お酒飲めた方が幸せなのか論争 part1
参議院選が終わりました。街は少しばかり静かになるわけです。しかし、そんなのは束の間でしょう。これからすぐまた選挙になるかもわかりません。
どの候補者が、どの党が、信用できるorできない。とか、あなた方がSNSを見ていたのなら、いかに雑に情報が散らばっていたかわかるでしょう。「だから嫌なんだよ」って思った方は少なからずいたかと思います。
でも、確実に言えることは。今、政治が動いています。変わりますよ。
私は開票の速報をお酒呑みながら見ていました。だって、あれは夜だったでしょう? 許された時間なのだから、お酒だって呑んでもいい。
あなたは、今夜は呑んでいますか?
お酒、好きですか? 今夜はお酒の話をしましょう。
お酒を飲むという行為は限られた人にしかできない、ある種特別なものです。
法律で許されている。アルコールに耐性がある。信仰上許されている。
法律とは、明確に線引きされた、守るべき社会のルールであって、言ってしまえばお酒強いか強くないか、つまりアルコールに耐性があるのかないのかは関係ありません。
アルコールへの耐性。これはイエスかノーの明確な線引きがなく、人によって差があるグラデーション状になっているわけです。舐めるのもダメな人もいれば、2,3杯で気持ちよくなれる人、度数の高いお酒をストレートでたらふく呑んでもケロッとしている人。 本当に個人差があります。
お酒を飲めるか飲めないかという質問しても、主観の答えが返ってくるわけですから。「あれ、結構飲めんじゃん」「え、全然飲めないじゃん」と質問者と回答者の間で食い違いだって発生します。
宗教の中でも宗派によっては禁止されていることはよくあります。もし、自分の信仰する宗教がダメだと言うなら、ダメですから、その人はお酒を飲む事ができない、と断定する事ができます。
例えばアルコールに耐性のある人の中で、妊婦や病気を患っている人の場合。
これは、お酒が飲めない、わけではないです。飲む条件は揃っているが、飲まない方が好ましい、という状態なので、絶対どう頑張っても飲めないわけではない。だから、とりあえず外しましょう。
さて、私はつくづく思うのですが、
「お酒を飲めた方が幸せなのか、飲めない方が幸せなのか」
もちろん幸せの尺度が人によって違うことを重々承知の上で話を進めます。
ではまずはこう考えてみましょう。
「知ってる方が良いのか、知らない方が良いのか」
例えば、高級な本当に美味しいお寿司の味を知ってしまったら、スーパーのお寿司は食べられなくなる、みたいなのありますよね。
私は23歳、別に裕福な家庭で育ったわけでもないし、そんな一人数万円するようなお寿司は食べた事がありません。たまに寿司食べたくなって、スーパーの値引きシールが貼られたお寿司だって美味しいと感じます。
それは私の舌がバカだから、なのでしょうか。それとも、彼ら(お寿司)の真の姿を知らないからなのでしょうか。知ってしまったら、もう戻れなくなってしまうかもしれない。
私はそうなるのは嫌だと思いました。それは自分が貧乏であることの負け惜しみではなく、単純に自分を満たせうる幅が狭まるということが嫌なのです。
しかし、その考えは矛盾している。
だって、自分は自分を満足させる幅は広い方が良いと言うのに、高級寿司という領域には無闇に入らないようにしている。
この場合、(上と下という表現を使いますね)上の人たちは下に降りてこないけれど、下の人たちは人たちは上に昇ることができない、ということになってしまいますよね。
できるけどしたくないのか、できないからこそしないでおくのか。
こう言うと、前者には選択肢が残り、後者には選択肢が残りません。
選択の余地があるのとないのではどちらが幸せと言えるのでしょうか。
お酒の話に戻ります。
飲めない人は、幸せと感じようが感じまいが、飲まない選択しか取れません。反対に飲める人は幸せじゃないなら飲まなくて良いという選択を取れます。
そこでまず4つのタイプを整理しましょう。
飲めるしー幸せ 飲めるけどー幸せじゃない
飲めないけどー幸せ 飲めないしー幸せじゃない
この4つに分けられるわけですが、厄介なのは、
お酒飲めるけど飲めなかった方が幸せだと感じる人、お酒飲めないから飲めた方が幸せだと感じる人。
の2タイプでしょうね。むしろここがこの論点のキーポイント。
ここで、知ってる方が良いのか、知らない方が良いのかという考え方を用いればどうでしょうか。お酒の味を知っている方が良かったのかどうか。
今夜はこの辺りにしましょう。この話はpart2へと続きます。次回はコスパを重視してましょう。何が見えてくるか。
では良い夜を。
