仕事での善意と責任 無手勝流の甘えた発想(後編)
■ 善意は仕事で自立した人同士の助け合い
前回までで、相手の善意ありきの甘ったれた判断について、筆者の工場での体験(フォークリフトのオペを当時の上司がタダで出入り業者に依頼した件)を交えつつ批判した。そして、こうなってしまうのは作業者への敬意が不足し、自分で何かをやった経験が無いからではなかろうかと、仮説を述べた。
こうした恥ずかしい判断をしないためにも、前回までの語り口のとおり、筆者は、免許なり、技能なり、何かを習得して無手勝流を脱することを推奨している。
無論、向き不向きはあり、誰もが全ての技能に精通し、長けている必要があるわけではない。大事なのは無手勝流を改めることで「プロとして精神的に自立を果たすこと」だと思う。
筆者はそれを得るために、下手でも構わないので、最低限のツール(免許や資格)を取って、責任感や大変さ、そして羞恥心を知れと言っているのだ。
80近い資格を取得した筆者とて、重機オペレータはあまりやりたくない。向き不向きで言えば不向きな方だと思っているし、危険有害作業なのだから、万が一を考えると、危険手当を多少貰ったところで可能な限りやりたくない。
とはいえ仕事だから必要な時は頑張って従事はする。会社(というか無手勝流の嫌な上司)が出してくれない受講費用を私費で捻出したり、後学や意識向上のために関連資格を取得することはこれまでもしてきた。技能は低くても、それがプロの責務と理解だと思っている。
筆者は少なくとも、自分に何ができて何ができないか、自分にできないことをやってくれる人がいかに有難いか、そして自分の領分は自分で確実にこなすべきであろうという意識だけはある。故に繰り返すが、「下手でもプロ」と自負して、適材適所と責任ある行動を心がけている。
プロとしては、実際に作業に従事しなくとも、従事者の作業環境の確保や、躊躇い、恐怖と言った心情には配慮したいと思うものだろう。また、こうした作業が向いている人(器用かつ勇気がある人)には素直に敬服もできる。毎度作業者には感謝するし、コンプラ面も含めてタダでお願いするのは、可能な限り避けなければならないと感覚で分かりもする。
不義理や法律違反は避け、労働者の仕事をきちんと評価したいのだ。プロとして。
かつて3.11の震災の折、東京都のハイパーレスキュー隊が、命がけで放射線管理区域に入り、放水作業に従事したことがあった。そして当時の東京都知事であった石原慎太郎氏は、帰投したレスキュー隊員達を前に、涙を流しながら頭を下げて感謝した。
筆者はこれが、あらゆる危険作業従事者に対して向けるべき当然の態度であり、道理であると思っていて、今もその姿が忘れられない。
石原氏は当然、災害現場でポンプ車を迅速に操作し、放水することはしないし、その心得もおそらくなかっただろう。だがそれでも、まごうことなきプロではあったわけだ。
プロとして、石原氏は作業者に対する「敬意」「感謝」「理解」を間違いなく持っていた人格者であったと筆者は思っている。
仕事での善意と責任の問題は、本来はこのような感覚を持ったプロ同士でなければ真に理解し、発揮し合えないのではないだろうか。それ以外ははっきり言って、図々しい甘えになり得ることだ。
プロのスピリットが無ければ、人々の貴重な善意は、いつまでも踏みにじられ、踏み躙った方は無手勝流の分際で羞恥心すら持たなくなると思う。今の日本人はもっと、そのスピリットを養わなければならないだろうと筆者は思う。
最後になるが、最近はお勉強と事務処理ばかりが得意の無手勝流が、安全な立場から屁理屈ばかり言って増長し、馴れ合いや甘えの発想ばかりで「善意」を語っている。誠にうんざりである。
