。

(……同じ言い方)

温度も、構造も、よく似ている。

(偶然?)

すぐに否定する。

(違う)

ムラタの性格からして、自分でこの表現を選ぶとは思えない。

(誰かの言葉を借りている)

そこまで考えて、ひとつの線が浮かぶ。

(……繋がってる?)

リカコとムラタ。
直接か、間接かはわからない。

だが――

(同じ物語を使っている)

ミオはゆっくりと瞬きをした。
表情は変えない。
何も気づいていないように見せたまま、質問を続ける。

「…そうですか」

一拍。

「自尊心やプライドを傷つけられたということですか?」

声は、いつも通り静かだった。
しかし内側では、確信が一つ増えていた。

(この裁判、表に出ている人間だけじゃない)

ムラタの背後。
リカコの影。

そして――

(まだ見えていない“何か”がある)

ミオはペンを置き、顔を上げる。

視線の先。
証人席のムラタ。

その奥に、見えない糸を探すように。

質問の口調がさらに鋭くなる。

「つまり、原告の損害とは、名誉感情が害されたということですね」

オダが顔を上げる。
一瞬、ミオに厳しい視線を送る。

ムラタが反応する。

「そうだ!」

強く。

「その通りだ!」

オダが食いつく。

「証人!」
「原告の損害とは名誉感情が害されたということなのですか!」

「そうです!」
「私の名誉感情が害されたのです!」

オダは一瞬考え込む。

「それは個人の名誉ですか?それとも法人ですか?」

ムラタが一瞬詰まる。
だがすぐに答える。

「私と学校の名誉だ」

はっきりと。
言い切った。

オダは考え込む。

低い声で。

「……次の質問を」

ミオは言う。

「以上です」

わずか数分。

ムラタは満足げに笑っている。
勝ったつもりで。

ミオは席に戻る。

顔を伏せる。

そして――
誰にも見えない場所で、ほんの一瞬。

笑った。

ムラタがそれに気づくのは、最終準備書面を受け取った後。

この法廷で、
最後まで冷静だったのは――
ミオだけだった。


第二十六話 名誉

東京地方裁判所から届いた判決書。

事実認定は、ほぼ全面的にミオ側の主張どおり。

ムラタ学園側が主張していた「勤務態度の問題」「職場秩序の混乱」については、

――これを認めるに足りる証拠はない。

そう明確に書かれていた。

さらに。

ムラタ学園が提示した契約書案についても、

「契約内容や意味合いについて真摯に検討しようとした形跡は窺われない」

と断じられていた。

重要なのは、

「ミオが虚言で暴れていた危険人物」

というムラタ学園側の物語が、裁判所によって完全に否定されたことだった。

最終的に裁判所が見たのは、感情でも印象でもない。

事実。
そして、証拠。

裁判は妄想では勝てない。


夕方。

ミオは赤い郵便ポストの前に立っていた。
手には茶封筒。

さいたま地方裁判所宛ての最終準備書面。

内容は極めて単純だった。

法律上保護される「名誉」とは、社会的評価――すなわち外部的名誉であり、
「名誉感情」、つまり“傷ついた気持ち”そのものは、原則として不法行為上保護される利益ではないこと。

