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2026/06/28(2) 創作大賞2026エッセイ部門応募作品--『妄想で紡がれた赤い糸:幼なじみをめぐって』



西のかた陽関を出づれば 故人無からん

王維 七言絶句『送元二使安西』


 そういえばあの町の外れには一本、大きな桐の木が立っていた。

 その家に女の子が生まれれば、嫁入り道具の箪笥になる桐の苗木を植える風習があるという。

 そこは西東京の南の外れ、峠越えの古道と鉄路、そして高速道路まで縦横に通っている。

 あの桐の木は車窓からもよく見えて目立っていた。

 私にとっての恋の悲報と、その桐の木が見えなくなった時期は符合する。

 そしてその頃に戻れたとしてもどうせ、私の家系では太刀打ちできなかった。それが「格差」と、本来の恋愛とは似つかわない姿に成り果てた「競争社会化」が虎のように牙をむいた故の結末だった。

 陽関の関所を出ればもう、知己はいない。

 かりそめにも桐の木のあるところへ戻ってもあの樹とあの子はいない。
 無からん、無からん。二度読んでも脳裏に響くだけ。

 では、出会った頃のことから回想を始めたい。


はじめて出会った時のこと

 はじめての彼女との出会いは互いに保育園児の頃だった。
 彼女と私の母も仲が良かった。
 住まいは都営住宅だった。
 
 そして、稼ぎ頭であった父親には決定的な違いがあった。私の父は都下の市役所職員、彼女の父は都庁職員であった。

 親の身分差が後々影を落とした。

 後知恵で思い出すと、薄暗い昼寝の時間、流されていた歌は子守唄がわりに加藤登紀子の『浜辺の歌』だった憶えがある。母も時々口ずさんでいる。

引っ越した先で

 偶然にも親同士の都合があり、最寄りから一駅奥へ行った当時の国鉄と私鉄駅が接続する駅最寄りへ引っ越すことになる。

 まだ古い土地で、学校に進学すると地域の妬みと地域の因習に阻まれて、もともと対人関係が不得意な私は周囲のからかい、いじめ、暴力へのエスカレートに遭遇した。

 そうした要領の悪い私を、彼女はどう見ていたことか。

 デューク・エイセスのおさななじみの歌に見てとれるほのかな想い。誰もが経験はあるだろう。
 バブル後、結婚がスペック勝負といったバトルロイヤル状態になるとは、予想もつかなかったし、あと実家の格もそうした要素に入る。
 訳あってオーバードクター間際で就職した私には、仕事にも縁談にも勝ち目はなかったのだった。

中学の作文コンクールのこと

 実は彼女とは高校までずっと一緒だったが線が一回だけニアミスしたことがある。
 赤ら顔ではにかみ屋の彼女と話をできたのは、国語の先生が引き合わせてくれた場であった。
 私は八ヶ岳連峰の山行を描き、彼女はキリスト教文学で愛の献身の読書感想文を書いた。
 市内中学校のコンクールで、私は佳作の賞を受けた。たしか、彼女のも佳作だったと憶えている。

 ただ、そりがあわなかったのか、何をどう話したかまでは憶えていない。
 後ほどの手紙のように字のきれいな彼女は精一杯の誠意を持っていたのは確かだった。 

闘病生活を送る中で彼女は心の支えだった

 大学院を出たものの、都県境を越えざるを得なかった不本意な就職が決まり、縁のない土地での人間関係に次第に心を病む。同じく市役所職員だったが、人付き合いに都内の常識は通らなかった。

 そうした中、私は彼女に最後の望みの綱を見出すようになっていた。

「うちは、お父さんが都庁職員の彼女の家よりも格が下だから、結婚はだめよ」

 母から何度そう、釘をさされたことか。
 うちの父だって豪邸の住み込みで働いていた母を射止めたではないか。
 なぜ、私にムリなものか!

 やっぱり若気の至りだったのだ。

 ネット婚活では一度も逢えず、何度も振られて、縁談さえぜんぶ反故にされても、心の支えだったのは幼なじみだった。
 妄想の赤い糸は切れていなかった。
 彼女だけはどこにも嫁に行っていないという思い込みが心の支えだった。


