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【八十五歩目】荘子と呼吸法 - かかとで息をする -


1.真人は踵で息をする。


❝何謂真人。古之真人,不逆寡,不雄成,不謨士。若然者,過而弗悔,當而不自得也。若然者,登高不慄,入水不濡,入火不熱。是知之能登假於道也若此。古之真人,其寢不夢,其覺無憂,其食不甘,其息深深。真人之息以踵,眾人之息以喉。屈服者,其嗌言若哇。其耆欲深者,其天機淺。古之真人,不知說生,不知惡死;其出不訢,其入不距;翛然而往,翛然而來而已矣。不忘其所始,不求其所終;受而喜之,忘而復之。是之謂不以心捐道,不以人助天。是之謂真人。❞

➙「真人(しんじん)」とは、どのような人物なのだろうか。

 古の真人は、少なさに逆らうことはなく、為しても猛ることはなく、物事に計らいを持っもつこともなかった。このような者は、失敗しても悔やむことがなく、道理にかなった成功を収めても自慢することがない。それゆえ、高所に登っても震えず、水に入っても濡れず、火に入っても熱さを感じない。知性が「道(TAO)」の極致にまで達した者とは、まさにこのような境地にある者のことだ。

 古の真人は、眠る時に夢を見ず、目覚めても憂いがない。食事に美味を求めず、その呼吸はきわめて深い。古の真人の呼吸は「踵(かかと)」で息をしていたが、凡人の呼吸は「喉(のど)」で止まっている。 他人に屈服して卑屈になった者が発する言葉は、まるであえいでいるかのようである。欲が深い者は、それだけ天から授かった本然の知恵(天機)が浅いのである。

古の真人は、生を喜ぶことも、死を忌み嫌うこともしない。この世に生まれてきたことを喜び浮か浮かれず、死にゆくことを拒みもしない。ただ軽やかに去り、軽やかに来るだけである。自分の始まりを忘れず、自分の終わりを追い求めもしない。生を授かればこれを受け入れて喜び、命を失えばあるがまま自然へと戻る。これを「作為的な心によって道を損なわず、人為によって自然の営みを助けない」と言う。これこそが「真人」である。

『荘子』大宗師 第六

 『荘子』における人間の一つの到達点「真人(しんじん)」についての記述です。現今の一般の人と対して、真人は外的な事象で心が動くことがなく、水に入っても冷たいと感じず、火に触れても熱いとは感じない。眠っていても夢を見ず、起きていても憂いがない。さらに、普通の人のように「喉で息をする」のではなく、まるで「踵(かかと)で息をする」ようである、としています。

2.丹田と呼吸。

 今回は、四世紀に葛洪によって書かれた道教経典『抱朴子(ほうぼくし)』から。

❝老君曰「忽兮恍兮,其中有象;恍兮忽兮,其中有物。一之謂也。」故仙經曰「子欲長生,守一當明;思一至飢,一與之糧。」思一至渴,一與之漿。一有姓字服色,男長九分,女長六分,或在臍下二寸四分下丹田中,或在心下絳宮金闕中丹田也,或在人兩眉閒,卻行一寸為明堂,二寸為洞房,三寸為上丹田也。此乃是道家所重,世世歃血口傳其姓名耳。一能成陰生陽,推步寒暑。春得一以發,夏得一以長,秋得一以收,冬得一以藏。其大不可以六合階,其小不可以毫芒比也。❞

→『老子』にも 「ぼんやりとして捉えどころがない(忽・恍)が、その中にはイメージ(象)がある。捉えどころがなくぼんやりとしているが、その中には実在(物)がある。」 とある。これこそが「一」と呼ばれるものである。ゆえに『仙経』にも。「汝、もし長生を望むなら、『一』を守り、それを明らかにせよ。飢えを感じるほどに『一』を念じれば、『一』は糧を与えてくれる。渇きを感じるほどに『一』を念じれば、『一』は飲み物を与えてくれる。」とある。