ムラタは本人尋問で、はっきり証言していた。

「私の名誉感情が害された」

それ以外の具体的損害については、何一つ主張も立証もできていない。

つまり、
損害の発生という要件が欠ける。
よって、不法行為は成立しない。

シンプルだった。
だが、致命的だった。


第二十七話 ヒステリー

さいたま地方裁判所。

最終口頭弁論期日。

裁判官オダが入廷した。

「開廷します」

低い声が法廷に響く。

双方が最終準備書面を陳述。
形式的な確認が淡々と進む。

そして、オダが口を開いた。

「東京地裁の判決については確認しました」

ミオは静かに頷く。

最終準備書面には、東京地裁判決を証拠として提出していた。

内容は決定的だった。
ムラタ学園側の主張はほぼ排斥。
不当解雇を裏付ける事実認定。
当然、この裁判にも影響する。

オダはムラタを見る。

「最後に確認します」

「原告は和解する意思はありますか?」

ムラタは即答した。

「あるわけない」

吐き捨てるような声。

オダの眉がぴくりと動く。
今度はミオへ。

「被告はどうですか。和解の意思は?」

「ありません」

ミオは淡々と答える。

「原告は、私の関係者や周囲に連絡を取り、誹謗中傷を続けています」
「判決で、事実を明らかにしていただきたいと考えています」

法廷が静まり返る。

オダは、ゆっくりムラタの方を見た。
その目には、はっきりと怒気があった。

数秒。
沈黙。

そして突然。

「では、判決を書きます!!」

法廷に怒声が響いた。
オオバヤシが肩を震わせる。
タニタが顔を上げる。

「いいですね!!」
「もう終わりです!!」
「わかりましたね!!」

法廷内の空気が凍る。

裁判官がここまで感情を露わにすることは珍しい。

だが。
オダにはもう限界だったのだろう。

不当解雇。
その後のスラップ訴訟。
執拗な誹謗中傷。
そして、何度注意しても延々と続くムラタの支離滅裂な主張。

オダの中にあった“裁判”というものへの感覚。
それを、ムラタは何度も踏みにじった。

オダは書類を閉じる。

「閉廷します」

一礼。

そして、法廷奥の扉へ向かう。

バンッ――。
扉が大きな音を立てて閉まった。

静寂。
その場に残された全員が、しばらく動けなかった。

数秒後。
ムラタが原告席で小さく呟く。

「……なんだ、あの女」

口を歪める。

「ヒステリーか」

ミオは心の中で、静かに思った。
――ヒステリーは、お前だ。

傍聴席。
オオバヤシが青ざめた顔で前を見つめている。
そして、小さな声。

「……だめだ」
「負けるわ」

タニタは何も言わなかった。
ただ、ゆっくり頷いた。

その瞬間。
長かった裁判が、ようやく終わったのだと。
誰もが理解していた。


第二十八話 二千万

「必ず払ってもらうからな!!」
「二千万!!」

ムラタの怒鳴り声。
顔を真っ赤にしている。

ミオは何も答えない。

ちょうどバスが到着した。

そのまま乗り込む。

バスがゆっくり動き出した。

バスが曲がる。
三人の姿が、少しずつ遠ざかっていく。

――二千万。

請求額は三千万だったはず。
なぜ二千万なのか。

差額。
千万円。

頭の奥で、別の数字が重なる。

リカコ。

慰謝料請求。

――千万円。


翌朝。

一通の特別送達。

差出人。
東京高等裁判所。

ミオは、その白い封筒を見つめたまま動かなかった。


第二十九話 控訴

「……控訴、されましたか」

弁護士オバタの低い声。

ミオは表情を変えない。
想定通りだったからだ。

オバタはこめかみを押さえた。

「……正直、頭が痛いです」

珍しく弱音だった。

「高裁でも負ける内容ではないと思います」

「ただ……」

少し言い淀む。

「相手は“勝てるかどうか”で動いていない気がします」

ミオは静かに頷いた。

オバタはミオを見る。

複数の裁判。
周囲への誹謗中傷。
尾行。
嫌がらせ。

それでも淡々としている二十代の女性。
その異様さに、時々ぞっとすることがある。


帰宅。

メール受信通知。

件名【お問い合わせありがとうございます】

生命保険会社。

嫌な予感。

クリックする。

名前。
住所。
電話番号。
生年月日。
職業。

ミオの情報。すべて正しい。

そして、問い合わせ内容。

『加入してから何年経てば、自殺でも保険金はおりますか?』

ミオの背筋が冷える。

その瞬間。

携帯が震える。

非通知。

ミオは無言で出る。

呼吸音。
微かなノイズ。

数秒。

女の声。

「……血が止まらないの」

通話が切れる。

ミオは、しばらく携帯を耳に当てたまま動かなかった。


翌朝。

勤務先の病院前。

職員たちがざわついている。

「気味悪い……」

「誰だよ、こんなの置いたの」

視線の先。

血まみれのカラスの死骸。
羽が散乱している。

ミオは立ち止まる。

脳裏に浮かぶ。

――リカコ。


第三十話 共産党

「……私、調べたのよ」

クニヒコの眉が動く。

「ミオさん、共産党とか左翼と関係があるそうね」

空気が止まる。

「……誰から聞いた」

「いろいろよ」

リカコは微笑む。

「お父様、共産党の先生と親しかったわよね?」

「だったら協力してもらえないかしら」

「ミオさんを、この家に近づけないために」

クニヒコの顔から血の気が引く。

「……父さんには話したくない」

「じゃあ病院長に相談するわ」

「やめてくれ!」

思わず声を荒げる。

リカコは、その反応を見逃さなかった。

「……なら」

「ヒサシ先生にお願いした方がいいわね」

「ヒサシ先生も左翼系の人たちと関係が深いんでしょう?」

「顧問弁護士も共産党系だったって聞いたわ」

クニヒコが固まる。

リカコは、ゆっくりと笑った。
壊れたように。
だが、どこか幸福そうに。

「みんな、繋がっていたのね」


第三十一話 理由

さいたま地裁。

判決日。

「――原告の請求は棄却されました」

書記官からの電話。
淡々とした声。

ミオは静かに目を閉じた。

勝った。

後日、判決文が届いた。

オダの判決文は、意外なほど冷静だった。
法廷では、あれほど怒っていたのに。

ムラタ学園の主張について、一つずつ切り捨てていた。

結論は、ただ一言に近い。

「理由がない」

それだけだった。

感情はない。

だからこそ、重かった。

ミオは少しだけ笑った。

「……やっぱりね」


第三十二話 東京高裁

東京高裁。

弁護士オバタの声は少し疲れていた。

「今日で結審しました」

「……結審?」

ミオは思わず聞き返した。

「はい。判決です」

「二か月後」

高裁はあっさりしていた。
尋問もなし。

だが――
ムラタだけは納得していなかったらしい。

オバタは苦笑しながら続ける。

「『もう判決か!』『ミオを尋問するべきだ!』って大声を出していました」

目に浮かぶ。
法廷で怒鳴るムラタの姿。

「『尋問すれば詐欺師だとわかる!』とも言っていました」

「裁判官は?」

「かなり冷たかったですね」

オバタは淡々と再現する。

「“尋問は地裁で十分に行われていますので、高裁では必要性がないと判断しました”って」

高裁裁判官らしい、感情のない声。

そして。
終始、ムラタの方を見下ろすような視線だったらしい。

地裁とは違う。
高裁は、“記録”を見る。

すでに地裁で尋問は終わっている。
しかも十分な時間をかけて。
丁寧な事実認定もされている。
高裁は、法的判断に大きな誤りがないか確認しただけだった。

ムラタの「騙された」「詐欺だ」という感情論は、最初から相手にされていなかった。

「まあ……この感じだと、高裁も大丈夫だと思います」

オバタの声。

しかしミオは安心できなかった。

裁判は終わらない。
終わる気がしない。


夜。

七階。
院長室。

アキナが神妙な顔で立っていた。

「……先生、キムさんから聞いた?」

「プロジェクト、中止になったって……」

アキナは眉間に皺を寄せる。

「政治団体からクレームが入ったって……」

沈黙。

ヒサシの顔色が変わる。

「……どうしてや」

低い声。

アキナはヒサシの隣に腰を下ろす。

白衣の袖を軽く引っ張りながら、上目遣いで聞く。

「先生、何か知らないの?」

ヒサシは答えない。

机の上にはキムから送られてきた短いメッセージ

例の件。
ミオ。

ヒサシは眉間を押さえる。

「昔、うちにいた職員が関係してるらしい」

アキナは小さく目を見開く。

「……ミオ?」

ヒサシは答えない。
だが、否定もしなかった。

窓の外には新横浜の夜景。

ヒサシは夜景の中にある赤色灯を見つめながら、ぼそりと呟いた。

「……なんやねん、あの女」

初めてだった。
ヒサシが、ミオに対して“ 恐怖 ”に近い感情を抱いたのは。


第三十三話 背後

「……最近、主人の様子がおかしいんです」

ムラタは薄く目を細める。

「まだミオさんと続いている気がします」

ムラタは鼻で笑う。

「男女の話などどうでもいい」

「問題は、その女の背後だ」

リカコは静かに顔を上げた。

「背後……?」

ムラタは机を指で叩く。

「共産党だ」


新横浜。

ホテルのラウンジ。

ヒサシは困ったような顔をしている。

「もう終わった話やと思ってたんやけどなぁ……」

「ミオちゃんもしつこいなぁ」

リカコは小さく微笑む。

「先生は優しいんですね」

「でも……気をつけた方がいいかもしれません」

「ん?」

「ミオさん、最近いろんな団体と接触しているみたいです」

ヒサシの表情が変わる。

「団体?」

「左翼系とか……労働問題を扱う人たちとか……」

「先生たちのことも利用しようとしているのかもしれません」


第三十四話 噂

足立区のクリニック。

ミオは院長室に呼び出されていた。

白い壁。
観葉植物。
コーヒーの匂い。

院長は落ち着かない様子で椅子に座っている。

「……君、新横浜の“スーパードクター”のクリニックにいたんだよね?」

ミオは小さく頷く。

「はい」

院長は視線を逸らした。

「ちょっと……変な話を聞いてね」

沈黙。

「ありもしないことをでっち上げる人だとか」

「裁判を起こして、お金を取っているとか」

「……被害者が自殺未遂を繰り返しているとか」

ミオの表情は変わらない。
だが、指先だけがわずかに冷たくなる。

院長は慌てて付け加えた。

