専業主婦の憂鬱と、したたかな罠
20時半を過ぎているのに、今日は夫からの連絡が一度もなかった。
昨日、夕食のあと、ふとしたことで口論になり、わたしは寝室に逃げ込んだ。
そしてその夜、夫は寝室に入って来なかった。
そんな今朝は、いつもどおりふたりとも同じ時間に起床し、夫は食事をとり、身支度をし、わたしは同じ空間でテレビのニュースを見るふりをして、ソファにただ座っていた。
そして当然のように、お互いひと言も言葉を交わさなかった。
夫は何も言わずに出かけていった。
いつも玄関まで見送りに行くわたしは、所在なくリビングのソファに座ったままだった。
いつもならわたしが内側からかけるドアの鍵が、今朝は外から施錠され、その音がわたしを冷たく突き放すように響いた。
体を壊して仕事を辞め、専業主婦になって数年が経つ。
専業主婦というより、子供がいないわたしの場合は、ニートにちかい。
だから、ときどき、自分への苛立ちや不安などから、つい夫にあたってしまうことがある。
昨日だって、自分が悪いのはわかっている。
でも、夫の放った言葉がどうしても許せなくて、ひと晩寝て起きても、まだ苛立ちはおさまっていなかった。
普段、日中の夫は、よほど忙しくない限り、必ず一回は、わたしに連絡をよこす。
わたしが勤務中だったときであればメールで、自由にでられる環境なら電話で。
もちろん、用があるわけじゃない。ただ、わたしとおしゃべりするために。
タバコを吸わない夫は、わたしへの電話が“一服”なのだと言う。
それは付き合い始めた頃から、もう20年近く経った今も変わらない。
たとえケンカをしたまま出かけて行った日でも、変わらない。
だから今日も、かかってきたら、どんな不機嫌な態度で電話に出てやろうか、とおもっていたのに。
日中、不機嫌と期待の入り混じった気持ちで、わたしは密かに連絡を待っていた。
けれど、よほどわたしに苛立っているのか、それとも連絡ができないくらい今日は忙しいのか、夕方になっても連絡はなかった。
いじっぱりなわたしは、自分からメールのひとつもしようとはおもえない。
喧嘩をしていたって、向こうから「いらない」と言ってこない限り、役割分担として食事をつくるのが、今のわたしのつとめだとおもっている。
今夜のぶんだけなら今ある材料だけでなんとかやりくりすることもできるけれど、このまま部屋にいてももっと落ち込みそうなので、重い腰をあげ自宅からいちばん近くの、ふだんあまりいかない小さなスーパーに向かった。
入り口を入ってすぐのところに、切り花が売っている。
花屋さんで買うみたいにおしゃれな花はないけれど、新鮮でリーズナブルだから何度か買ったことがある。
どんな花だって、お気に入りの花瓶に飾れば、わたしは十分幸せな気分になれるのだ。
仏花、百合、うすいピンクのミニバラ、ラナンキュラス。一種類の花を束ねたブーケが多く、あとは霞草と名前を知らない小花とリーフがセットになった小さなブーケが数種類。
その中から、少しでも明るい気持ちになりたくて選んだのは、淡いオレンジとピンクのカーネーションの328円のブーケだった。
お豆腐とまいたけ、ロックアイスを買って店をあとにする。
帰り道、この店と自宅を隔てる踏切の遮断機が降り始めていた。
待つあいだ、ふと、手に持った花に目がいく。
せめてもう少しおしゃれで立派なブーケだったらな。
いつもだったら、リーズナブルに買えてうれしい花が、なんだか今日は虚しかった。
悲しくなって下を向くと、華奢なサンダルを履いた自分の素足が目に映った。
「おんなじ足だ」
そうおもった。
子供の頃、怒られたり、泣きそうになったとき、わたしはよく、自分の足元を見つめていた。
今、見つめている足は、あの頃よりいくぶん大きくなって、爪が赤く塗られているだけだった。
ちいさな女の子が、そこにいるような気がした。
——どこにも行けるところがない。
——どうすることもできない。
すごく悲しくて、くやしくて、自分が情けなかった。
買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、ふだん使っている透明なガラスの花瓶と、キャビネットの中にしまっているぶどう色をした雫型のオブジェのような美しい花瓶を取り出した。
買ってきた花をふたつに分け、それぞれ適当な長さに切って差し、ひとつは食卓のテーブルに、もうひとつは同じ部屋にあるソファの前のローテーブルの上に置いた。
花は色が淡く素朴で、本数も多くはないけれど、でも、花瓶に活けたら新鮮でとても可愛らしかった。
「〇〇(わたしの名前)は、お花が好きなんだね」
「なんか“女の子“って感じで、かわいい」
「こうやって、丁寧に暮らしてるんだね」
そういえば夫は、わたしが花を飾っているとこんなふうにおもう人だった。
ふと、そんなことをおもいだしたら、面白くなって笑っていた。
それは、図らずとも、名案だった。
夕飯の支度をするわたしは、ほんの少しだけワクワクしていた。
ポッドキャストを聞きながら、サクサクと野菜を切って、シャーシャーと炒めた。
火にかけた鍋をみていたら、クツクツとまた笑いがこみ上げてきた。
ほどなくして、いくつかのおかずが完成した。
いつもならとうに帰ってきている時間になっても、夫はまだ帰ってこない。
少しの寂しさと不安を感じたけれど、でもその裏ではもうとっくに別の感情が湧きあがっていた。
早く帰って来ないかな。
時間を持て余して、ダイニングテーブルの椅子に座ると、テーブルに置かれた花が目に入る。
この花たちは、もうわたしを癒すだけの花ではない。
これから、すばらしい共犯者になってくれるのだ。
カチャッとリビングのドアが開いて、夫が無言で入ってきた。
「食事は?」
わたしは慎重に、ぶっきらぼうな声でたずねる。
夫はソファに腰をおろし、スマホから目を離さず「いらない」と言った。
それから、しばらくの静寂のあと、ぽつりと声がした。
「……やっぱり、少しもらおうかな」
かかった!
夫の声色は、先ほどと明らかに変わっていた。
わたしは、わたしの共犯者になった花と夫をさりげなく見た。
木の枝で作った釣り竿に魚がかかったときのようなうれしさと、「このままもう少し行ったら大通りに出られますよ」と教えてもらったときのような安心感が、同時に胸を満たしていった。
冷蔵庫から鍋を取り出し火にかける。
ふつふつと温まってくる鍋を覗き込みながら、わたしは笑いをこらえていた。
