映画感想文『Black Box Diaries』
パリのとある小さな映画館へ行った。友人に勧められた「Black Box Diaries」(伊藤詩織監督)を観るためだった。
映画は、彼女がつけていた当時の日記をもとに進んでいく。衝撃的だったのは、ホテル映像だ。正面口に横付けされたタクシーから嫌がる伊藤を性加害者が無理やり引っ張り出そうとする様子や、ホテルのロビー付近で、カーディガンが肩からずり落ち、ほぼ意識がなく頭をぐらぐらさせている彼女を引っ立てるようにして足早に連れ去る姿。それらは、その日起きたであろうことを生々しく予見させる。
事件後、自宅近くの産婦人科に診察に行くが、避妊薬を処方されるだけで優しい言葉をかけてもらうこともなく、性犯罪を立証するような知恵も得られない。
警察へ被害届を出そうとするも、記憶も状況証拠もないため、なかなか受理されない。警察の取り調べでは、多くの署員の前で人形を使って被害状況を再現せねばならず、二次被害のような苦痛を経験したという。ホテル映像や目撃者らの証言をもとにようやく逮捕状を取った警察は、加害者が成田空港に来るという情報をつかみ、現場で待機したが、警視庁のある人物の一声で逮捕にストップがかかり、意図的に逃がすこととなる。その理由があまりに衝撃的だった。
次々と起こる信じがたい出来事に言葉を失った。
映画では、自殺寸前まで追い込まれる伊藤の内面を余すところなく映し出している。彼女の抱える行き場のない怒りや悲しみが存分に伝わってくる。
なぜこのようなことが起きたのか。
なぜ日本では、加害者が罰せられないのか。
伊藤を駆り立てるもの、それは不正義に対する強い憤り。それを原動力にして真相究明に奔走する。未来の被害者が泣き寝入りしなくて済む社会に変革しようとする硬い意志を感じる。
他方で、休まず行動することによって、彼女が受けた傷を直視しないようにしているようにも感じた。活発に動き回っていれば、耐え難い傷のことを考えずに済む。
だが行動すればするほど、性加害に無理解な社会から誹謗中傷を受ける。それでもひるまない。社会や法律がゆっくりでも確実に変わっていることに手ごたえを感じていたからだろう。ジャーナリストとして真実を追求することで、少しずつ自分の傷が癒されていく。傷を覆ったかさぶたが少しずつ剥がれ、真皮が生まれる。でも、ケロイドのような傷跡は完全には消えない。傷とともに生きていく。そのケロイドがいつか、その人のアイデンティティの一部になっていく。
また、証人たちの抱える苦悩も身につまされた。証言台に立つことによる立場上のリスクと、不正義に対する個人的感情の間を揺れる彼ら。それぞれの反応も実に人間的だと思った。自分がもし、そのタクシードライバーやホテルのドアマンだったら。もし警察官だったらどうしただろうか。
正義とは、勇気とは何かといった問いを観客に突き付ける。
ただ1点、この映画への集中を妨げるものがあった。それは、民事訴訟時、伊藤を勝訴に導いた元弁護士らが先々月、ホテルや証人らから許諾を得ることなく彼らの映像や音声が映画に使われているとして、世に問うべく記者会見を行ったことだった。
鑑賞中、終始そのことが私の脳裏をよぎり、映画に十分没入することができなかった。映像や音声が出るたびに、これも無許可で使われたのだろうかと考えずにはいられなかった。しかし、この映画が持つ社会的意義を考えると、やはり日本でも公開されるべきだと思う。
今後、この問題が解決され、必要な処置が取られたうえで日本で公開され、活発な議論が起きることを真に願う。
「全世界が公正なりせば勇気の必要なし」
(ギリシャ哲学者プルタルコス)