「いや、僕はそんなこと思ってないよ?」

「ただ……気をつけた方がいいって言われて」

「……誰からですか?」

院長は少しためらった。

「昔、同じ病院で働いていた先生」

「その先生、慶應出身なんだ」

――慶應。

その瞬間、頭の中に浮かぶ。

ヒサシ。
クニヒコ。

だが――
クニヒコは違う。

自分から火種を広げるような真似はしない。
噂が広まれば、最後に傷つくのは自分だと知っている男だ。

こんな陰湿なやり方を好むのは――
ヒサシ。

ミオが退職した直後も、ヒサシはスタッフたちに言いふらしていた。

「ミオはクニヒコと不倫していた」

「問題を起こした」

「だから辞めさせた」

おしゃべりなスタッフたち。
噂はすぐに広がった。

ヒサシの性格なら、十分ありえる。


休憩室。

看護師のナツコが缶コーヒーを差し出してくる。

「男が悪いのよ」

突然だった。

ミオは顔を上げる。

「騙されたんでしょう?」

「……違います」

「彼とは、もう終わりにした方がいいわ」

「会ってもいません」

ナツコは苦笑する。

「私には嘘つかなくてもいいのよ」

椅子に深く腰掛けながら、タバコ臭い息を吐く。

「実は私も不倫してたことあるの」

「離婚の原因、それ」

ミオは無言。

「だから、あなたの気持ちわかるのよ」

「いつでも話聞くから」

優しさ。
だが、その奥にある“好奇心”。

ミオにはわかった。
もう広がっている。
噂が。

携帯が震える。
学生時代の友人。

「なんか、変な噂聞いて」

沈黙。

「ミオが昔の職場を訴えて回ってるって」

「反社会的な団体と関係あるとか」

「怖い人だって……」

ミオは目を閉じる。

「うちの病院、慶応の医局から先生が来ているの…」


帰宅途中。

携帯にショートメール。
母からだった。

< 今日、変な電話がきたの >

< ミオが悪いことしてるって >

帰宅。

黒いバッグを床に投げる。

白い錠剤。五錠。
グラスに注いだウイスキーで流し込む。

ベッドへ倒れ込む。
意識がゆっくり遠のいていく。

誹謗中傷の犯人。
ヒサシ。
間違いない。

そして――
ムラタ。リカコ。
つながっている。

奴らは、ミオを眼科の世界から完全に追放しようとしている。

脳裏によみがえる。

白い診察室。
院長ヒサシの部屋。

退職強要。
念書。
土下座。

泣き崩れるミオ。
その姿を見下ろしながら、ヒサシは白衣のズボンのベルトに手をかけた。

「最後やし、ええやろ?」

「お前も本当はこういうの好きなんやろ」

屈辱。
あの日。

だが――
もう違う。

私は、あの時の私じゃない。
瞼がゆっくり閉じる。

暗闇の中。
ミオは小さく呟いた。

「……絶対に許さない」


第三十五話 上告受理申立

東京高裁。

判決言渡しの日。

廷吏が事件番号を読み上げる。

「平成――」

ミオの事件番号。

裁判官は三人。
中央の裁判長が、淡々と、早口で主文を読み上げる。

「控訴人の控訴に基づき、原判決を次のとおり変更する」

「控訴人は、被控訴人に対し、七十八万円を支払え」

……金額が違う。
だが、損害賠償そのものは認められている。

つまり、核心部分――
「不当解雇である」という判断は維持されたのだ。

判決は、それだけだった。

ムラタがいない法廷は、不気味なくらい静かだった。


二週間後。

弁護士オバタから電話が入る。

「……上告されました」

電話を切った後。
ミオは、自分で最高裁の担当書記官に電話をかけた。

事務的な声で説明される。
「まず、上告受理申立て事件として受理するかどうかを検討します」

「その判断まで、大体半年程度ですね」

半年。
その後、却下。
おそらく、それで終わる。

ミオはベッドに潜り込む。

ベッド脇のテーブル。
白い錠剤。
水代わりのウイスキー。
飲み込む。

意識が、ゆっくり沈んでいく。
ぼんやりした頭で、ミオは計算していた。

リカコから一千万円を請求されて、二年半。
ヒサシのクリニックを辞めさせられて、二年三か月。
最高裁の決定が、半年後。

そして――
不法行為の消滅時効は、三年。

ミオは、ゆっくり目を閉じた。


第三十六話 縁結び

しばらくして、ムラタ学園から届いた上告受理申立理由書には、たった一文だけが書かれていた。

――「判決は差別だ」

ミオはその文面を見て、思わず苦笑した。
怒りよりも、呆れの方が大きかった。


大晦日。

長男は高校受験を控え、正月特訓の塾に通っていた。

「明日、病棟に行くから」

クニヒコが言った。

その瞬間、リカコの目が鋭く細くなる。
しかし、すぐに柔らかな笑みに変わった。

「元日なのに大変ね」
「お正月も入院してる患者さんがいるものね」

「……すまない」

クニヒコは視線を逸らしながら答える。

「初詣は二日に行こうか」
「今年は湯島天神にしよう」

話題を変えるように言った。

長女が明るく笑う。

「いいね! お兄ちゃんの受験祈願だ!」

三人が笑う。
だが、その光景はどこか不自然だった。

リカコは思う。

――もう失敗しない。
――今度こそ、必ず医者にする。

長男が受験に成功すれば、きっと家族は元に戻る。
そうなれば、ミオのことなど忘れられる。
そう信じたかった。


翌日。

境内は、人で溢れていた。
その中で、マドカが小さく手を振っている。

周囲はカップルばかり。
縁結びで有名な神社。

マドカが遠慮がちに聞く。

「元旦なのに……家族と一緒じゃなくていいの?」

「いいんだ」

クニヒコは小さく笑った。

「あの家にいると、息が詰まりそうになる」

「元日くらい、好きな人と過ごしたい」

「……うん」

マドカが微笑む。

「今年も、君とずっと一緒にいられますようにってお願いするよ」

「今年だけじゃなくて、ずっとね」

マドカは嬉しそうに笑った。

クニヒコは、その笑顔を見つめながら、ぽつりと呟く。

「……本当に」

「君のような人と結婚すればよかった」


第三十七話 決定

二月十四日。

街はバレンタインデーの空気に包まれていた。

そんな浮ついた空気とは無関係に、リカコは自宅で一人、長男からの連絡を待っていた。

今日は――
合格発表日だった。

携帯電話が鳴る。
長男からだった。

「……ごめん」

リカコは言葉を失った。


四月上旬。

ミオは混雑した電車に揺られている。

窓の外を、桜並木がゆっくりと流れていく。

そのとき。

「きれい……」

誰かが小さく呟いた。

春だった。

クニヒコと出会ったのも、春だった。

――もう四年前。

難症例の患者。
網膜剝離手術後の斜視。癒着性症候群。
ミオがクニヒコに質問をするようになり、その数か月後――
あの部屋で、すべてが変わった。

ストックホルム症候群。
強い恐怖や支配の中で、生き延びるために加害者へ無意識に同調してしまう心理。

そして現れた、美しい妻・リカコ。
白い日傘で光から身を守る悪魔。

あの日の光景が、今も脳裏に焼きついて離れない。
時間は、あの日から止まったままだった。

ミオは流れていく桜を見つめながら、小さく呟く。

「あと二か月……」

アパートへ戻ると、最高裁判所から特別送達が届いていた。

担当書記官からは、「決定まで半年ほどかかる」と聞かされていた。

だが、思ったより早かった。
検討するまでもなかった――ということなのだろう。

封筒を開く。

調書(決定)には、淡々とこう書かれていた。

「本件は、民訴法三一八条一項により受理すべきものとは認められない」

終わった。

――ミオは、そう思っていた。


初夏。

あの日のように、白い日差しが眩しかった。

地下鉄を降りる。
暗く長い階段を上がる。
その先にある光。

出口を出ると、目の前には裁判所があった。

ミオは無言のまま歩く。
エレベーター。
受付。
カウンターの向こうでは、職員たちが忙しそうに動いている。

見慣れた風景。
だが、今日は少し違った。

ミオは書類一式を差し出す。

「お願いします」

職員は淡々と受け取った。

「順番にお呼びしますので、お待ちください」

椅子に座る。

やがて、名前を呼ばれる。

「期日は一か月後になります」
「担当は、民事第十一部です」

東京地裁民事第十一部。
――労働部。

ミオは小さく頷いた。

再び、暗い階段を下りる。
地下へ続く通路。
その先は、まるで底の見えない闇のようだった。

夕方。
裁判所職員の机の上。

積み上げられた訴状。
その一番上に書かれている名前。

原告 ミオ
被告 医療法人社団白慶会

そして、被告代表者欄には――

「スーパードクター・ヒサシ」

その名前が、静かに記載されていた。


第三幕

第三十八話 神の悪戯

「東京地裁民事第四部のタナカです」

電話の男性書記官の声。

ミオは、ふと違和感に気づく。

「四部?」

「最初、十一部って聞いていた気がするんですが」

タナカが淡々と答える。

「ああ、担当が変更になったんです」

「事件の内容から、一般民事部で担当した方がいいということになりまして……」

「はぁ……そうですか」

電話を切る。

ミオは少し眉をひそめた。

訴状の内容は、違法な退職勧奨とハラスメントに基づく損害賠償請求。
労働事件だった。

数日後。
期日通知書が届いた。

東京地方裁判所 民事第四部イ係
担当裁判官――黒川春基。

ミオは、ただ淡々と名前を確認した。

この一枚の通知書が、自分の人生を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。

この担当変更は、神の采配だったのか。
それとも――神の悪戯だったのか。


第三十九話 普通の幸せ

医療法人社団白慶会に、特別送達が届いた。

ヒサシは、封筒を開いた瞬間、顔色を変えた。

訴状。

そこには、クニヒコによるセクハラ。
そして、それを隠蔽するためにミオを強引に退職へ追い込んだ経緯が詳細に書かれていた。

ヒサシは震える手で携帯を掴み、すぐにクニヒコへ電話をかけた。

「ミオから訴えられた!」
「とんでもないこと書かれとるんや!」

電話口の向こうで、クニヒコの息が止まる。

「……何故だ……?」
「今さら……」

ヒサシは半ば叫ぶように続ける。

「俺がミオを辞めさせたこと、セクハラ、パワハラ、誹謗中傷……!」
「めちゃくちゃや!」
「医療ミスを連発しとることまで書かれとる!」
「こんなん公になったら、クリニック潰れるわ!」

