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おびただしい数の向こうに、十字架が見えた

民数記31章25〜47節

朝は曇っていたが、予報では日中に晴れるという。気温は0℃。先週からの融雪で、雪山がどんどん小さくなってきた。春は確かに近づいている。ただ、足元はまだ凍っているから注意が必要だ——見た目には穏やかでも、表面の下には危うさが潜んでいる。今日の聖書も、そういう二層構造を持っていた。


公正な分配——古代の知恵

今日の箇所は、ミディアン戦争の戦利品分配記録だ。

「その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。」(31:27)

戦いに出た者と、出ていない民衆に半分ずつ。さらに戦士の取り分からは五百分の一を主への貢ぎとし、会衆の取り分からは五十分の一をレビ人へ。神の戦いの勝利を神に感謝しながら、コミュニティ全体で公正に分かち合う——筆者はこの制度を読んで、「よくできている」と思った。戦った者だけが独り占めにするのではなく、共同体全体で分かち合う原則。神の義は、公正さの中にも表れている。

数字の重さ

しかし、読み続けると、筆者は立ち止まった。

羊六十七万五千匹。牛七万二千頭。ろば六万一千頭。人は三万二千人。(31:32-35)

これほどおびただしい数の戦利品があるということは、その陰にそれだけの命が失われたということだ。数字が並べば並ぶほど、その裏側にいた人々の顔が浮かぶ。家族を持っていたはずの人たち。町があり、日常があった。朝があり、夕があった。それが灰になった。戦利品の輝きの向こうに、喪失の深い暗さがある。

公正な分配制度は確かに良い。しかしその「分配されるもの」が、人の命と引き換えに生まれたものだという事実を、数字は静かに告げている。勝利の記録と喪失の記録が、同じページに並んでいる。筆者はここで、暫く考え込んでいた。聖書はそれを美化せず、ただ記録する。

古代から現代へ——私が気づいたこと

そのとき、筆者の心に不意に光が差した。

このミディアンのように滅ぼされるべき存在が、私自身ではないか——と。

聖なる神に真正面から反逆する罪。偶像を立て、神の道から離れ、自分の欲と判断を神の位置に置く罪。それは古代ミディアンだけの話ではない。聖書が告げる人間の本質的な姿は、「神の義の前に立てない者」だ。筆者が普段感じている「自分の罪」は、自分が想像できる範囲の罪に過ぎない。小さな失敗、軽い不従順——そのくらいの自覚で日々を過ごしている。しかし聖なる神の光の前に立つなら、その罪の深さはミディアンの滅びと同じ場所へ向かうはずのものだったのかもしれない。

十字架の意味が、新しく見えた

そこから、十字架が違う角度で見えてきた。

キリストの罪の贖いとは、本来ミディアンのように滅ぼされるべき私を、十字架によって救ってくださることではないか。それは単なる「小さな失敗の許し」ではない。神の義が実行されるべき場に立つ者が、その義を満たしたお方によって救い出されるという出来事だ。

古代の記録に並んだ、おびただしい数の戦利品。その数字が、思わぬかたちで今日の筆者に語りかけた。あのとき滅ぼされたミディアンと、神の義の前では変わらない罪深さを持つ私が、なぜ今ここで生きて神の言葉を読んでいるのか。それはただ、キリストの十字架があったからだ。

その大きさに、筆者は身震いした。キリストの教えが「そのような者に救いを与える」のだということの重さが、古代の戦利品の数字を通して、今日新たに感じられた。

祈り

主よ、今日、おびただしい数の向こうに、私自身の罪の深さを見ました。そして同時に、その罪深い者を救うために来てくださったキリストの大きさを、改めて知りました。自分の想像できる罪だけを見て、救いの大きさを見くびっていた私をお赦しください。十字架の重さに、今日また感謝します。アーメン。


※聖書は新改訳2017を引用しています。※本記事は、AI(Claude、Anthropic社)を活用し、筆者の視点と編集を加えて作成しています。内容の最終確認および責任は筆者が負っています。



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