荒蕪の個人的CoC観(配信で執筆中)

はじめに

 CoC界隈は、定期的に学級会と呼ばれる論争がSNS上で巻き起こる。事件やディベートなどではなく学級会と呼ばれているのは、一重にプレイヤーのお気持ち(自分がどう思うか)を主体としており、明確な正解がないことが由来と思われる。1プレイヤーとして学級会全体を俯瞰していると、目立つのは主に「強い主語/強い主張」と「用語の定義不足」である。自分の気持ちを信じて疑わないが故か、それともその他の派閥がいることを考慮できないのか、言葉足らずで炎が大きくなることも珍しくない。
 私は、この「用語の定義不足」でお互いの気持ちが伝わっていない現状を非常に悲しく/嘆かわしく思っている。なので、自分が何を考えているのかという自己整理の面も兼ねて、このnoteを執筆する。

このnoteは現在、2026年8月31日での更新が最後となっています。まだ執筆途中ですが、配信の兼ね合いもあり公開しながら執筆していく予定です。※がついているものが現在執筆中の内容となっています。何卒、よろしくお願いいたします。





発端のツイート

TRPG(CoC)論争
・立ち絵の必要/不必要
・改変/改変禁止
・レビューサイトの運用について/是非

『改変禁止』への私見

Q:改変って?
A:シナリオの筋書きや、出てくる情報などを変化させること。

 昨今(というか、周期的にくりかえされる話題だと思うが)、改変についての議論が行われている。観測する限り一番の論点は「改変禁止というのはおかしい」という部分である。私がTRPGを遊び始めた当初に先輩から言われたのは「TRPGは本来機械が処理する部分を人に任せることによって、なんでも自由にできるようになったRPGなんだよ」という旨の内容であり、『TRPG=自由なゲーム』という認識があったのは想像に難くない。あのころのリプレイ動画などにおいても「爆竹を投げつけたり」などを含め、多彩なプレイングが見受けられたように思う。

 こと、自由度という1点において、CoCひいてはTRPGというものは改変を許される必要があると考える。そもそもを改変禁止として、セリフや行動全てを拘束してしまうと、それはキャラクリのあるMMORPGになってしまう。TRPGで遊んでいる以上、PLには「こんな風に動きたい」という気持ちがあるし「このPCはこういう子なんだ」という自分の作ったキャラクター像を色濃く反映させることは重要である。
 ここまでの文章を総合すると「改変は歓迎されるべきものであり、改変禁止は言語道断である」となるが、それは後述する改変のレベルを考慮していない時点での結論である。

 改変というものにはいくつかのレベルがあると考えている。「シナリオの根幹が変わってしまうもの」「シナリオの探索が変わってしまうもの」「シナリオの表現が変わってしまうもの」の3つを仮定する。この3つは「根幹>探索>表現」の順でシナリオに対するGMの介入度が高い。アドリブと表現されることもある。これらには主に以下のような内容が該当すると私は考えている。


~荒蕪の考えるシナリオ改変のレベル~
根幹:シナリオのギミックを変える、NPCの役割を変える、NPCや黒幕の考え方を変える、
探索:探索箇所の増減、イベントの増減
表現:部屋の描写、NPCのセリフ、NPCが持っている情報の増減


 では、ここで改変禁止の話題に戻ろう。この問題の本質は二元論的な改変を許すべきか禁ずるべきかではなく『どの程度の改変であれば許容できるか』という内容に他ならないと考えている。私の立場は「改変が許されるのは基本的に表現まで」「探索は増やす方向のみについて可」「PLの行動で改変されていくのであればしょうがない」である。
 なぜそのような立場なのかと問われれば、「そのシナリオを遊びたいから」というに他ならない。私が精一杯に改変を行ってしまえば、それが根幹を揺るがしてしまったり、あるいは重要なイベントの大部分を破棄してしまったりすれば、PLが「そのシナリオを遊んだ」ことにならないだろうと思うからである。発端のツイートに記載をした『共通体験』というのはつまるところこのことだ。そのシナリオをシナリオたらしめている部分をスキップしたり減らしたり、改変するというのはそのシナリオ名を被ったナニカに他ならないと感じているからである。

 そんな改変が起こり得るのか、と聞かれれば実際にSNS上で観測することができる。私が一番心に残っているのは『VOID改悪事件』である。詳細は伏せるが、シナリオのほとんどの筋書きがGMによって改変され、元のシナリオとはNPCの姿かたちおよびシナリオの世界観が一致するのみ程度のものになっているというものである。私も過去に2度VOIDをGMさせて頂いたが、到底思いつかないほどのNPC達の狂乱ぷりをまじまじと感じさせる酷評文であったことを覚えている。これはあくまで一例であるが、シナリオの9割を改変したというような方もいらっしゃる。
 私個人、実のところこの「9割改変」自体を断罪したい/糾弾したい訳ではない。これを声を荒げて糾弾するべき時が来たとしたら、それはPLがその改変を良しとしない/純然たる元シナリオを遊びたかった時に他ならない。例えば、貴方が凄く気になるシナリオ『A』があったとして、シナリオを遊び終えた後にPDFなどを閲覧し、全く知らないシナリオの筋書きが書かれていたらどう思うだろうか。ここでいう全く知らないというのは、探索場面や情報のことであり、NPCや世界観などはそのまま残っているものであると考えてほしい。つまるところ『内容は初見なのに、シナリオの大枠は初見ではない』というTRPGのネタバレ基質そのものに抵触する事象が生じるのである。
 特に、人から「このシナリオ回して欲しい」と頼まれるタイプのGMにとっては、非常に気を付けるべきセンシティブな題材であると思う。これが私の立場だ。
 この一連のツイート劇の幕間に、「シナリオが面白いと思えなくても回す」という旨の発言をしたところ、引っかかる方もいらっしゃったようだが、個人的には全くもって思う事はない。GMが面白いと思うかどうかと、PLが面白いと思うかどうかにはそもそも隔たりがあるし、特に私はGM専なのでそこが顕著である。私は楽しく遊んでいるPLが見たいのであって、シナリオのプレイ感みたいなものにはその実あまり興味がないのだ。なので「そのシナリオを回す=そのシナリオに愛着がある」というのは私にとってイコール足りえないというのが立場であるとも追記しておく。(攻撃の意図は個人としては無く、立場の表明というのが正しい)

