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《番外編》「おもしろい」って何なんだ

「おもしろい」人に憧れる。
でも、「おもしろい」って何なんだろう。

話術がある人?頭がいい人?型にはまらない人?

たぶん、私はどれも持ち合わせていない。
気の利いたこともあまり言えないし、別に頭がいいわけでもない。
型にはまらないどころか、むしろ自分から型にはまりにいくような、世間一般で見たらごくごく地味な人間だ。

「おもしろい」って、きっと「自分に持っていないものをもつ憧れ」からくる感情だと思う。
「おもしろくなりたい」と思っておもしろくなれる人は案外少ないと思うし、自分から「おもしろくなる」のを目指すのは結構難しい気がする。「おもしろくなる」ための努力の方向を間違えて世間に迷惑をかけたり、独りよがりで暴走したり、犯罪行為をしたりしたら目も当てられない。

ときどき、私はお笑いのライブを見に行く。
お笑いの芸人さんは人を楽しませるプロだ。マイク1本と自分の話術が武器の人、小道具を使って役を憑依させる人、企画モノで周りを動かすパワーのある人、とにかく自分の強みを活かした様々な方法を使ってくる。
天性のものなのか、養成所で何か学んでいるのか…そのあたりの事情には詳しくないけれど、とにかくそういう「プロ」の技量を目の当たりにしている時に、自然と「あー、おもしろい」という感情が出ている。

きっとそれは、私にそうした技量が何もないから。
もし自分に話術と人を楽しませられるカリスマ性があるなら、きっとここまで「おもしろい!」という感情でお笑いライブを見ることはできていないと思う。

もう1つ、「おもしろい」って、「この体験ができて幸せだな」と思う感情からくるものでもあると思う。

お笑いライブでときどき配られるアンケート。
あのアンケートにもし自由記述のような欄があったら、割と私は「楽しい時間をありがとうございました」と書くようにしてきたのだが、あるとき、どこで聞いたのか忘れたけれど、お笑いライブを見た感想をこう言っている人がいた。

「幸せな時間をありがとう」

あ、これがもしかして「おもしろい」の根幹なのか?と感じた。
自分が持ち合わせていない技量や能力への憧れ、そしてその憧れを体現できる人との出会い、それを見て「これを見られた私、今幸せ!」(…と、そこまで感じる人はもしかしたら少数派なのかもしれないけれど)と感じる心、それらが一緒になって「おもしろい」という感情が生まれる…ような気がしている。
どんなに技量がすごくても、その技量が別の誰かを貶めたり、不愉快に感じさせていたりしたら、それは「おもしろい」とは言えないし思えない。危害を与えるようなことがあったら「おもしろい」じゃ済まされない。

憧憬と幸福。これがきっと「おもしろい」の二大条件なんだろう。
だけど、何に憧れを感じるのか、何を幸せと感じるのかは人それぞれだから、「おもしろい」と感じる感度はみんな違う。だからこそ「おもしろい」の押し付けはできないし、するものでもないと思う。

ところで私はかつて、上司と私のやり取りを聞いた職場の人に、「やり取りがおもしろかったのでこっそりいつも聞いてました」「まるでショートコントみたいなおもしろいやり取りしてましたよね」と言われたことがある。
その上司は私に持っていないものを持ち合わせていたし、その上司と話していると楽しかったので、私も「おもしろい人だな」と思っていた。
だけど、もしかしたら、私も自分が気づいていないだけで、誰かをちょっとだけ幸せにできる技量が何かあるのかもしれない。それで誰かを「おもしろい」と思わせているのであれば、私もおもしろい。

この文章も、おもしろいと思う人とそうでない人がいると思う。
自分で今、この文章を読み返してみると、「なんだか陳腐でチープな文章だな」と思った。
文章力への憧憬は尽きないからこそ、文章力のあるエッセイなどを読むと「あぁ、おもしろい」と思える。幸せだ。

#創作大賞2026
#エッセイ部門

(2026/05/05)