徳島の渦に、フロックスは一致を咲かせる――一致とは、同じ色に染まることではなく、違うまま同じ拍に足を出すことだった
保育士の鈴木友里は、園児が描いた「灰色の絵」をきっかけに、個性と足並みの間で自信を失っていた。徳島の渦潮、標高六・一メートルの弁天山、そしてフロックスの花に導かれ、彼女は阿波おどりの夜に「違うまま一致する」意味を知っていく。
本作はフィクションです。
登場する人物・出来事・場所はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 逆流の渦、あるいは標高六・一メートルの孤立
1
灰色のクレヨンは、いつも最後まで短くならなかった。
赤や黄色や水色は、春の終わりには紙巻きの部分まで剥がれ、子供たちの小さな指に色を移しながら、箱の中でころころと痩せていく。けれど灰色だけは、どの箱でも長いままだった。黒ほど強くなく、白ほど役に立たず、雲を描くには暗すぎて、道路を描くには頼りない。子供たちは、だいたい茶色か黒を選ぶ。灰色はいつも、使われるのを待つだけの色だった。
鈴木友里は、その灰色が画用紙の隅に塗り込まれているのを見つけたとき、すぐには声をかけなかった。
徳島市内の小さな保育園。午前の自由画の時間だった。窓の外では、園庭の砂場に朝顔の支柱が影を落とし、まだ梅雨の名残を含んだ空気が、室内の床にうっすらと湿り気を残している。扇風機は回っているのに、糊と汗と古い木の匂いが混ざった保育室の空気は、いつまでも動かない。
五歳児クラスの子供たちは、それぞれの机で絵を描いていた。恐竜を描く子、母親の顔を描く子、空いっぱいの虹を描く子。赤、黄色、青、緑。子供たちの手元は、たいてい賑やかだった。
その中で、健太だけが、画用紙の右下を灰色で丁寧に塗りつぶしていた。
力任せではない。怒っている手つきでもない。クレヨンを短く持ち、隙間を埋めるように、何度も何度も同じ場所を撫でている。白い紙の繊維に、灰色がゆっくり沈んでいく。周囲には小さな家があり、太陽があり、青い車がある。明るい絵の中に、その灰色の四角だけが、なぜか重たく沈んでいた。
「健太くん」
友里は椅子を引き、健太の横に膝をついた。
「ここ、何を描いたん?」
健太は顔を上げなかった。唇を少し尖らせ、灰色の上にさらに灰色を重ねた。
「……ここは、まだ決めてない」
「まだ決めてない場所?」
「うん」
友里は、それ以上聞かなかった。子供の絵には、すぐに名前をつけない方がいい時がある。大人は安心したくて、これは雲だね、道路だね、影だね、と言いたがる。けれど子供の中では、まだ雲にも道路にも影にもなっていないものが、確かに存在していることがある。
「そっか。決まったら、先生にも教えて」
健太は、小さく頷いた。灰色のクレヨンの先が、ぽきりと折れた。
問題になったのは、その日の夕方だった。
迎えの時間。玄関には子供たちの声と、保護者の靴音と、消毒液の匂いが混じっていた。友里は一人ずつ荷物を渡し、連絡帳を確認し、転んだ子の膝の絆創膏について説明し、昼寝をしなかった子の様子を伝えていた。
健太の母親は、いつも通り時間ぎりぎりに来た。細いヒールの音が玄関のタイルに響く。仕事帰りのスーツは皺一つなく、髪も化粧も崩れていない。いつも疲れているはずなのに、疲れを見せることすら自分に許していないような人だった。
「先生」
連絡帳を閉じようとした友里の手が止まった。
「今日の自由画、見ました」
母親は、健太の荷物袋から画用紙を出した。右下の灰色は、乾いた夕方の光の中で、朝よりもいっそう濃く見えた。
「これ、何ですか」
責めるための声ではない、と最初は思った。けれどその声には、薄い紙で包んだ刃物のようなものがあった。
「健太くんに聞いたら、まだ決めてない場所だと言っていました。何かを描こうとしている途中かもしれません」
「途中?」
