ある気づき : 発見について
約3100字
初自主リサイタルを終えたあと、聴いてくださった方々から、思いもよらないほど様々な感想をいただきました。
考えてみれば、幼い頃からそれまで、私は自分の演奏を「評価される立場」にいました。
演奏者が育っていくには何が必要か、先生や専門家から講評をいただいたり、指導を受けたりしてきました。
それはありがたいことであると同時に、どこか不安を含む緊張を伴うものでもありました。
そこには、いつもどこか切磋琢磨の空気がありました。
でもリサイタルには、音楽を愛好している方、音楽とは別のところで知り合った友人や知人もいました。
普段は特にクラシックを聴かない方も含めて、ほんとうに様々です。
素直な感想には、何だかホッとするところがありました。
同じ演奏を聴いても、人によってこんなに受け取るものが違うんだ、と驚きとともに視界が開けた気がしました。
その体験で、何かが逆転したのです。
「私の演奏がどうだったのか」ではなく、
「この方は、ここを聴く方なんだ」
と、聴く方の感受性を感じるようになっていました。
私自身がまったく意識していなかったところを、感想として伝えてくださった方もいました。
「わかる」対象が、私の演奏から、いつの間にか聴いてくださる方々の感受性へと反転していました。
そんな昔の気づきを、思い出しながら考えているうちに、さらに前のことを思い出しました。
私の通っていた音楽大学では、ピアノ科生は合唱が必修でした。
ピアノ以外の器楽の学生には、自分の専攻楽器でオーケストラに参加し、アンサンブルを経験する機会があります。
ピアノは、オーケストラ並みに広い音域を持ち、両手で多くの音を同時に扱える楽器です。
そのため、一人で大きな楽曲全体を組み立てる耳や手や頭が育っていた気がします。
一人の世界の中でも、アンサンブルを成り立たせることができる楽器なのです。
もちろんピアノ科生にも、他の人とのアンサンブルに携わる機会はありますが、普段は「音楽を一人で作りあげる」時間が圧倒的です。
そんな特性からか、当時私の周りでは、
「ピアノ科生は合唱が下手」
などと言われていて、実際、合唱の授業にもどこか消化試合のような空気が漂っていました。
そんなとき、とても魅力的な指導をなさる先生がいらっしゃいました。
一度、私たちに歌わせたあと、先生がおっしゃいました。
「皆さん、それぞれがその場で歌うのではなく、この一番前にある黒板の面に、自分の口があると思って、そこで歌ってください」
そして、もう一度歌いました。
驚きました。
教室全体が共鳴して、ハモったのです。
さっきまで、それぞれの意識で分離していた声が、それぞれ個性の違う声のまま、一つの響きになりました。
たった一つ、イメージを変えただけで。
あのときの驚きは、何十年経った今でも残っています。
そして、リサイタルのあとに感じたことは、あの合唱体験とはどこか逆向きだったのかもしれません。
合唱では、それぞれ違う個性が、一つの響きになった。
リサイタルでは、一つの演奏が、それぞれの人の中で、それぞれの違う感性を通して響いた。
どちらにも「響く」「共鳴する」ということがある。
私は長いあいだ、共鳴することと、わかり合うこと、そして対話することを、どこか同じ地平に置いていたように思います。
けれど、この三つそれぞれは、少し違うものなのではないか、と感じ始めました。
音楽では、言葉がなくても人と人との間に感応が起こります。
音だけで、相手から受け取るものがあり、こちらから音で返すこともできます。
ただ、リサイタルで気づいたように、言葉になって初めてわかることがあります。
共鳴し合っているように感じていても、相手の中で何が起きているのかは、聞いてみなければ知らないまま通り過ぎることもあるのでしょう。
「あ、そんなふうに聴こえていたんだ」
「そんなところを受け取っていたんだ」
「私は、そういう意味で演奏した意識はなかったのに」
言葉を交わして初めて、そんなことに気づけるのだろうと思います。
以前、「伝わることについて」という文章を書いたとき、
何を伝えるかだけではなく、どう伝わるかへの感受性
ということを考えました。
あのとき考えていた「どう伝わるか」には、思っていた以上に複雑な違いがあるようです。
日常の会話でも、私は時々、
「なんで、そうしたの?」
と尋ねることがあります。
私としては、相手を責めているつもりはありません。
「そのとき、あなたには何が見えていたの?」
「どう考えて、そのやり方を選んだの?」
と、その人の側から見えていた景色を知りたいのです。
ところが、この「なんで?」が、ときに、
「どうしてそんなことをしたの?」
という批判として届いてしまうことがありました。
私は知りたくて尋ねたのに、相手には責められたように伝わっている。
同じ一つの言葉なのに、差し出した側と受け取った側で、こんなにも違う。
私は長い間、誠実に伝えれば、いつかは伝わるような気がしていました。
けれど、こちらから差し出した気持ちが、こちらの意図した通りに受け取られるとは限りません。
「知りたい」という問いが、「責められた」「問い詰められた」と届くこともある。
また、ただ「私はこう感じた」と伝えただけなのに、
私と違う感じ方をする相手にとっては、その人自身を否定されたように届いてしまうことさえあります。
心を開いて差し出した言葉が、相手の心を開くとは限らない。
伝える側には、伝える側の景色があり、
受け取る側には、受け取る側の景色がある。
でも、その違いをなくすことが、対話の本来の目的ではないのかもしれません。
そもそも違いがあるかもしれないことを前提に、どう違うかを確かめ合うこと。
「私はこういうつもりで伝えた。あなたには、どう伝わっているの?」
「私はこう感じた。あなたはどう?」
そこから返ってきたものが、自分の予想とは違うときこそ、自分にはなかった景色に出会えるのではないでしょうか。
見えていなかったものごとに、ふと気づくきっかけにもなるかもしれません。
また時には、こちらの問いや語りかけに、答えが返ってこないこともあります。
そのときに、自分の中の察する能力で相手の答えを作ってしまわず、
「ここから先は、私にはわからない」
とそのままにしておく。
それもまた、相手を自分とは違う一人の人として尊重することなのかもしれません。
これまで私は、人からされて嫌だったことは、できるだけ人にはしたくないと思ってきました。
人からされて嬉しかったことは、自分からも人にしてみたい。
誠実に関われば、きっと通じると信じて。
でも、その先に見えにくい続きがあるのだと、気づきました。
私が嫌だと思うことを、嫌ではない人もいるかもしれない。
私が嬉しいことを、その人も嬉しいとは限らない。
だから、相手を見る。
できるなら、聞いてみる。
「私はこう感じるけれど、あなたはどう?」
自分の感覚を素直にそこに置いて構わない。
でも、自分の感覚や推測をそのまま相手の答えにもしない。
これは、知らなかったことを一つ知るのとは、少し違います。
もともとそこにあったものが、見方をほんの少し変えた途端、
「あ、そういうことだったのか」
と、違って見える。
私は、そういう心が震える瞬間が、好きなようです。
そして、自分とは違う人と出会い、言葉を交わすことによって、自分一人では立てなかった場所へ、視点が動く。
そこに、発見が生まれる。
そういう発見を少しずつ重ねながら、自分の世界が広がっていくこと。
それもまた、
人が育つ、ということなのかもしれません。
