掌編小説|熱帯夜のジャングル #はじめてのnote
熱帯夜に、元カレが冷蔵庫に残していった生ハムを二階の窓から放り投げ、ゴミ捨て場の近くにいる虎にあげた。
「あれはスマトラトラだね。オレンジ色が濃いでしょ」
昔、そう言って元カレは東京で熱帯雨林の動物を観られるようになったのを喜んでいたが、私は興味がなかった。動物は熱帯夜にだけ現れるが、私は涼しい夜がいい。
「これ、おそろい」
そう言って元カレがくれた手のひらサイズの虎のぬいぐるみが、ひとり用の冷蔵庫の天板の上にまだある。
「僕のがマレートラ、君のはインドシナトラ」
私には見分けがつかなかった。
窓から見える電柱は苔むしてツルが絡みついている。巨大なシダの向こうに放置自転車の前かごがのぞき、自動販売機の白い灯りが葉陰を縁取っていた。何トラか分からない虎は、前脚についた生ハムを舐めている。
「別れよ」
私が切り出したのは、彼が虎のぬいぐるみを渡していたのが私だけではなかったからだ。私はいろいろな彼女のうちの一種で、かってに種名をつけられていたようなものだ。
熱帯夜にエアコンをつけたように熱が冷めた。
虎のぬいぐるみをスウェットのポケットにふくらませ、私はサンダルを履いて外へ出る。危険だから熱帯夜に不要不急の外出を控えろと政府は言うけれど、どうにでもなれ、だ。
さっきの虎が街灯の下でこちらを睨む。その脇にゴミ置き場がある。私はぬいぐるみを捨てに来た。
「どいてよ」
ハンドクリームを塗った拳を握り、虎を脅してみる。襲われて新聞に載ったら、私は何トラに噛み殺されたことになるんだろう。
虎が一歩ずつにじり寄ってくる。生ハムでは足りなかったらしい。
私は振りかぶる。
「馬鹿にすんな!」
思いきり、虎のぬいぐるみを本物の虎に投げつけた。フワフワのぬいぐるみが虎の額に命中し、その足元に落ちた。
虎が吠える。鋭い牙と爪で、ズタズタにぬいぐるみを引き裂いた。
街灯の灯りの下で、中の綿が熱帯夜に降る雪のように舞う。
私の胸に一筋、涼しい風が通ったような気がした。
虎は布くずを前脚で払い、私に背を向ける。
「あなた、何トラなの?」
どうでもいいと言わんばかりに虎は歩道を去っていく。
やっぱり、それでいいんだ、と思った。

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