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合理主義は、誰を置き去りにするのか——山口文象という「都市の技術」

山口文象とは誰か

山口文象(やまぐち・ぶんぞう/旧名:山口蚊象)は、1920〜30年代の日本において、建築を社会へ接続し直す方向へ早い段階で踏み込んだ建築家である。分離派建築会に関わりつつ、1923年に創宇社建築会を結成した点は重要で、創宇社は“大卒エリート中心”の分離派に対して、逓信省の同僚である中卒の若手図工が中心だったとされる。つまり出発点から、建築を「芸術」だけで完結させない圧が強い集団だったと位置づけられる。
1929・1930年に創宇社が「新建築思潮講演会」を開催し、山口は「合理主義反省の要望」「新興建築家の実践とは」を講演している。その後にドイツへ渡り、ベルリン滞在期の記録(ノートや日記)からは、“都市”を媒介に近代建築像を捉え直そうとした志向が読み取れる。帰国後は事務所を開き、《日本歯科医学専門学校付属医院》(1934)などでモダニズム建築の担い手としても注目される。

「合理主義反省の要望」は弱く見える

山口の「合理主義反省の要望」を、合理主義への批判として読むとき、僕はそこに確固たる決意を読み取ることができなかった。合理主義的な建築観をもつ佐野利器に対して、文化や芸術の必要を認めさせたい、という分離派的な問題意識を継承するのであれば、漫然とした議論ではなく、実務的な国家の存亡を見据えた投げかけが必要だったのではないか、という違和感が残る。

ただし、この弱さは単に論旨の弱さではなく、山口が批判の対象を「倫理」ではなく「方法」に置き直そうとしたことに由来する可能性がある。創宇社の講演会パンフレットで提示された争点は、「自然科学的にであるか、社会科学的にであるか」という方法論の選択であり、どの手法で“新建築理論”を樹立するのかが切実に問われていた。したがって山口たちは、合理主義を否定して終えるのではなく、合理主義が“効きすぎる”ことによって生じる社会の矛盾へ踏み込むために、批判を倫理ではなく方法の問題として構成し直そうとしていた、と解釈できる。

分離派に欠け、創宇社に濃かった危機感

分離派と創宇社の差異を、僕は「危機感の所在」に見出したい。分離派が主として「芸術領域の確保」を戦った集団だとすれば、創宇社はより直接に「生活の土台」を突きつけられた集団だった。創宇社が逓信省の同僚図工たちを中心としたという出自を踏まえると、生活や労働の条件が理念としてではなく現実として迫っていたと考えられる。

ここで重要なのは、社会の生産体制がブルジョアに傾きすぎることへの危機感である。この危機感は分離派より創宇社に濃厚であったのではないか。たとえば同僚雇員の収入をしきりに気にしていた記述からは、設計以前に生活条件が問題として現れていることが読み取れる。したがって創宇社は、衛生や経済性などの研究を設計へ落とし込み、無産階級の大衆へ視線を向ける社会意識を形成していったと推測できる。ここでの社会意識は理念というより生活防衛に近い。

近代建築を様式から解放し、「都市の技術」として再定義する

新建築思潮講演会で強く主張されていたように、近代建築の理論と表現の乖離に直面した山口は、都市建設の実践のなかに新たな近代建築像を探ろうとしていたように見える。ここで山口が試みたのは、近代建築を様式的思考から解き放ち、社会科学的手法を参照しながら、都市や空間の組織化の技術として建築を定義し直す作業である。つまり建築を「表現」から「編成」へ押し広げることで、近代建築の射程を更新しようとした。

この点は、滞独期の活動からも補強できる。滞独期の山口は「都市」へ関心を寄せ、エルンスト・マイの講演記録やソ連の都市計画へ視線を伸ばしていたと整理されている。したがって、山口が接近していったのは、単に建築の形態言語ではなく、都市を組織化する技術としての近代建築像だったと考えられる。

マニフェストが階級闘争へズレていく瞬間

創宇社は「無産階級の建築」を志向し、階級闘争の言説へ傾斜していく。しかし僕は、この傾斜が山口の真意と必ずしも一致しない可能性があると考える。山口が危惧していたのは、建築家が合理主義を信頼しすぎた先で、無産階級を無視した社会がつくられ、物質主義的な建築が大量生産される未来である。だからこそ社会科学的手法を用いて批評的な文章を書いたのではないか。

その観点からすると、創宇社が有産階級のものであった文化や芸術に憧れて、無産階級の建築を志し、階級闘争に加わりながら奮闘する姿は、山口の志向(=建築の本質を大衆へ開き、生活の足枷を外すこと)からは少しズレが生じているようにも見える。山口の活動には、無産階級に生まれ育った境遇で建築を志す人々が、金銭的困窮によって志を断たれないように、建築の成立条件そのものを大衆へ開こうとする意志が垣間見える。つまり山口の関心は、単なる階級闘争のスローガンではなく、「誰が建築に参加できるか」「建築はどのように社会へ実装されるか」という制度と技術の側にあったと考えられる。

結論

以上より、山口文象を「合理主義批判」や「ポスト分離派」の枠だけで回収することは不十分である。山口が問題化したのは、合理主義の倫理的欠陥というより、合理主義が社会を単純化し、不可視のまま置き去りにする層を生み出すこと、その結果として都市と建築が物質主義的に大量生産されていく未来である。これに対して山口は、社会科学的手法を参照しつつ、建築を「都市や空間の組織化の技術」として再定義し、近代建築像を更新しようとした。
したがって山口を継ぐとは、形態や様式を模倣することではなく、建築が何を可視化し、誰を不可視化しているのかを問い続け、建築を都市の技術として組み立て直す態度を引き継ぐことである。

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