母親の眉がわずかに上がった。
「でも、他の子の絵は明るいですよね。虹とか、家族とか、花とか。うちの子だけ、こんな隅に灰色を塗って。園で何かあったんじゃないですか」
友里は言葉を選んだ。
「健太くんは今日、特に大きなトラブルはありませんでした。給食も食べましたし、外遊びも――」
「そういう表面の報告を聞いているんじゃありません」
母親の声が少し硬くなった。周囲にいた保護者が、聞こえないふりをして靴を履かせる速度を早める。
「子供の絵って、心の状態が出るって言いますよね。こういうのを見逃さないのが、保育士さんの仕事じゃないんですか。個性を尊重するって、何でも放置することとは違うと思いますけど」
友里は、健太の方を見た。健太は母親の後ろで、小さなリュックの肩紐を両手で握っていた。自分の絵が責められていることだけは、分かっている顔だった。
「放置しているつもりはありません」
声が少し震えた。友里は自分でそれに気づき、奥歯を噛んだ。
「ただ、すぐに不安なものとして決めつけたくないんです。健太くんの中で、まだ名前が決まっていない場所かもしれませんから」
「名前が決まっていない場所?」
母親は、笑わなかった。ただ、さらに冷たい目をした。
「先生、詩みたいなことを言われても困ります。私たち保護者が求めているのは、きちんとした対応です」
その時、園長が事務室から出てきた。友里は、一瞬だけ救われると思った。けれど園長は、母親に深く頭を下げた。
「申し訳ありません。今後は制作活動の様子も、より丁寧に見ていくようにいたしますので」
「園長先生、お願いします。こちらも仕事をしているので、日中のことは園を信じるしかないんです」
「はい、もちろんです。担任にも指導しておきます」
担任にも指導しておきます。
その言葉が、友里の胸の中で小さく割れた。健太が灰色のクレヨンを折った時より、ずっと鈍い音だった。
母親は健太の手を引いて帰っていった。健太は一度だけ振り返った。何かを言いたそうに口を開きかけ、結局、何も言わなかった。
玄関のガラス戸が閉まる。夕方の湿った空気の中に、消毒液の匂いだけが残った。
「鈴木先生」
園長は、母親が見えなくなってから声を低くした。
「あなたの考えも分からないわけじゃないけどね、保護者に不安を与えたら意味がないの。子供の個性を見守るのは大事。でも、園としては足並みを揃えないと」
「足並みを……」
「そう。みんなで同じ方向を向いていかないと。若い先生は、自分の理想を大事にしすぎるところがあるから」
友里は返事をしなかった。喉の奥に、熱いものが詰まっていた。
足並みを揃える。
その言葉は、正しい。園には規律が必要だ。保護者への説明も必要だ。集団生活で、好き勝手だけを許すわけにはいかない。友里だって分かっている。分かっているから苦しかった。
けれど、足並みを揃えるという言葉が、健太の灰色を消すことと同じ意味になるなら。子供の中にまだ名前のない場所を、大人が安心できる色で塗り替えることになるなら。
それは、本当に保育なのだろうか。
退勤時刻を過ぎても、友里はしばらく保育室に残っていた。机の上には、子供たちの自由画が乾かしてある。虹、家族、恐竜、花。健太の絵だけ、右下に灰色の沈黙を抱えている。
友里はその絵に触れようとして、手を止めた。
分からない。自分は正しいのか。健太を守ったつもりで、母親を不安にさせただけなのか。園長の言うように、若さゆえの理想論なのか。
灰色は、何も答えなかった。
園を出たとき、空はすでに濃い藍色に沈みかけていた。友里は自転車置き場でしばらく立ち尽くし、スマートフォンの画面を見た。誰かに連絡する気にはなれなかった。家に帰っても、今日の言葉が耳の中で回り続けるだけだと分かっていた。
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