『左利きの少女』~猥雑な生の鼓動に満ちた、愛おしい逸品!

2026年8月14日
『左利きの少女』観て来ました。
めちゃくちゃよかった!何度も涙がにじみました。
今年のマイ・フェイバリット映画の、最上位の何本かに入る一本!
事前情報から、「こんな映画だったらいいのになあ」という願望を抱いていたのですが、それを見事に叶えてくれた、まさに<ショーン・ベイカー in 台北>というべき作品でした。
ああ、もう一度観たい。
もうそんな気になっています。
① <ショーン・ベイカー in 台北>
ショーン・ベイカー監督の映画は、(ほぼ)すべて観ています。
『フォー・レター・ワーズ』『テイクアウト』『プリンス・オブ・ブロードウェイ』『スターレット』『タンジェリン』『フロリダ・プロジェクト』『レッド・ロケット』『アノーラ』。
どれも好き。
どれもそれぞれに、愛おしい。
ショーン・ベイカー作品の、その作風は、極めてはっきりしていますよね。「ケン・ローチやダルデンヌ兄弟といった巨匠から大きな影響を受けながら、偏見や差別にさらされる立場にある人々を内側からありのままに描き出す独自のスタイルを確立し、移民、セクシャルマイノリティ、セックスワーカーなどへと光をあてる。人々の境遇や暮らしに正面から向き合いながら常にユーモアも忘れないその姿勢」
(「ショーン・ベイカー初期傑作選」公式HPより)
今回の『左利きの少女』の監督は、『テイクアウト』で共同監督だったツォウ・シーチン監督ですが、共同脚本・編集がショーン・ベイカーでもあり、上記のような<ショーン・ベイカー>作品らしさを濃厚に湛えていました。というか、ツォウ・シーチンを含めて<チーム・ショーン・ベイカー>と称すべきなのかもしれません。僕たちが思う<ショーン・ベイカーらしさ>には、もともとツォウ・シーチンが何割か含有されているのかも。
それくらい、(いい意味で)<ショーン・ベイカーらしさ>に満ち満ちていました。
(以下、ツォウ・シーチン込みでの<チーム・ショーン・ベイカー>という趣旨で、<ショーン・ベイカー>映画、<ショーン・ベイカー>らしさと表記します)
過去作になぞらえると、
登場人物がアジア系で、食べ物の販売業であることからは、『テイクアウト』。
iPhoneでの撮影による躍動感や、キッチュ味の漂うお菓子のような映像の風味は、『フロリダ・プロジェクト』。
ラスト(近く)での驚愕の真相が明かされるドラマチックさは、『スターレット』。
そんな過去作のエッセンスも自在に存分に織り込みながら、それを台北の街の通化街夜市を中心に生き生きと描き出す。
短いショット・ショットが次々と切り替わりながら、ジェットコースターのような躍動感、鼓動が、最初から最後まで心地よかった。
② 幼娘 イージン(ニーナ・イエ)

まず何と言っても、イージンの可愛いことよ!
演じたニーナ・イエの、演技の自然さには震撼しっぱなしでした!
とんでもなく演技は上手いはずなのに、「演技が上手いなあ」などとは全く感じさせない。画面の中心にいても、脇に回っても、本当にそこにイージンがいた。この、空気感を醸成できるって、これはもうまぎれもなく天才でしょう。
パンフレットには、
「3歳より活動をはじめ、台湾のCMなので『見ない日はない』と言われるほどの売れっ子。本作出演時は6歳だった。母親が演技コーチをしている関係もあり、あまりに自然な演技で監督を驚嘆させたという。」
とあります。
さもありなん、という感じです。
タイトルの『左利きの少女』とはイージンのことで、彼女が狂言回し的な役割になっているのだけれど、彼女を中心とした「お子様映画」などでは決してない。このバランスがとてもよかったですよね。
大人社会の片隅で、幼いながらに必死に健気に生きるイージン。
軽快な劇伴に乗りながら、彼女が次々と「悪魔の左手」で万引きを繰り返す姿の活写は、これぞ<ショーン・ベイカー>映画!という愉悦に溢れていました。
③ 母 シューフェン(ジャネル・ツァイ)

イージン、イーアンの母親のシューフェンは、(いい意味で)ある意味<ショーン・ベイカー>映画に典型的なキャラクターでした。
別れた(蒸発した)夫の残した借金を自分で返そうとし、元夫が病死した後はその葬儀代もすべて独力で支払おうとする。
そのために屋台の店賃も払うことができず、罵倒され、切羽詰まって母親に借金を頼むという屈辱的な行為を強いられるが、それも断られる。
娘イーアンからも、母親や妹たちからも「なんであんな奴のためにあんたが苦労しなければいけないの?」と詰問されるのだけれど、頑として、私が払う、という意志は曲げない。
このキャラクターは、例えば『アノーラ』の主人公アノーラとか、『スターレット』の主人公ジェーンとかとも大いに共通するものです。
貧しくて苦しいけれど、自分の信念は決して曲げない。
裏返しに言えば、自分の信念を決して曲げない不器用な生き方を選択するがために、貧しくて苦しい境遇から(器用に)抜け出すことができない。
ある意味、強い女性像、とも言えるのかもしれませんが、決して全面的に称賛・支持できる女性像でもありません。
だからこそ、観ている側は、愛おしさ・切なさを感じてしまう。
レビューの中に、「なぜシューフェンがあんな決断・選択をするのか、納得できない」という主旨のものも見受けられますが、僕は「いやいや、これこそが<ショーン・ベイカー>映画らしいヒロイン像なんだよ」と思いました。
④ 娘 イーアン(マー・シーユエン)