 縁談も次々に反故にされた。病がわからなかった、伝わらなかった、そう割り引いて考えても地縁と血縁がなかったのが大きかったのだ。

 周囲が幸せそうな家族写真の年賀状を送ってくるのに慣れたが、決して自分のものにならないと気付いたのは、闘病生活に伴走してくれた初代の柴犬を見送ったあとだった。

 飼い犬が亡くなったので年賀を遠慮させていただきます、愛猫を亡くした文豪でなくてもペットロスは応える。周りの幸せそうな写真はシャットアウトできた。

それでもまだ待ち構えていた残酷な真実

 残酷にも私が心を病み始めた頃、余命わずかながん患者に真実が告げられないのと同じように、彼女が結婚式を挙げていたことを私は知らされなかった。
 闘病生活を自らの命を断つことで終わらせないように、最後の一葉を壁に描くかのような心配りだったのだろう。

 奇しくも私の妹が家庭に入ったときと、逆算すれば同時期だった。
 今にして思えば、彼女の息子の成長は、私の姪たちの成長と重なっていた。
 当時、私の心の病は急性期の真っ只中だった。家庭を持つなんてムリだったのだ。

競争社会に敗れて

 スペック勝負の果てに破れて、独り身のまま私は四半世紀勤めた、身寄りもいない市役所を、障害を持ったまま後にすることになった。
 
 それから私は就労移行支援事業所を経て、障害者雇用の場に身を置くことになる。

 彼女の真実を知らされたのは、心の病を発症してからじつに二十年も後のことだった。その瞬間まで、彼女は私の心の支え、最後の砦だったのだ。

旧姓と書かれた彼女の名には

 私が彼女と永遠に結ばれないと知った時、その時はもうすぐ還暦間近で彼女には夫と成人する息子がいると聞いた時だった。

 「私たち」が適齢期の頃、彼女はよそへ嫁ぎ、私は精神病が悪化して以来二十年間何も知らされずにきた。

 それから二十年。何度も返事のこない手紙にある日一通の答えが来ました。そこにはもう送らないで、夫がいやがるからとあり、返信先は伏せられていた。

 それに留まらず、スタンプの発信局名は、切手の黒地にかかってよく読めないところに押されていた。どこまでも嫌われると同時に、「私たち夫婦の幸せを乱さないで」という幼なじみの、「声にならない心の悲鳴」が周到に織り込まれている。

 便箋の最後の一枚はフォーマルにも一枚、手付かずのまま添えられて、マナーを守るギリギリの線の礼儀を読んで取れた。

 そこに読み取れたのは彼女が、その状況で私に伝えられる最大限の誠意だった。

私はストーカーなんかじゃない!むしろ被害者だ

 それまで、世間の時間の流れから切り離された私は、ただ彼女へと宛てた返事の来ない手紙を書き続けた。

 それはあたかも私の小指から彼女へと伸びる赤い糸は、心の支えだった。
 中世のキリスト教徒が世界のどこかに必ずいる信仰上の味方「プレスター・ジョン」の存在を信ずるように、異教徒ながら私から赤い糸は彼女に繋がっていると信じて疑わなかった。返ってこない手紙を書き続けながら。

 それが、闘病生活を送る私を支える唯一の、そしてあまりにも哀しい「妄想」だとは知らずに――。

 これが、妄想で紡がれた赤い糸の正体。
 妄想とは二人の絆のまぼろしだった。

 彼女の二十年前の姿は私が知っていたひとつのまぼろしだ。
 私自身も二十年以上前の情けない姿は彼女が知っていたまぼろしだ。
 
 しかし、私が実体があるように、彼女も実体を持って手紙を書いてきた。
 それは、もはや続かない、つづきがない文通として生きながらにして、永遠に途切れた。
 幼なじみとの死別ならこうも煩悶しなかっただろう。あっさりとあきらめられて、ここまで心の深傷になることはなかったはずだった。

 これは、当事者となった人にしかわからない苦しみ。


終わりに--深大寺の冬薔薇

 虚数単位同士を掛け合わせるとマイナスになる。いくら掛けてもプラスの実数にはならない。
 それは私と幼なじみとの哀しい帰結だった。
 傷ついたのは人間としての純粋さゆえにすぎない。

 「夫がいやがるから」という文字を見た時の、時が止まったような感覚、そして彼女の「母としての現実」を知った今、彼女に対して抱く率直な想い--誰も何も、こうした真実をこの20年来教えてくれなかったことへの不信感としか受け止められず、周囲を激しく恨んだのがつい昨日のようだった。

 精神科の帰りに深大寺植物公園へ寄ると、12月の冬薔薇は私自身を見るかのようだ。

 調布までバスで戻り、駅ビルのパン屋さんで暖を取りました。その頃はまだ、冷静に事実を受け取ることは難しかった。

 一輪の、荊の中の凍てつき枯れかけた薔薇を見かけると私のようだった。そのことは今も脳裏に焼き付く。

(終)


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