クニヒコは無言だった。

「本当の被害者はリカコちゃんやろ?」
「ミオのせいで、どれだけ苦しんどると思っとるんや」

ヒサシは一方的にまくし立てる。

「……わかった」

クニヒコは、それだけ答えた。


その夜。

クニヒコは深夜近くに帰宅した。

ダイニングテーブルには、ラップをかけられた夕食。
静まり返った家。

キッチンからリカコが現れる。

「遅かったわね」

「……急なオペが入ったんだ」

クニヒコは目を合わせない。
声も微かに震えている。

その瞬間、リカコは察した。

「あなた、また何か隠しているでしょう」

鋭い声。

「……ミオさんね?」

その名前が出た瞬間、クニヒコの肩が跳ねた。

「……違うんだ」

絞り出すような声。

リカコは無言で近づき、クニヒコの鞄を掴む。
携帯電話を取り出そうとする。

「何をするんだ!」

「ミオさんと連絡を取ってるんでしょう!」

「違う!」

クニヒコが怒鳴る。

だが、その直後、力が抜けたように俯いた。

「……違うんだよ……」

涙声だった。

リカコは黙って見つめる。

「……何があったの?」

「教えて」

クニヒコは観念したように、訴状のことを話し始めた。

ミオが法人を訴えたこと。
訴状に何が書かれていたか。

リカコは最後まで無言で聞いていた。

すべてを話し終えた後、クニヒコは小さく呟く。

「もう終わりだ……」

「仕事も、この家も……」

「普通の幸せでよかったのに……」


クリニック七階。

クニヒコとの電話が終わった後、ヒサシはソファに寝転がり、天井を見つめていた。
頭の中が混乱している。

そのとき、アキナが部屋に入ってきた。
まだ何も知らない。

頬を膨らませ、不機嫌そうに言う。

「ねえ、スミコ先輩のこと何とかしてよ」
「また香水のことで注意されたんだけど」

アキナは笑いながら続ける。

「“ヒサシ先生にもらった香水です”って言い返してやったけど」

ヒサシはゆっくり顔を上げた。

「……アキナ」

低い声。
苛立ちが滲んでいる。

「お前、俺たちのこと、ミオに喋っただろ」

「は?」

アキナは眉をひそめる。

「何それ?」

「ミオから訴えられたんや!」
「訴状に、お前とのことまで全部書かれとる!」

「え!? 私知らない!」

「じゃあ何でバレとるんや!」

「知らないってば!」

アキナも声を荒げる。

「そもそも、私たちの関係なんて、クリニックのみんな知ってるし!」

「はぁ!?」

ヒサシが激昂する。

「なんでや!」
「うまくやれって言ったやろ!」

さらに訴状を机に叩きつけた。

「お前がミオの悪口をあちこちで言いふらしとることまで書かれとる!」

訴状には、ヒサシとアキナの関係も、赤裸々に記載されていた。
アキナがミオ追い出しに協力していたこと。
母校の教員や同級生に、ミオの悪評を流していたことまで。

「お前のせいや!」

ヒサシが怒鳴る。

アキナも叫び返した。

「先生こそ、ミオのこと言いふらしてたじゃない!」
「ミオをクビにしたのも先生でしょ!」

「キーキーうるさい!」

ヒサシは机を叩く。

「とにかく、お前には辞めてもらう」
「嫁にも裁判のこと言わなあかんし」

アキナの顔が歪む。

「……酷い」
「私、全然関係ないのに……」

涙声。

二人の間に沈黙が落ちる。

やがてアキナは部屋を出て行った。

結局、ヒサシは遊びだった。
キムも、あの日以来ほとんど連絡を寄越さない。
ガールズバーで出会った金持ちの男たちも、みんな同じだった。
気に入られるために愛想笑いをして、無茶な要求にも応じた。
でも最後には捨てられる。

アキナは、自分の腹にそっと両手を当てた。

――もう全部いい。
――普通の幸せでいい。

その日以来、アキナはクリニックに来なくなった。

後になってスタッフたちが聞いた話では、アキナはできちゃった結婚をしたらしい。

相手は、彼女がずっと通っていた焼き鳥屋の若い店員。
アキナは、ガールズバーの仕事帰り、一人でその焼き鳥屋に通い、店主の老夫婦に愚痴を聞いてもらっていたという。

彼は、いつか自分の焼き鳥屋を持つのが夢らしい。
アキナのために。

普通の幸せ。
アキナは、ようやくそれを見つけたのかもしれない。


第四十話 黒衣の裾

東京地裁。

第一回口頭弁論。

開廷準備をしていた書記官が、ミオに声をかける。

「十四時半からの方ですか?」

「はい。原告です」

「では、こちらにサインをして、原告席におかけください」

ミオは出頭カードに署名を済ませ、原告席へ座る。
机の上には答弁書。

やはり、被告代理人は顧問弁護士のカワムラだった。

人権派。
共産党系。
地元弁護士会の会長経験もあるベテランの大物弁護士。

しかし、答弁書の内容は驚くほど簡素だった。

否認。
不知。

そればかり。
理由らしい理由は書かれていない。

不法行為に基づく損害賠償請求。
立証責任は原告であるミオ側にある。
被告側は、極論すれば何もしなくてもいい。

つまり――
『立証してみろ』
それがカワムラのメッセージだった。

ベテラン大物弁護士。
対するは、法律の素人による本人訴訟。
完全に高を括っている。

そして、カワムラ本人は欠席。
答弁書提出による擬制陳述。

そのときだった。

バタン。

法壇奥の扉が開く。

次の瞬間には、黒衣を纏った裁判官が席についていた。

速い。
あまりにも速い。
一瞬の動作だった。

無表情。
険しい目。
視線は一度も原告席へ向かない。
書類だけを見ている。

「開廷します」

そして、間髪入れずに続ける。

「原告」

「訴状のとおり陳述しますか」

驚くほど早口だった。
事務的。
感情がない。

「はい。訴状のとおり陳述します」

ミオは裁判官を見つめていた。
しかし、裁判官は一度もこちらを見ない。
まるで原告席など存在しないかのようだった。

「書証の原本を確認します」

「甲第一号証から甲第二十二号証までのうち、原本である書証を提出してください」

険しい顔で証拠説明書を見ながら、淡々と話す。

「はい」

ミオは整理済みの原本を持ち、立ち上がった。

書記官が受け取りに近づく。

その瞬間。

「甲第一号証の法人登記簿ですが、原本は既に提出済みです」

ミオが落ち着いた声で言った。

空気が止まる。

そのとき――
はじめて裁判官がミオの方を見た。

鋭く険しかった目が、一瞬だけ驚きに変わる。
時間が止まったようだった。

だが、すぐに視線を逸らし、慌てるように証拠説明書へ目を戻す。

「……わかりました」

「では、甲第一号証以外を提出してください」

先ほどよりさらに早口だった。
だが、わずかに口調が揺れている。

その後は、淡々と進んでいった。
いつものように。
機械のように。

最後に次回期日の確認。

「次回の日程ですが、八月五日でよろしいでしょうか」

今度は、裁判官がミオの方を見ていた。
先ほどとは違う。
その目には、わずかな困惑が浮かんでいた。

「差し支えありません」

ミオは淡々と答える。

「では、閉廷します」

その言葉と同時に、裁判官は立ち上がった。

速い。
風のようだった。

ミオの目に残ったのは、扉が閉まる瞬間、わずかに揺れた黒衣の裾だけ。

これが――
黒川春基との、最初の出会いだった。


第四十一話 深淵

裁判官室へ戻る。

黒川は椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
法廷で見た原告の姿が頭から離れない。

黒髪。
白い肌。
透き通った声。
清楚な雰囲気の若い女性。

だが、その目だけが異様だった。

真っ暗。
深淵を覗き込んでいるような目。
吸い込まれそうだった。

妙に落ち着き払っている。
怒りも、悲しみも、怯えも見えない。
感情そのものが抜け落ちていた。

本人訴訟は珍しくない。
弁護士に断られた者。
金が払えない者。
怒りに任せて裁判を起こす者。
法廷で感情を爆発させる者も多い。

だが、ミオは違った。
静かすぎる。

黒川は記録を開く。

甲第十号証:精神科の診断書。
甲第十一号証:カルテ写し。
甲第十二号証:お薬手帳。

向精神薬が五種類以上並んでいる。
普通なら、日常生活すら困難な処方内容だった。

それなのに。
働いている。
大学にも通っている。
本人訴訟までしている。
精神は、とっくに壊れているはずだった。

それでも、一人で闘おうとしている。

黒川は無意識に息を吐いた。

――誰も助けてくれなかったのか。


第四十二話 悲痛な目

「お義父さん、共産党の先生方と親しくされていましたよね?」

「お願いです」

「ミオさんを、私たちの家庭に近づけないでください」
「眼科の世界から完全に追放してください」

リカコはバッグから資料を取り出した。

興信所の調査資料。

義母が資料を見ながら、震える声で言う。

「……リカコさん」
「あなた、おかしいわよ」

リカコは義母を真っ直ぐ見つめた。

本気だった。
本当にそう信じ込んでいる目。

「……わかった」

義父の声。

「こちらで対応する」

クニヒコの悲痛な目。
一方、リカコの目には喜びが浮かんでいた。


第四十三話 視線

東京地方裁判所。

第二回口頭弁論の日だった。

ミオは少し早めに法廷へ入った。

傍聴席にはすでに多くの人が座っている。
法廷では次々と判決が読み上げられていた。

法壇の上にいる黒川は無表情だった。
険しい目。
手元の書類だけを見ている。
感情など一切見せない。

やがて判決の読み上げが終わった。

そのときだった。

ふと視線を感じる。
顔を上げる。

黒川がこちらを見ていた。

まっすぐに。
法壇の上から。
目を逸らさない。
鋭い眼差し。

(私を見てる……?)

胸がざわつく。

(何?)
(私、何かした?)