そして、ユーアンです。
『左利きの少女』というタイトルから、主人公は幼いイージンだと思い込んで映画を観始めたので、初めは姉のユーアンには「なんか気が強そうで、愛嬌ないなあ」なんて失礼な感想を抱きながら(脇役と決めつけて)観てしまっていました。
ところが!
高校の同窓生と出会い、誘われてパーティに行き、嫌な思いをして憤慨して帰ってきた彼女が、ベッドに横たわって物思いにふけっているその顔の、目から涙がすーっと流れて、それを拭う。
ここで、観ているこちらも涙ぐんでしまいました。
言葉にすると「情けない」「くやしい」「何で自分はこんな人生を送っているのか」みたいな陳腐な表現になるのだけれど、普段は強気な彼女がふと見せたこの涙にはやられました。
ところが!
一瞬ですが、彼女が勤務先の店長と職場で〇〇〇している姿が映ります。
「えっ!」と思い、「今の、ユーアンだった?それとも後輩?」と軽いパニック状態です。共感を寄せはじめたユーアンが、職場で店長と〇〇〇するなんて信じられない。
でも、しばらくして、今度は店長の前に顔を寄せて△△△するシーンもあり、これははっきりとユーアンだと認識できます。(店長はユーアンに△△△してもらいながら、店の外のユーアンの後輩に笑顔で手を振っていました)。
ということは、さっきの〇〇〇もやっぱりユーアンだったのか!
ここもまさに<ショーン・ベイカー>らしさです。
人間のどうしようもない猥雑なところも(上品な演出に逃げることなく)「内側からありのままに描き出す」「人々の境遇や暮らしに正面から向き合いながら常にユーモアも忘れないその姿勢」。
ユーアンが店長との子供を妊娠したことは、後半の大きな劇的な要素になっていました。
もちろん、それを、仕事場での〇〇〇や△△△を赤裸々に映すという下品な猥雑な描写なしに、もっと婉曲的にソフトに示すこともできたでしょう。
でも、それでは<ショーン・ベイカー>映画ではなくなってしまう。
下品で猥雑で、でも、だからこそ人間は愛おしい。
これが<ショーン・ベイカー>映画です。
(<ショーン・ベイカー>映画についてのイメージを持たずに、タイトルやチラシ・ポスターや予告編から「ほんわかした可愛い映画なのかな」と予想して鑑賞された方は、驚愕したでしょうし、こんなの見たくなかった!と眉を大いに顰めることになったでしょうね…。)
さらに、ラスト近くに明かされる驚愕の真相も、ユーアンの仕事場での〇〇〇や△△△の姿を観てきた観客には、「ああ、そうだったのか!!」と深く納得できます。
ただ単にどんでん返しのトリックなどではなく、ユーアンという人間の彼女らしさの発露としての真相だ、と。
チラシ、ポスターも、イージン中心のビジュアル展開で、もちろんそれでいいと思いますが、最後まで観終わると、結局この映画はイーアンこそが中心にいたんだな、と感じます。
この<図と地の逆転>も、僕にとっては『左利きの少女』の面白さ、映画としての躍動感・鼓動の、主要素になっていました。
⑤ 名場面!!!

劇伴も含めて、全編どこも、大好きなのですが、とりわけ、イーアンがイージンを連れて夜店を巡りながら、「悪魔の左手」で万引きを重ねたイージンに一軒ずつ謝罪をさせてゆく、あの一連のシーンは、愛おしくて愛おしくて忘れられないです。
(同じ感想をお持ちの方もたくさんいらっしゃるのでは?)
店の入口で待ちながら、出てきたイージンにユーアンが「ちゃんと謝罪できた?」と聞くとイージンはコクリとうなずくのだけれど、イージンは教わった通りの謝罪のセリフはきちんと言えていないんですよね。
でも、イージンなりに謝ろうとがんばったことを、ユーアンは優しく褒めてあげる。
何軒も訪れる中で、「次の店では『何!このガキが!』なんて厳しく怒られるんじゃないか…?」なんて心配していたんだけれど、どの店の大人たちも「イージンよく来たね」「大丈夫だよ。次からはしないでね」と優しく応対してくれる。シビアな現実が描かれるこの映画において、心からほっこりしできる場面でした。
映画を観ているこの段階では、「やたらと機嫌が悪かったり、気が強かったりするユーアンだけれど、幼い妹に優しく接するこんなお姉ちゃんの側面もあるんだな」と、心温まる姉妹のエピソードとして微笑ましく(涙ぐみながら)観ていました。
でも、ラスト近くの驚愕の真相を知ってから、改めて思い返すと、また大きく違った意味合いを持ちますよね。
母シューフェンに、「子どものしつけ!」と言い残して、イージンの手を引て夜店巡りに向かったユーアンなんだけれど、これは、単に、自分の借金の悩みで子どものことに気が回らない母へのツッコミではなく…。
いやあ、いい脚本ですよね。
鳥肌ものです。
素晴らしい!!
あと、最後に一つだけ。
イージンが、バイクのヘルメットのストラップを自分では締めることができない、という描写が何回か繰り返されます。
あそこはどう解釈したらいいのでしょうか?
① ヘルメットの標準仕様は、右利き用になっているので、左利きのイージンにはなかなかうまく締められない。<社会の標準的規範にぞぐわない人間の生きづらさ>の象徴的な暗示。
② 幼いイージンには、まだ独力ではヘルメット(自分を保護してくれるもの)を装着できない。周囲からの庇護が必要だということの象徴的表現。
と、この①②が入り混じっているのかなあ?なんて感じていますが、他の解釈もあるかもしれません。
等々、所感は尽きません。
以上、一回観ただけの感想なので、勘違い等があるかもしれません。
ぜひぜひ、もう一度観に行きたいと思っています。
たいへんにお気に入りの作品でした。
観てよかった!