 この「一」には、実は名前も字(あざな)も、服の色もある。 姿かたちは、男であれば九分、女であれば六分の大きさである。 それは、ある時は臍(へそ)の下二寸四分の「下丹田(かたんでん)」にあり、ある時は心臓の下の「絳宮(こうきゅう)・金闕(きんけつ)」と呼ばれる「中丹田」にある。またある時は、両眉の間から奥へ一寸の「明堂(めいどう)」、二寸の「洞房(どうぼう)」、三寸の「上丹田(泥丸)」にある。 これらこそが道家が最も重んずる奥義であり、代々、血をすすり合って固い誓いを交わし、口伝によってその姓名を伝えてきたものである。

 「一」は陰を成し、陽を生じさせ、季節の巡りを推し進める。 春が「一」を得れば万物は芽吹き、夏が「一」を得れば万物は成長し、秋が「一」を得れば万物は収穫され、冬が「一」を得れば万物は蔵(しま)われる。 その大きさは、天地四方の広がり(六合)を物差しにしても測りきれず、その小ささは、細い産毛の先と比較することもできないほどである。

『抱朴子』地真  第十八

 『抱朴子』は三国志の終わりのころ、日本でいうと卑弥呼の時代に書かれたものですが、この書物には我々に馴染みのある「丹田(たんでん)」の記述があります。この丹田は仏教でも使われる単語ですが、本来は道教の用語です。道教では呼吸を整える修行法には「守一(しゅいつ)」「調息(ちょうそく)」などがあり、この「丹田」を意識することを重視しています。丹田のうち、へその下の下丹田は特に有名です。
 一般の人は「喉(のど)」で呼吸をするわけですが、『抱朴子』いおいて呼吸法の修行をする人は「へそ」を意識して深い呼吸をするようです。『荘子』の場合にはさらに突き抜けて「かかと」で息をするとまで言っています。

3.ふいごのはたらき。

❝天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。❞

➙ 天地に「仁」はない。 万物を、祭りが終われば捨て去る「わらの犬」のように扱う。 聖人にも「仁」はない。 人々を、ただ「わらの犬」のように放っておく。

 天地の間は、まるで「ふいごのようではないか。 中はうつろ(虚)だが、尽きることはなく、 動かせば動かすほど、ますますが溢れ出してくる。」

 人は多くを語れば語るほど、行き詰まりも早くなる。 そんなことよりも、ただ「中(虚静な態度)」を守っているのが何よりである。

『老子道徳経』第五章

 『老子』も自然の働きを「ふいご」にたとえます。今ではなかなかみませんが、鍛冶などで使われる空気を送り込んで循環させる道具です。もちろんこれは外的世界だけでなく、人間の内面のはたらきも同じよう呼吸をするふいごであるという暗喩です。

4.吐故納新(とこのうしん)と導引(どういん)。


吹呴呼吸,吐故納新,熊經鳥申,為壽而已矣,此道引之士,養形之人,彭祖壽考者之所好也。❞

➙ ゆっくり深く呼吸をする。古い空気を吐いて、新しい空気を取り込む、熊が木にぶらさがるような、鳥が飛び立つような伸びをして運動に専心する。これは、導引の人、養生をする人、彭祖のように長生きをしたい人の好むところである。

『荘子』刻意 第十五

 『荘子』の刻意篇の「吐故納新(とこのうしん)」も、呼吸の際の意識の持ち方についての記述です。ちなみにその後に、長生きをするために、「熊經鳥申(熊が木にぶらさがるような、鳥が飛び立つような伸びをして運動に専心する。)」とあります。

『導引図』馬王堆三号漢墓

 これは、紀元前2世紀のものとされる「馬王堆(まおうたい)」から出土した「導引」についてかかれた図を復元したものです。呼吸を意識して身体を伸ばしたりしているわけですから、現代でいう所のヨガみたいなものですかね。

 ちなみに、『荘子』では「熊のように」「鳥のように」と動物に喩えています。後に三国志の時代の名医として知られる「華佗」がこの導引を体系化して「五禽戯(ごきんぎ)」という方法を編み出していまして、これを現代に復活させて実践している方もいらっしゃるようです。

はい、今日はここで限界。つづきは八十六歩目でお会いしましょう。それではஉன்னை பார்க்கிறேன்(Uṉṉai pārkkiṟēṉ)!


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