黒川は何も言わない。
ただ見ている。

その視線の強さに、ミオは居心地の悪さを覚えた。
周囲にいた弁護士たちまで、つられるようにミオの方を見る。

ミオは視線を落とした。

しばらくして再び顔を上げる。

今度は黒川は何事もなかったように書類へ目を落としていた。

(何だったんだろう)

やがて準備が整い、開廷した。

黒川は淡々と審理を進める。
和解の可能性について尋ねた。

若い原告代理人弁護士は緊張した様子で答える。

「あります」

一方、被告代理人の中年弁護士は肩の力が抜けた口調だった。

「本人はどうも和解したくないようなんですよ」

黒川は表情を変えない。

「では、それも含めてお話を聞きましょう」

「次回は弁論準備で進めます」

それだけだった。
淡々と始まり、淡々と終わる。

(和解……)

ミオに和解をする気はなかった。

裁判官は毎日大量の事件を抱えている。
判決を書くより、和解で終わった方が早い。
だから裁判官は和解を勧める。

少なくともミオはそう考えていた。

まして黒川は、朝から何十件もの事件を処理している。
今日だけでも、その忙しさは十分に伝わってきた。
だからこそ、もし黒川から和解を勧められたら。
そのときは、はっきり断ろうと決めていた。

次の事件もすぐに終わった。
最後から二番目の事件の代理人弁護士が退廷していく。

そして――
最後の事件。

ミオの事件。

カワムラは法廷の隅に立っていた。
少し薄くなった頭髪。
眼鏡。
どこにでもいそうな中年男性。

双方が呼ばれ、柵の中へ入る。

ミオはカワムラを見た。
しかし、カワムラは一度もこちらを見ない。
まるで興味がないかのようだった。

開廷。
いつも通り陳述を行う。

すると黒川が答弁書を手に取り、カワムラへ視線を向けた。

「被告代理人」

厳しい声。

「この内容では分からない!」

答弁書を机に叩きつける音が法廷に響く。

カワムラの表情がわずかに揺れた。

「すみません」

小さな声で謝る。

「もっと具体的に書いてください」

黒川はそう言った。

そして今度はミオへ向く。
先ほどまでとは違い、表情は穏やかだった。

「甲第五号証の各書類について、枝番を振りましょう」

そう言うと、驚くほどの速さで整理を始めた。
ミオは慌ててついていく。

黒川は次々と指示を出す。
考える暇もない。

ようやく一段落したところで、黒川が尋ねた。

「双方、和解の意思はありますか」

「検討の余地はあります」

カワムラは即答した。

ミオは一呼吸置く。
そして答える。

「和解に応じるつもりはありません」

はっきりとした声だった。

黒川が問う。

「それは何故ですか」

鋭い口調。
無表情のまま。

(何故……?)

そんなの決まっている。
酷い目に遭わされた。
人生を壊された。
それなのに、相手は何事もなかったように暮らしている。

頭の中で様々な言葉が渦を巻く。
けれど、うまくまとまらない。

ミオは俯いた。

書記官が静かにこちらを見ている。

黒川はゆっくりと身体ごとミオの方へ向き直った。
返答を待っている。

ミオは顔を上げた。

「……許せないからです」

一瞬、法廷が静まる。

「私の損害は、こんな金額で済むものではありません」

論理的な答えではなかった。
それでも、それが本心だった。

黒川は黙って聞いていた。
そして正面へ向き直る。

「では、それも含めてお話をしましょう」

「次回期日を弁論準備手続に付します」

閉廷。

カワムラが立ち上がり礼をする。
しかし、その瞬間にはもう黒川の姿はなかった。
いつの間にか法壇から消えている。

カワムラは慌てて書類を鞄へしまった。
そして帰り際、一瞬だけミオを見る。

その目の奥にあったのは――
わずかな警戒。
いや、怯えだったのかもしれない。


第四十四話 王子様

書記官室のカウンターで出頭カードに署名する。

「廊下の椅子でお待ちください」

そう言われ、ミオは廊下の長椅子に腰を下ろした。

薄暗い廊下。
静かな空気。

ミオは前回の口頭弁論を思い出していた。

黒川。

あの裁判官は、なぜあんなに自分を見ていたのだろう。
労働審判から始まり、これまで何人もの裁判官と会ってきた。
だが、何かが違う。

法廷での圧倒的な処理速度。
鋭い眼差し。
近寄りがたい威厳。

そして――
見透かされているような感覚。

自分の心の奥まで読まれているような気がしていた。
初めて、不安を覚える。

弁論準備室。

「どうぞ」

部屋の中から聞き覚えのある声がする。

ミオは先に中へ入った。

奥の席に座る黒川と目が合う。

「こんにちは」

穏やかな声だった。

法廷で見せる冷たい雰囲気はない。
だが、その視線は相変わらず鋭い。
まるで観察するようにミオを見ている。

間近で見る黒川は法服を着ていなかった。

仕立ての良いスーツ。
品のある腕時計。
洗練された筆記具。
顔は小さく、手足が長い。

いかにもエリートという雰囲気だった。
どこか冷たく、近寄り難い。
だが、法廷で見せる険しさはない。

「和解についてですが、被告はどのように考えていますか」

「和解には応じるつもりです」

カワムラが答える。

ミオは即座に言った。

「私は和解するつもりはありません」

黒川は表情を変えなかった。

「それぞれ個別にお話を聞かせてください」

「まずはカワムラ先生から」

ミオは廊下へ出された。
数分後。
カワムラが部屋から出てくる。

「次、お願いします」

入れ替わるように部屋へ戻った。
黒川の表情は先ほどより険しかった。

「相手方は五十万円を支払う意思があるそうです」

黒川が切り出した。

「ただ、もう少し上げられる余地はあるでしょう」

そして尋ねる。

「ミオさんは、どの程度なら妥協できますか」

金額の問題ではない。
ミオは首を横に振った。

「和解はしません」

「判決をお願いします」

黒川は静かに頷いた。

「率直に話してごらん」

「私が相手方と調整しよう」

その言い方に少し苛立つ。
まるで全てを分かっているような口調だった。

「なぜ判決を望むんだ?」

ミオは答えた。

「相手方の社会的評価を落としたいからです」

黒川が小さく笑った。

「それでは、ミオさん自身も傷つくよ」

そんなことは分かっている。
自分の社会的評価など、もうとっくに壊されている。

ヒサシ。
リカコ。
ムラタ。

全員が好き勝手に噂を広めた。
ならば、一緒に地獄へ落ちればいい。
ミオはそう思っていた。

黒川は言う。

「君は過去を見ている」

「もう前を向くべきだ」

そして少し間を置いて続けた。

「私にも失敗はあった」

「だが乗り越えた」

「だから今、ここにいる」

自信に満ちた表情だった。

だがミオには響かない。

そういう話じゃない。
全然違う。

黒川はさらに続ける。

「相手方もダメージを受けている」

「私も多くの事件を見てきた」

「だから相手方の気持ちも分かるんだ」

「相手方は謝ろうとしている」

「それを無下にしてはいけない」

人生論だった。
理想論だった。
ミオにはそう聞こえた。

和解はしない。
何度もそう伝える。
それでも黒川は諦めない。

まるで人は分かり合えると信じているようだった。
理想家。
現実の泥沼を知らない王子様。
そんな印象さえ受ける。

だが同時に思う。
――この人は、本気でそう信じているのだろうか。

ミオには分からなかった。


第四十五話 時間

ミオは足早に地下鉄の駅へ向かった。

黒川との話は、結局平行線のまま終わった。
時間切れだった。

廊下では、カワムラが苛立った様子で待っていた。
ミオと黒川の話が予想以上に長引いたからだ。

別れ際、黒川はカワムラにこう告げていた。

「和解条件について、もう一度ご検討ください」

そして次回も、一か月後の弁論準備となった。
ミオは裁判所を後にする。

(私は和解する気なんて、さらさらないのに)
(判決を書いた方が早いじゃない)

黒川の顔が浮かぶ。
法廷では威圧的なくらい鋭い目をしているのに、弁論準備になると妙な理想論ばかり語る。

(偉そうな判事様というより……)

(お菓子の家に住んでいそうな王子様)

