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誰も来ない葬儀で、一人だけ来た人がいた

参列者のいない葬儀を、何度か担当したことがある。

身寄りのない方が亡くなった場合、そういうことが起こる。自治体からの依頼で、こちらが最低限の形を整えて、火葬場まで送る。読経もなく、焼香する人もいない。

その日も、そういう予定だった。

亡くなったのは七十代の男性で、アパートで一人暮らしをされていた。ご家族は見つからなかったと聞いていた。

式場を使うほどの内容ではないので、安置室で簡単なお別れをして、そのまま火葬場へ向かうことになっていた。

出発の三十分ほど前だった。

年配の女性が一人、玄関に立っていた。

こちらでお別れができると聞いたのですが、と言われた。

私は、失礼ですがどういったご関係で、と尋ねた。

同じアパートの、隣に住んでいた者です、と。

その方は、手にビニール袋を提げていた。中には、缶コーヒーが一本入っていた。

安置室に案内すると、その方はしばらく黙って立っていた。それから、袋から缶コーヒーを取り出して、棺の脇に置いた。

いつも自販機で、これを買っていたので、と言われた。

聞けば、その男性とは十五年ほど隣同士だったという。

親しかったわけではないらしい。挨拶を交わす程度で、家に上がったこともない。ただ、ゴミ出しの日が同じで、朝によく顔を合わせた。

年に何度か、廊下で立ち話をした。天気のこと、値上がりのこと、その程度の話だ。

亡くなったことは、大家さんから聞いたそうだ。

最初は、行っていいものかどうか迷ったという。家族でもないし、友人と呼べるほどでもない。ただ、誰も来ないと聞いて、それはあまりに寂しいと思った、と。

その方は、五分ほどで帰られた。

私はその後、火葬場までその男性をお送りした。収骨も、私たちだけで行った。

けれど、あの缶コーヒーのことは、今でも覚えている。

身寄りがない、という言葉を、私たちは簡単に使う。

書類の上では、たしかにその通りだ。配偶者も子もなく、きょうだいとも連絡が取れない。緊急連絡先の欄が空白のまま亡くなる方は、実際にいる。

けれど、あの日わかったのは、書類に載らない関係というものが存在するということだ。

十五年、朝に挨拶を交わしていた。それは家族ではない。友人と呼ぶには薄いかもしれない。

でも、その人が亡くなったと聞いて、缶コーヒーを持って来る人がいる。

それは、関係と呼んでいいのではないかと思う。

あの男性は、自分にそういう人がいたことを知らないまま亡くなった。おそらく、隣人がそこまで思ってくれているとは考えていなかっただろう。

そう思うと、少し切ない。同時に、少し救われる気もする。

私たちは、自分がどれだけの人と繋がっているかを、正確には知らない。

年賀状の枚数でもなく、電話帳の登録数でもない。どこかに、自分が思っている以上に、自分のことを覚えている人がいるかもしれない。

逆に言えば、私たちも誰かにとって、そういう存在になっている可能性がある。

近所で見かけなくなった人がいたら、少し気にかけてみる。それだけのことが、意外と大きいのかもしれない。

もっとも、これは制度で解決する話ではない。行政の見守りサービスも大事だが、あの缶コーヒーは、制度からは生まれない。

あなたの周りに、名前も知らないけれど、いつも顔を合わせる人はいるだろうか。

もしよかったら、これからもこういう話を書いていきますので、のぞきに来ていただけたら嬉しいです。

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