天に咲く花
光りつつ 秋空高く 消えにけり
(永井 隆)
昭和20年8月9日
隆は妻が用意した水筒を肩からぶら下げると玄関の引き戸を開け外に出た。まだ7時だというのに日差しが強く、生暖かい空気と蒸し蒸しする湿った暑さはいかにも長崎らしい夏の朝だった。すでにシャツの下は汗ばんでいる。
「今日も暑くなりそうだ」
隆は独りごとのように呟くと妻の方に向き直った。
「それじゃ行ってくる。帰りは何時になるかわからんが、いいな、緑。警報がなったらすぐに逃げるんだ。家は燃えてもいい。おまえは早く逃げろ」
モンペ姿の緑は夫の顔を見て頷くと、首にかけた白いロザリオを手にとった。
「イエス様と一緒だから大丈夫ですよ。それにわたしの洗礼名はマリアでしょ。だから心配なさらないで。それよりもあなたのほうこそ、お気を付けて」
隆は妻に見送られてバス停まで歩いて行った。道沿いに並ぶ民家から立ち上る朝餉の煙。浦上の東を囲む金毘羅山は朝の陽を受けてくっきりした稜線を描き、うっすらとした雲は浅葱色の空に不揃いな模様をつけていく。
静かな明るい朝だった。

長崎医科大学で助教授として教鞭をとる隆は、朝の講義を終えたあと、二階の外来診察室でレントゲンフィルムの整理をしていた。時刻はまもなく11時になる。どこか遠くの方で低い音を聞いたように思った。隆は席を立って窓から外を見た。浦上天主堂の上空に分厚い雲が浮かんでいる。隆は耳をすませた。
音は雲の上から聞こえてくる。唸るような低音。B-29か――咄嗟にそう思ったが機影が見えない。音だけが近づいてくる。次第に大きくはっきりと。
午前11時02分。
強烈な光と爆風。
隆は窓硝子の破片と一緒に吹き飛ばされた。寝台、本箱、トタン板、あらゆる物が地響きのような轟音と共に空中を乱舞し、折り重なって隆の上に落ちてくる。それでも隆は目を開けていた。しかし何も見えない。右目の上から生暖かいものが首に向かって流れていくのを感じたが痛みはない。何が起こったのか、自分は生きているのか死んでいるのか、それすらもわからなかった。

突然すべての音が止んだ。暗黒と静寂。時もその動きを止めたかのような完全なる無の世界。
「隆さん、隆さん、隆さん」
隆は闇の中で妻の声を聞いた。
「みどり・・・・・・逃げろ・・・・・・」
「わたしは大丈夫。わたしはマリア。イエス様のお側にいるわ」
「どこにいる。みどり、どこにいる」
隆は妻の声に向かって叫んだ。その時、闇の中で大輪の花火が開いた。鮮やかな光の中に緑が立っている。絣のモンペと白いブラウス。二人で初めて行った花火大会で着ていた服。色とりどりの火の花が緑の背後で開いては消え、開いては消え、火の粉が降り注いでも緑は笑っている。
「隆さん、ここはとても綺麗よ。花火はね、亡くなった人たちへの弔いなの。あなたが来るまでここで待ってるわ」
「みどり、そこは危ない、こっちにおいで」
隆は手を差し出した。しかし、緑はその場から動こうとしない。再び真っ暗な空間に火の花が咲いた。眩いばかりの七色の光。それが消えると同時に緑の姿も見えなくなった。
それからどれほどの時間が経ったろうか。隆は、「永井先生、永井先生」と呼ぶ助手の声で意識を取り戻した。瓦礫の下から助け出され、死の淵から生還した隆は、右頭部の動脈切断という重傷を負いながらも、自分のシャツを切り裂いて頭に巻くという簡単な処置だけで、負傷者の救護にあたった。

翌日の朝、隆は自宅を目指して歩いていた。太陽はいつもと変わらず金毘羅山から顔を出し、大地に恵みの光を注いでいる。しかし、浦上の街には、生の営みを告げるものはない。自宅に戻った隆が見たものは、原爆の火に焼かれ真っ黒の骨だけになった妻と十字架の付いたロザリオの鎖。隆はその場に崩れ落ち、十字架を握り締めて妻の遺骨を見つめ続けていた。

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
(『長崎の鐘』サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)
今年も長崎の夜空に、散っていった魂を弔う火の花が咲く。
あれから81年目の夏。
(了)
※2026は長崎原爆投下81年目にあたります。
この作品は永井隆著『長崎の鐘』と藤山一郎が歌った『長崎の鐘』からヒントを得て書いたフィクションです。