ミオは呆れ半分で歩き続けた。

この頃のミオにとって、黒川は少し変わった裁判官だった。
どこか理想論ばかりを語る、頓珍漢な王子様。
そんな印象だった。


世田谷。

広いリビングで、リカコは電話を握りしめていた。

相手は女子大時代からの友人で、現在は弁護士をしている女性だった。

「不貞行為の時効は三年よ」

「あなたの話を聞く限り、もう時効が成立していると思う」

リカコはミオを訴えようとしていた。
しかし友人は難しいと言う。

「そもそも興信所を使っても証拠が出なかったんでしょう?」

「それに……」

友人は少し言いづらそうに続けた。

「強姦とまでは言わないけれど、ご主人が優越的な立場を利用して、ずっと年下の女性に関係を迫っていたと評価されたら、逆にご主人が訴えられる可能性もあるわ」

リカコは唇を噛んだ。

友人はしばらく黙り込んだあと、静かに尋ねた。

「あなた、離婚する覚悟はあるの?」

離婚したい。
そう思う瞬間は何度もある。
けれど、本当に離婚することはできない。

「……十八歳と二十歳で出会ったの」

「もう二十年以上よ」

遠い昔を思い出しながら呟く。

「この家庭を壊すことなんてできない」

友人は小さく息を吐いた。

「だったら、あなたから新しい揉め事を起こさない方がいい」

「仮に不倫していたとしても、そんな関係は長く続かないわ」

電話が切れた。

リカコは窓の外を見る。

庭の木々は少しずつ色づき始めていた。
黄ばんだ葉が風に揺れている。
どこか寂しい色だった。
やがて葉は落ちる。
季節は変わる。

けれど――
クニヒコの気持ちは戻ってこない。
そんな気がしていた。

友人は十年かけて弁護士になった。
独身のまま、自分の人生を築いている。

一方で、リカコが人生を捧げてきたものは家庭だった。
十八歳で出会い、二十年以上を共に過ごした。
その積み重ねてきた時間。
もし離婚すれば、それがすべて無意味になってしまう気がした。


第四十六話 力

暗い地下鉄の階段を上る。
地上へ出ると、秋の光が目に入った。

東京地方裁判所の前には、黄色く色づき始めたイチョウの葉が散っている。

二回目の弁論準備の日だった。

ミオは準備書面を読み返しながら、ある人物のことを考えていた。

――王子様。

もちろん黒川のことだ。

今日もまた和解を勧められるのだろうか。
今まで出会った裁判官たちも和解の話はした。
だが、せいぜい一度確認する程度だった。
黒川は違う。
異様にしつこい。

「ご案内します」

書記官のタナカが現れた。

弁論準備室へ入る。

奥の席に座る黒川と目が合った。

一瞬、時間が止まる。

まただ。
なぜいつもそんな目で見るのだろう。
疑われているのか。
証拠は揃っている。
カワムラの反論だって反論になっていない。
どちらが本当のことを言っているかなど、一目瞭然のはずなのに。

いつも通りの事務的な確認が終わる。

すると黒川が言った。

「前回、お話が途中でしたので」

「本日も引き続き和解についてお話をさせていただきたいと思います」

やっぱりだ。
ミオは露骨に不満そうな顔をした。
黒川は涼しい顔のまま続ける。

「では、まずカワムラ先生から」

再び廊下へ出される。
ミオは椅子に腰掛けた。

もしかすると。
ヒサシから圧力がかかっているのではないか。
あるいは政治的な力が。
いくら裁判官が独立しているとはいえ、公務員であることに変わりはない。
裏から手を回すことだってできるかもしれない。

あのときもそうだった。
ミオの悪評を広め、職場から追い出した。
皆でミオを悪者にする。
そして排除する。

「みんなグルなんだ……」

思わず呟いた。

「次、お願いします」

顔を上げるとカワムラが立っていた。
疲れた顔をしている。

共産党系のベテラン弁護士。
調べれば著名な事件がいくつも出てくる。
社会的影響力のある大型訴訟ばかりだった。
それに比べれば、自分の事件など取るに足らない。
一労働者のトラブル。

(こんな事件、担当したくないよね)

少しだけ同情した。

部屋へ入る。
黒川の隣へ座る。

相変わらず自信に満ち溢れた態度。

「相手方は八十万円まで譲歩すると言ってきた」

どうだ。
そう言いたげな表情だった。

ミオは即答した。

「判決でお願いします」

黒川の表情がわずかに変わった。

「判決は書ける」

静かな声。
しかし口調は毅然としていた。

「ただし、ミオさんの希望どおりの結果になるとは限らない」

そして続ける。

「私は書面を全部読んでいる」

そこからだった。
黒川は訴状、準備書面、証拠について次々と質問を始めた。
細部まで。
容赦なく。
法廷で見せる冷たい顔。
鋭い視線。
言葉は落ち着いている。
だが、一つ一つが刃物のようだった。

ミオは圧倒された。

つい先日まで、
この人は現実を知らない理想家だと思っていた。
お菓子の家に住む王子様。
世間知らず。
裁判なんて本当にできるのだろうかと心配していたくらいだ。

違った。

今まで出会った誰より厳しい。
一言一言が核心を突いてくる。
黒川を怒らせてしまったのだろうか。
ミオは答えながらも、
どう反応すれば自分に有利かを必死に考えていた。

そんな様子を察したのか。
黒川はふっと口調を変えた。

「確かに証拠はたくさんある」

「間接事実から推認することもできるだろう」

そこで言葉を切る。

そして静かに言った。

「でも私は信じられないんだ」

「こんなことが、本当に起きるなんて」

まっすぐな目だった。

この男は何を考えているのだろう。
言葉だけが妙に熱を帯びている。
演技だろうか。
揺さぶりだろうか。
真実を引き出すための技術なのだろうか。

黒川は目を逸らし、小さく息を吐いた。

「責めたいわけじゃない」

そう言って再びミオに向き直る。
そして少しだけ声を落とした。

「私はミオさんの力になりたい」

ミオは言葉を失った。

力になりたい。
そんなことを言われたことなどなかった。

黒川は真剣な目でミオを見つめる。

「勝ちたいのなら、もっとしっかりするんだ」

厳しい言葉だった。

だが、その視線には突き放すような冷たさはなかった。

むしろ、
――君の主張はまだ甘い。
そう諭されているようだった。

その瞬間だった。

「はい」

黒川が突然ドアへ向かって声を出した。

同時にタナカが入室する。

ミオは思わず肩を震わせた。
ノックの音にまったく気づいていなかった。
タナカも少し驚いた顔をしている。

「あの……」

困ったように言う。

「カワムラ先生がお時間のようです」

時計を見る。
すでに一時間以上経っていた。

黒川は即座に言った。

「もう少し待ってもらえないか」
「今は駄目だ」

ミオは内心で叫んだ。

(もう帰りたい)

助けを求めるようにタナカを見る。
しかしタナカは目を逸らした。

「県弁護士会の会務があるそうです」

黒川はしばらく考え込んだ。
そして諦めたように頷く。

「分かりました」

ミオへ向き直る。

「今日はここまでにしましょう」

助かった。
ミオは即座に返事をした。

「はい」

黒川は静かに言った。

「少し考えてみてください」

その後、次回期日の調整が行われた。
弁論準備が終わる。

東京地裁を出る。

地下鉄へ続く暗い階段を下りながら、
ミオの頭には一つの言葉だけが残っていた。

――私はミオさんの力になりたい。

人生で。
そんな言葉を向けられたことは一度もなかった。


第四十七話 白雪姫

三回目の弁論準備期日。

前回と同じように出頭カードへ署名し、廊下の椅子に腰掛ける。
膝の上には準備書面。

だが、文字は頭に入ってこなかった。
頭に浮かぶのは黒川だった。

――私はミオさんの力になりたい。

あの言葉。
本心だったのだろうか。
それとも裁判官特有の話術なのだろうか。

黒川は、まるで物語の中の王子様だ。
だから余計に信用できない。

書記官のタナカが現れた。

「ご案内します」

弁論準備室へ入る。
その瞬間、違和感があった。

ドアが開いたまま固定されていた。
いつもは閉まるはずなのに。

部屋の奥を見る。

黒川。
そして、その隣。
見慣れない若い男性が座っていた。
司法修習生だった。
黒川もどこか落ち着かない様子を見せている。

ドアが開いたまま開始される。

「原告からは上申書が提出されていますが…」

「尋問が終わった後に、最終準備書面を提出したいと?」

「はい。お願いします」

黒川に一瞬の間。

「まあ、審理の進行をみて考えましょう」

「よろしくお願いいたします」

向かいに座っているカワムラの視線を感じる。
ミオは机の書類に目を向ける。
カワムラの視線に気づきながら。

「では、今回もカワムラ先生からお話を伺いましょう」

カワムラが切り出す。

「原告に和解をする気はあるんですか?」

強い言葉。

黒川が遮る。

「和解の話はこれが最後になると思ってお願いします」

申し訳なさそうな顔の黒川。

自信家の王子様の様子がいつもと違う。
黒川を観察するミオ。

カワムラが冷静さを取り戻し、説明する。

「被告は十分に譲歩しています」

黒川が真摯に答える。

「原告は百五十万円を請求しています」

「しかし、原告は、本当の損害は五百万円以上だと言っています」

” 私の本当の損害は最低でも五百万円以上です ”

その言葉は、ミオが陳述書に書いた言葉だった。

黒川は、本当に書面を読み込んでいる。
そして、まるで自分のためにベテラン弁護士と向き合っているように見えた。

どうして?

