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三本足の、おかあさん

「おかあさんのつえ、よういしておいた!」
「ありがとう!今行く!」
朝、幼稚園に行く時間になると、息子が先に玄関で靴を履き、片手に私の杖を持って叫ぶ。
私は急いで水筒の蓋を閉める。玄関に忘れ物がないか見渡してから、私も靴を履く。
「さ、行こうか」
杖を受け取って、息子の手を握った。杖が、コツンと地面につく。
私がこの音を聞くようになって、もう十数年になる。
ずっと、ひとりで聞いてきた音だった。


外を歩くときに杖が必要になったのは、まだ18歳の頃だった。
「一生、痛みと生きていくことになるよ」
医者の言葉を、天井の模様を数えながら私は聞いていた。
帰りの電車で、高校生達の笑い声が聞こえた。私の同級生はまだ、走れる体のままだった。
全身が激しく痛い。立ち上がるのすら足に火がつくように痛む。長い距離を歩けなくて、学校へ行けなくなった。

杖を持つかどうかで、ずっとうだうだ文句を言っていた私を、ある朝、母はショッピングモールの介護用品売り場へ連れ出した。
私を支えながら歩いていた母は、きっぱりと
「必要なんだから買おう。これで歩けるなら使う方がいい。悩むことないわ」
と、言った。
私の目の前には、暗くてくすんだ色の杖がずらりと並んでいた。歯を食いしばる。
「……じゃあ、そこのやつにする」
私にはどれもこれも同じに見えて、一番手前にあったくすんだピンクの杖を指さした。どうして私が、と言いたい気持ちを飲み込む。ついこの間まで走って学校に向かっていたのに。
「じゃ、これ買ってくるから」と、レジに向かう母は、私よりずっと泣きそうな顔をしていた。杖を持って小走りでレジに向かう母の背中を、私は見つめた。

家に帰った私が、杖をついてリビングに出ると、母が振り向いた。
「歩きやすそうね」
ほっとしたような泣きそうな顔で言った母に、私は、「うん」とだけ返した。
だいきらいな杖がなければ、近所のコンビニすら行けなかった。

杖を持つ自分を鏡の前で確認したことがある。
ふんわりしたワンピースの隣に並ぶ杖が、まるで、「病人です」と札を下げているみたいだ。
友達との映画に行く約束も断った。
駅前で待ち合わせをして、みんなの隣で杖で歩く自分が想像できなかったのだ。

……こうやって、私はずっと生きていくんだ。


杖を嫌ったところで歩けるようにもならない。
その翌日も、諦めて私は杖を持ち、三本足で外へ出た。
諦めた、というのは正確じゃない。
今でも、晴れた日に元気に走っていく人を見ると、行き場のない怒りが胸の奥でちりちりと音を立てる。誰のせいでもないのに、誰かを恨みたくなる。


夫とは、杖をついている状態で出会った。彼は気にしていないらしい。
それでも、フォトウェディングで、私は絶対に杖を写さないようにしてほしい、とカメラマンにお願いした。ドレスの裏に隠した杖は、冷たくて固かった。

できあがった写真を見ると、すごく綺麗だった。杖の気配なんて微塵もない。でも、願った通りの写真なのに、どこか嘘をついているような寂しさが残った。

記念写真では隠せても、日常での写真には杖が映り込む。
だったらせめてかわいい杖がいい!と、杖を新調することにした。
偶然見つけた明るいピンク色の杖を買った。ラインストーンに光が当たると、虹があちこちに飛ぶ杖だった。これがいい。この杖なら写真に残ってもいい。

買ってすぐ、「ねえ、この杖かわいいでしょ!」と実家のグループLINEに送って自慢した。
すぐさま「かわいいね!」と返ってきた。
18歳の私に、あの杖を買ってくれた母からだった。



どんなに文句を言っても、外に出るには杖がいる。
3歳になった息子と公園に行った日を覚えている。息子と私は砂場で遊んでいた。杖は私のすぐ横の地面に寝かされていた。
2人でスコップで穴を大きくしていると、唐突に息子が
「いいことおもいついた!おかあさん、つえかして!」
と、飛び跳ねた。
息子は杖を手に取り、穴の真ん中に立てて杖を両手で支えたかと思うと、地面に杖を押しつけながらぐるぐる杖を回し始める。
「みて!ぐるぐるドリル!」
私は思わず吹き出した。「いいじゃん!」と褒めると、息子は得意げに杖を回す。夕日に当たった杖が、あちこちに虹を散らした。虹のいくつかが、私の足にあたるのが見える。
私の杖の先っぽがすっかり砂に深く潜り込み、器用に細く穴を掘っていた。


