教師という媒体、透きとおる私
一日4時間、高校の教壇に立つ。
40対の瞳がこちらを向く。
にこにこしている者もいれば、気怠げに体を傾げる者もいる。
見ていないようで、聞いていないようで、彼らは観ているし聴いている。
彼らの前で語り続けることは、そう簡単なことではない。
私たち教師にとっては、毎日がオン・ステージだ。
ところで。
最近、時々、自分が透きとおることがある。
オン・ステージの最中に。
もちろん体のどこも透けてなんかいない。
けれど私が認識している私は、どんどん薄らいでいく。
その時の私は、身体の半分が生徒と同じ教室にいる。
もう半分は、語っている世界の中にいる。
そんな感覚。
その時の私が語っていることは、教材を読み込んで用意した、授業のための言葉ではない。
半身の世界から受け取ったことを、反対の半身の世界に受け渡している。
そんな感覚。
国語の教師として、寝ても覚めても扱う文章のことを考えていることも少なくない。
考えすぎて、霊媒師として覚醒したのだろうか。
いや、思えば教師とは、まさしく媒体なのかもしれない。
***
媒体。メディア。
情報の記録・伝達・保存を司るもの。
本も、テレビも、ラジオも、地図も、みんなメディアだ。
ある世界の情報を一旦受け取り、そしてまた出力する。
その意味で、人間もまた、メディアであるという。
生徒たちは、本当は自分で教材に触れることができる。
教師がいなくとも。
けれど、生徒たちはそのまま一生触れることはないかもしれない。
教師がいなければ。
私たち教師は、仲立ちである。
***
私たちは、今日も教壇に立つ。
気合いの入りすぎたステージは、教師にスポットライトが当たってしまう。
そもそもあのステージ、あの教壇とかいうステージがよくないのだ。
媒体の私たちが、やけに目立つじゃないか。
まるでその場の主役であるかのように。
私は私を見せるために、ここいるわけではない。
生徒が授業を思い返す時、私を思い出してほしいわけではない。
生徒が、あの狭い箱の中で、外側の世界と接続することができるように。
私は、今日も教壇に立つ。
***
最近感じる、あの透明な時間。
あそこに何か、大切なことがある、予感がしている。
きっと今はまだ、その端緒を見つけただけ。
生徒の目から、耳から、いつか私の存在が掻き消えるくらいに。
私は、媒体でありたい。