そのとき。
視線に気づく。
司法修習生。
若者はミオを観察するような目で見ていた。

「ミオさん、廊下で少々お待ちください」

廊下に出る。

扉は開いたままだった。

修習生の視線。
タナカの視線。
妙な空気。

ミオはふと代理人弁護士だったオバタを思い出した。

――不倫関係にある。
そう書かれた懲戒請求書。

まさか。
いや、考えすぎだ。
そう思ったが、胸の奥に小さな棘が残った。

そのとき、黒川がミオの前に現れた。

法廷では見せない柔らかな笑顔。

「ミオさん、どうぞ」

長い足で颯爽と歩く黒川。
その姿は、一瞬、物語の中の王子様のように見えた。

ミオは小走りで黒川の後ろをついていく。
もう一度部屋に入ると、ミオ、黒川、そして司法修習生。

「相手方から百万円という打診がありました」

少し明るい声。

「そうですか」

淡々と答えるミオ。

黒川のトーンが下がる。

「これでも判決を希望されると?」

「はい」

「判決になったら、ここまでの金額は貰えないかもしれない」

「はい」

黒川が思いつめた表情でミオを見る。

「私は…」

「私はこの紛争を解決したい」

黒川は視線を落とし、静かにそう言った。

ミオは、少し考えた後、落ち着き払った態度で答えた。

「和解のことは尋問の後に判断してもいいでしょうか」
「被告代表者から直接お話を聞いてみて、それで判断したいです」

「わかりました」

黒川は少し安堵した表情を浮かべた。

その後、カワムラも参加し、次回期日の調整が行われた。

「次回までに証拠申出書を提出してください」

「ミオさんは尋問事項書もお願いします」

黒川は説明しながら尋ねる。

「書き方はわかりますか?」

心配そうな表情だった。

「わかります」

ミオは平然と答えた。

尋問手続など、とっくに経験済みだった。


クリスマス。

ミオはベッドの上でくつろいでいた。

サイドテーブルにはウイスキー、空になった薬のPTPシート、絵本。

次第にぼんやりしてくる。
黒川の言葉が思い出される。

「でも私は信じられないんだ」

「こんなことが、本当に起きるなんて」

信じられない?
でも、私を助けてくれるの?

薬で意識がもうろうとする。

ミオはポツリと言う。

「王子様は何も知らない」

「毒リンゴを…」

ふっと意識を失う。

サイドテーブルには開いたままの絵本。

王子は、眠りについた白雪姫を見つめていた。
しかし、彼女を眠らせた毒リンゴの正体を、まだ知らない。

ミオの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。


第四十八話 アイロン

都内の公立病院。

網膜剥離の緊急手術が終わった。
クニヒコは病室で患者と家族に説明をしていた。

「先生、ありがとうございました」

若い夫婦が頭を下げる。

クニヒコは遠い昔を思い出した。
自分たちも、あの頃はこんな顔をしていた。

二十歳の春。
慶應のインカレサークル。
先輩に誘われて参加した飲み会だった。
テーブルの隅に、一人の女子学生が座っていた。

リカコだった。

二浪して慶應医学部に入学したばかりのクニヒコは、一目で心を奪われた。猛烈にアプローチした。

リカコは東大や早稲田のインカレにも顔を出していた。
取られたくなかった。
実家が有名な産婦人科医院であること。
将来は自分が継ぐこと。
そんな話まで持ち出して気を引いた。

そして交際が始まった。
学生時代の二人は穏やかだった。
お互い空気のような存在だった。
クニヒコは、本気で運命だと思っていた。

だがクニヒコが二十四歳のとき、リカコが妊娠した。

結婚の話が出た。
両親は反対した。

結局、その時は結婚できなかった。

クニヒコの中に罪悪感が残った。
そして、その罪悪感が後の人生を縛ることになる。

医学部の実習が始まった。

女医。
看護師。
事務職員。
様々な人間と出会った。

その頃から、リカコは繰り返し確認するようになった。

「私と結婚するよね?」

「責任を取ってくれるよね?」

最初は気にならなかった。
しかし次第に重く感じるようになった。
それでも別れられなかった。
愛情だけではない。
罪悪感もあった。

卒業後、二人は結婚した。
子どもも生まれた。

だが夫婦関係は少しずつ歪んでいった。

研修医時代。
看護師の女性と関係を持った。
彼女は自立していた。
一緒にいると息が楽だった。

だが、長くは続かなかった。
リカコはすぐに気づいた。
半狂乱になった。
泣き叫び、責め立て、ついには勤務先の院長にまで連絡した。
病院を巻き込む騒動になった。

クニヒコは激しく反発した。
不倫した自分に非があることは分かっていた。
だが、職場まで巻き込まれたことは許せなかった。
リカコもまた、自分が家庭を守ったのだと思っていた。
お互いに相手を許せなくなった。

クニヒコが帰宅しても、食卓は空のことが多くなった。

「帰る時間が分からないんだから、自分で食べて」

リカコはそう言った。

シャツにアイロンが掛かっていることもほとんどない。

「どうせ白衣を着るんだから分からないでしょ」

それがリカコの口癖だった。

いつしかリカコの関心は夫ではなく、長男の教育へ向かっていった。

塾。
模試。
偏差値。
中学受験。

リビングには参考書や過去問が積み上げられ、会話の中心も受験の話ばかりになった。

クニヒコは、自分が家庭の中で少しずつ脇役になっていくような感覚を覚えていた。

それ以降、クニヒコは隙を見つけては浮気や風俗に走るようになった。
愛情を求めていたのか。
それともリカコから逃げていたのか。
本人にも分からなかった。

だが、不思議なことに、クニヒコの女性問題が発覚した後だけは違った。
帰宅すると、シャツには丁寧にアイロンが掛けられている。
食卓には温かい食事が並んでいる。

リカコは何も言わない。
責めもしない。
ただ黙っている。

まるで、
「あなたの妻は私よ」
と訴えるように。

その静かな態度の方が、ヒステリーよりも重かった。


第四十九話 弁論主義

四回目の弁論準備。

弁論準備室の扉は、今回も開いたままだった。
司法修習生もいる。

そして黒川の様子が少し違っていた。
目を合わせない。
どこか沈んでいる。

事務的な確認が終わった後、黒川がカワムラへ視線を向けた。

「ミオさんから証拠申出書と尋問事項書が提出されています」

「被告は…?」

カワムラは無表情のまま答えた。

「被告は主尋問をしません」
「被告代表者も出廷しません」

一瞬、部屋の空気が止まった。

黒川の表情が変わる。
驚いていた。

ミオも予想外だった。
だが表情には出さない。

ミオは静かに考えた。

(弁論主義の第3テーゼ…)

弁論主義の第3テーゼとは、
” 争いのある事実は、当事者が申し出た証拠に基づいて判断する ”
民事訴訟の原則だ。

主尋問をしない。
つまり被告自身による立証を放棄するということだ。
かなり異例だった。

(事実上の敗北宣言か…)

(しかし、尋問をしないなんて…)

(やっぱり” あのこと ”に気づいていたんだ)

(さすがベテラン弁護士)

ミオは静かに考えた。

しばらく沈黙した後、黒川が口を開いた。

「私は四月に異動する予定です」

カワムラが目を見開く。
ミオも驚いた。

黒川は続けた。

「このまま尋問に進むのであれば、これから先は次の裁判官が担当した方がいいと思っています」

「ですので、本日和解のお気持ちがあれば、その方向でお話を進めたいのですが」

すると、カワムラが声を荒げた。

「だから!」
「和解なんて無理じゃないか!」

泣き出しそうな声だった。
黒川がなだめる。

ミオは思った。

(今だ)