帰り道、息子の手を引きながら杖をつく。右手に固い持ち手、左手にやわらかい体温。どちらも、今の私を運んでいた。
杖を地面につくたびにジャリジャリしている感覚が手に伝わってきた。その度にちょっと歩きにくいのになぜかおかしくて、愛おしい。杖の先から少しずつ砂が落ちて、公園から家まで繋いでいた。
家に着いてもまだ砂が残っていた。ピンク色の杖の先はうす茶色に汚れている。
タオルで拭いても、溝に入り込んだ砂は簡単には取れない。
こりゃ名誉の負傷だな、と杖を拭いた。
まさかこんなふうに遊ばれるなんて杖自身も思ってなかったろう。


5歳になった息子は、覚えていない。
それでも、あの日の砂は、まだどこかで私の杖についている気がする。

息子の七五三の前撮りの家族撮影日がやってきた。杖は見えないところに置くつもりでいた。
それでも、撮影場所まで歩く間は杖をつくしかなく、杖をつくたびに芝生のやわらかい感覚が手に伝わった。下駄を履いた息子は転ばないだろうか。私の手を握る息子は、ふらふらしながらゆっくり歩いている。
芝生に杖の先が沈むたび、隠す気力がするりと抜けていく気がした。家族3人並ぶ番がきて、私は――迷ったのは一瞬だった。そのまま杖を持ってカメラの前に立った。


できあがった写真には、杖を持つ私と、夫と、息子が写っていた。
私は片手に息子の手を、反対には杖を握ったまま笑っていた。杖は当たり前みたいな顔してそこにいる。
見た瞬間に「杖が写ってる」と思ってしまった。フォトウェディングの写真みたいに必死に隠していた時と同じ反射だった。
でも、写真の中の私は、息子の手を離さないために杖を握っているみたいだ。
右手には息子の手のやわらかさ、左手の杖の固さがありありと思い出せた。

写真を見ながら、ふと母の言葉を思い出した。
「歩きやすそうね」
あの日は気づかなかった。歩きやすそうなのは杖のおかげじゃない。杖を持つ娘をみて、安心したかった母の言葉だったのだ。

この写真から杖を消したいとは、もう思えなかった。
悩んだ末にその写真をスマホの壁紙に設定し、眺めた。
今度実家に帰ったら、お母さんにも見せようか。


ーーでも、ふいに胸がざらつく日もある。
駅の階段で、後ろから追い越していく人たちの足音。エスカレーターの列に並びながら、杖の先だけが視界の端で目立つ。誰も悪気はないのに、置いていかれる感覚だけが残る。
私は杖と仲直りなんて、まだできない。
今でも、ただ一緒に歩いているだけだ。

今年の初め、寒い日が続いた頃、私はヨタヨタ杖をついて歩いていた。あまりにも歩くのが遅くて、息子と夫が私を置いていってしまう。
息子がくるりとこちらを向き、私の歩く様子を見ている。私が「ごめん今行くから」と言いかけたときだった。

「おかあさん、おそーい!ぼくのほうが、あるくのじょうずかも!」
息子がにやりと笑う。
「みてて!はしれるよ!」
私はつい笑ってしまった。
階段の前で私が抱いていた子は、もう私を置いて走れる。
走ってきた息子は私に抱きついてきた。
「ねえ、おかあさん」
抱きつく息子が顔を見上げて言う。
「つえ、ちょっとぼくにかして」
息子は杖をとると、コツコツ杖をついて歩いて「どう?」ときいてきた。
「こうやってあるくと、かっこいいでしょ!」
息子はそう言って笑った。

――かっこいい。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
鏡で杖を持った自分の姿を確認した日を思い出した。
いつか息子は、私より速く、ずっと遠くまで歩いていく。
その足音はもう、私の杖の音を待ってくれないかもしれない。
それでも今は、まだ並んで歩いている。



そうだ。ついこの前、部屋の掃除をしていたら、18歳のときの杖が出てきた。
懐かしくなって、窓際に持っていくと、くすんだピンクと思っていた杖は、光の中で柔らかなピンクゴールドに光った。
毎日見ていたはずなのに、記憶の中の色と全然違う――こんなにやさしい色だったのか。
窓の光の中で杖がやわらかく光る。
「歩きやすそうね」
あの声が、母の手の温もりとともに、不意によみがえった。
……お母さんも、こんな景色を見ていたんだろうか。


「お母さんの杖だよ!」と夫の声が飛んでくると、「はあい!」と息子は杖で歩くのをやめ、私に杖を渡した。
「はい、おかあさん!つえ!」
「うん、ありがとう。」
杖を受け取ってしっかり握った。
手のひらに、少しざらりとした砂の感触がした。
息子の手を引いて、三本足で、私は歩き出す。
杖が、コツン、と鳴った。
隣で息子の靴が小さく鳴る。
その音を聞きながら、私は歩く。
もう、その音はひとり分には聞こえなかった。

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