 クトゥルフ神話TRPGの生みの親たるサンディさんの言葉を(勝手に)拝借させて頂くが「シナリオがカバーしていない部分に突っ込みを入れられた時、その空白を埋めなければならず、それを改変とは考えていない。何を達成したいのか理解しているなら、変えてもいいだろう」という旨の内容を記載している。この空白を埋める行為は許容されるべきだ。なぜならばそうするように「PLが求めている」からである。GMは結局のところ、どこまでPLの要望に応えてあげられるかが大事なのだ。

 より強い主張をするのであれば「卓開始前にGMの独断で改変を行うことがあってはならない」「改変とはネタバレをしないながらもPLとの対話の中で行われるべきものである」ということである。


 余談であるが、「VOID改悪」を訴えた被害者は「VOID」というシナリオそのものが無料であり、かつ開かれたboothという場所にあるにも関わらず、そのショッキングな卓体験から1年ほどpdfの中身を見れなかったと記憶している。改変というのはそのプレイヤーの認知を歪めるものでもあるのが十分に理解いただける内容であると思う。その他、卓のNPCを全員同性愛者にしBLシナリオに改変した上で「これが本来のシナリオである」と言い切った事例もあるそうだ。そのことを踏まえると、
・なぜ改変したのか/改変の理由や意図、改変の場所の明示をしないこと
・改変の内容をSNS外に流出させること
 この2点はシナリオに対する悪質なデマを招きかねない行為であると認識する必要があると私個人は考える。特に、無料シナリオであれば安易に確認ができるが、有料シナリオとまでいけばそうはいかない。そこを念頭に置くべきである。


『CoCのプレイ体験』への私見

 私にはシナリオの改変に敷居があります。改変不可というシナリオを平然と回せるのも、この矜持があるからです。それは簡単に書けば「シナリオ前に改変したか、シナリオ中に改変したか」です。PLのRPに合わせたのはアドリブですが、GMの下読み段階では改変と考えています
 なので、PLに確認をとった上でかつやむ負えない限り「改変」をしたことはありません。PLのシナリオ体験に影響が出るからです。これは私が過去イチショックだった「VOID改悪事件」の影響を多大に受けています。私にとって、ラーメンと称してミニカレーをだしたようなものでした。
 いわゆる「作者のやらせたいこと」「シナリオの根幹」ここを崩してはそのシナリオを遊んだとは言えないだろうと私は思っている訳です。この「そのシナリオ」を遊ばせるという行為を、私は映画的と呼んでいます。シティでしっちゃかめっちゃかに遊ぶ自由度最重視の自由的との比較として名付けました。


自由的観点:PC達の行動に対して、柔軟な処置をとっていく遊び方。アドリブや改変というものに大らかなスタンスを取っているプレイング方式。
映画的観点:共通体験に重きがあり、シナリオの改変というものに厳しさを持っているプレイング方式。


 よく、ここの遊び方の違いを「昔と今」という対比で語る方も多いが、その実何が違うのだろうと考えてみる。私個人の意見としては、PCに対する愛着の違いが一番大きいと感じている。
 『昔のCOCはPCがタヒんだら、新しいキャラを作って合流する』というのが推奨されていた時代もあると聞き及んでいる。しかし、PCへの思い入れや、PC間の関係値が重視されるようになり、その結果としてコズミックホラーの雰囲気形成が徐々におざなりになるようになった。この際に形成されるようになったエモーショナルなシナリオ群のことをエモシと呼称する。

 ここから先は、『改変禁止』についての部分とかなり重複するが、シナリオを遊びたいのであれば、自由にさせすぎるのはクラッシュの要因となる。昔伝え聞いた話で「想定されていない行動をとり続けた結果、GMがシナリオ本を閉じて怒涛の展開になった」というものがあるが、果たしてそれはシナリオを遊んだと言えるのだろうか。私としては言えない。TRPGをしたい人は、それでいいのだろうが「シナリオを遊びたい人」は全くもって良くない。これが、現状のTRPG界隈におけるプレイ体験に求めているものの差であると感じる。勿論これは0-100ではなく、間に「エモければいい」とか「自分の選択肢がある程度介入した方が嬉しい」とか「バッドエンドシナリオだけどグッドエンドに持っていきたい」というものがあるのも理解している。ここも結局の所『PLが何を求めてTRPG/CoCを遊んでいるのか』というところにフォーカスを当てなければならない部分だろう。

※『シナリオレビュー』への私見

・作品の出来と値段に関係はない ・無料のシナリオと有料のシナリオを同一の土俵で評価するのは違う気がする  これは正直どっちも正しくて、本質がずれているんだと思うんですよね。前者はクオリティ/面白さで、ここは公平であるべき。後者は値段に対する納得感で、ここは値段によるべきと思う。

そうなんだよな そのシナリオ運用するGMの責任というか......もっと過激な発言すると遊びたいPLの選択、いわゆる「そのシナリオを選んだのは君達だよね」という視点が抜けている人が多い気がする 世の中に無数にシナリオがあって、遊んでみたくて遊んだ。そこの敷居には有料と無料に差はないよね