ミオは静かに口を開いた。

「請求額を全額お支払いいただけるのであれば、和解に応じます」

黒川が固まった。

「請求額全額というのは……」

「百五十万円ですか?」

「はい」

黒川の顔に、本気で驚いた表情が浮かぶ。
ミオは少し面白かった。

別々に話を聞くことになった。

ミオは廊下へ出る。
そして高速で計算する。

勝てる。
ただし全部認容は難しい。
おそらく一部認容。

ならば満額和解の方が有利だ。
和解なら余計な事実も残らない。
それでもヒサシが支払いを認めたという記録は残る。
十分だ。

さらに裁判官が変わる。
それが吉と出るか凶と出るか分からない。
黒川を完全に信用したわけではない。
だが――
もし次の裁判官がもっと厳しい人物だったら。
もし状況が変わったら。
そう考えると、今が最善の着地点にも思えた。

再び部屋へ入る。

黒川が苦笑していた。

「被告代表者に確認するという話になりました」

「もし満額でなかった場合は譲歩できますか?」

ミオは首を横に振る。

「私は今まで和解を拒否してきました」

「これが最大限の譲歩です」

「満額でなければ判決で結構です」

黒川は静かにうなずいた。

「分かりました」

そして少し笑う。

「これまで長時間お話を聞いていただいてありがとうございました」

一拍置く。

「もう言いません」

さらに一拍。

「これ以上やると……」

黒川は困ったように笑った。

「私がミオさんに訴えられてしまいますから」

司法修習生が吹き出した。
ミオも思わず笑ってしまう。

その後、期日調整が行われた。

黒川は異動準備で予定が埋まっていたが、何とか三月中旬に日程を入れてくれた。
おそらく最後になるから。

帰り道。
ミオは少しだけ寂しかった。

あの騒動以来、人に興味を持つことなどなくなっていた。
三年以上。
ずっと。

けれど最近、ほんの少しだけ変化があった気がする。

空を見上げる。

時間は、気づかないうちに人の傷を癒しているのだろうか。


第五十話 後ろ姿

地下鉄に揺られる。

ヒサシは、ミオが提示した和解条件に応じるだろうか。

この事件が公になって困るのはヒサシの方だ。
だから、きっと和解になる。

それに――

ミオは気づいていた。

バッグから少しだけ飛び出した書類へ目を落とす。

甲第二十三号証。

最終準備書面と併せて提出する予定だった証拠。

ヒサシが複数の職員へ送ったメール。

そこには、
ミオがリカコを自殺に追い込んだこと。
だから辞めさせる必要があること。
リカコがミオを眼科の世界から追い出したがっていること。
そして、皆で協力してほしいこと。
そんな内容が書かれていた。

白雪姫は毒リンゴを食べて眠る。
だが、ミオは違う。

女王の作った毒リンゴを集める。
毒を分析する。
指紋を採取する。
どこから運ばれてきたのかを調べる。
そして、それを証拠という形に変えて、王子様の住む裁判所へ持っていく。
そんなプリンセスだった。

黒川が見ていたのは、毒リンゴの欠片だけだった。
ミオは、あえて欠片だけを提出していた。
尋問でヒサシに嘘をつかせるため。
そして、その嘘を暴くため。
証言全体の信用性を失わせるため。

だが、カワムラはすべて読んでいた。
だからこそ、
主尋問をしない
という究極のカードを切ったのだ。

地下鉄からJRへ乗り換える。

車窓には春の気配が見え始めていた。

裁判も、もう終わる。
また桜の季節が来る。
そして初夏が来る。

胸の奥が少しだけ痛む。
あと何回、季節が巡れば忘れられるのだろう。
あと何回、春を見送れば。

ふと、黒川のことを思い出した。

異動すると言っていた。
どこへ行くのだろう。
でも、あの人はエリートだ。
きっとまた首都圏なのだろう。

そう思っていた。


三月。

最後の弁論準備。

今回も、カワムラから先だった。

廊下で待っていると、交代のために出てきたカワムラが足を止めた。

「ミオさん、申し訳ございませんでした」

深々と頭を下げる。

「本人も反省しております」

「ミオさんは、とても頑張ってくれていたと言っております」

ミオは無表情のまま聞いていた。

「はい。分かりました」

それだけ答え、部屋へ向かった。

(弁護士も大変だ)

(あんな人の代わりに、こんな小娘に頭を下げなくちゃいけないんだから)

少しだけカワムラに同情した。

弁論準備室。

黒川が言う。

「被告は全額支払うそうです」

「いかがですか?」

「はい。それでお願いします」

黒川は少し考えて、

「謝罪文言を入れるよう提案しましょうか?」

「そうすると、先方は渋るかもしれませんが……」

ミオは即答した。

「結構です」

「謝罪する気なんて、最初からないでしょうし」
「むしろ、軽々しく謝罪なんてしてほしくありません」

――謝らせない。
――私は絶対に許さない。
――許される機会なんて与えない。

様々な感情が胸をよぎる。
黒川は静かにうなずいた。

和解条項が読み上げられる。
タナカがそれを書き留める。

すべてが終わった。

黒川が顔を上げる。

「以上で終わります」

そして、少し間を置いた。

「最後に……」

「この事件が和解で終了したことを、嬉しく思います」

「……ありがとうございました」

黒川が頭を下げた。
カワムラも、つられるように深く頭を下げる。
ミオだけが動けなかった。

(ありがとう……?)

(裁判官が?)

その瞬間。

「それでは」

黒川は立ち上がった。
いつものように風のような速さで。

ミオが振り返ったときには、
ドアの隙間から、黒川の後ろ姿だけが見えていた。

ミオは、その後ろ姿を、なぜかずっと見つめていた。


最終話 白い悪魔

東京地裁を出る。

地下鉄からJRに乗り換える。

電車がカーブを曲がる。

車窓の向こうに、桜並木が現れた。

そのとき。

「ミオさん?」

同僚が声をかける。

ミオは現在に引き戻される。

十二年前。
あの春、私はすべてを失ったと思っていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。

失ったものもある。
取り戻せないものもある。

それでも私は生き残った。
学び、働き、ここまで歩いてきた。

「ミオさん、ここで乗り換えですよ」

同僚の声に顔を上げる。

電車の窓の向こうで、桜が風に揺れていた。
十二年前と同じ春だった。

ヒサシが敗訴したことで、クニヒコとリカコの関係はさらに険悪になったらしい。
それでも二人は離婚しなかった。

しばらくして、ムラタは腎臓を悪くし、長い療養生活に入った。

そして――。
黒川は大阪地裁で部総括を務めている。

官報で名前を見つけたとき、少しだけ安心した。

あの人は、あの人の場所で前に進んでいる。
きっとこれからも。
――もう会うことはないのだろうけれど。

十二年たった今でも、ときどき考える。
白い悪魔は、本当にリカコだったのだろうか。

あの頃の私は、自分を被害者だと思っていた。
実際、私は傷つけられた。
仕事を失い、追い詰められ、眠れなくなった。

だから法を学んだ。
証拠を集めた。
裁判を起こした。

それは間違っていない。

けれど――。
私は知らなかったわけではない。

ヒサシを訴えれば、その先で誰が傷つくのか。
クニヒコが追い詰められることも。
リカコの家庭が壊れていくことも。

私は理解していた。
理解したまま、歩みを止めなかった。

正義だったのか。
復讐だったのか。

今でもわからない。

ただ一つだけ確かなことがある。

あの春、白い悪魔は一人ではなかった。
そして、その中には私も含まれていたのかもしれない。

十二年前、あの春から私はここまで歩いてきた。

電車が駅に滑り込む。
ドアが開く。

私は立ち上がった。


< あとがき >
本作は、十二年前の地獄のような春から、一人で歩いてきた女性を元に描いた物語です。

「不当解雇」「多数回の裁判」「最高裁」、そして「本人訴訟」――これらはすべて、フィクションではなく現実の地獄でした。

私たちが生きる現代社会では、ある日突然、理不尽な悪意によって日常を奪われることがあります。
孤立無援の絶望の中、法律という武器を手に前を向いた主人公ミオの姿を通して、理不尽に抗うすべての人へエールを送りたい、その一心で筆を執りました。

作中に登場する「黒衣の法廷」の言葉のように、この物語が、今どこかで苦しんでいる誰かの「力」になれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。

改めて、ミオの十二年の旅路を共に見守ってくださったすべての読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。

第一部はここで幕を閉じますが、彼女の闘いは終わりません。
続く第二部で、ミオは次なるステージ――「法科大学院(ロースクール)」へと進学します。
しかし、彼女を待ち受けていたのは、「新たな、そして狡猾な嫌がらせ」でした。
法を学ぶ場所で、なぜ人はここまで残酷になれるのか。そして、ミオは再び立ち上がることができるのか。

新たなステージで繰り広げられるミオの次なる闘い(第二部)も実話を元に描いています。こちらもどうぞご期待ください!

#創作大賞2026 #エンタメ原作部門

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