見出し画像

純度

ちょっと今回は独白のようなものを少し

創作大賞2026向けの作品を
“一度くらいは”という気持ちで書いていたんです。

エッセイ部門へ向けて
思ったよりはさらさらと筆は澱みなく
いつも通りの光三節で4000字ほど書き上げ

いざ「♯創作大賞2026」のタグを付けようとした
瞬間‥

手が止まるわけです。

もちろん自信無いという部分もあるのかも知れません。

今までの人生を振り返って
“賞レース”的な催しで何かを頂いた事など
皆無ですし、そもそも誰かに共感や褒められた事など叱責やダメ出しに比べれば余りにも少ないのですから。

ただし、タグが付けれない理由は“間違いなく”
それだけが理由では無い。

そう確信めいた「何か」があったんです。

それが何か?

私は考えました。

まずは設計思想という部分に問題があるという事に気づきます。

私が書いた文章は始まりが既に創作大賞へ向けたものでは無かったのです。

あくまで創作大賞は「大賞」を目指す
一番へ更にはそれに準ずるものを決める場所。
更には商業化の可能性が見え隠れしているものです。

ならば

読者は何を読んでみたいのか?
時代はどのような作品を望んでいるのか?
各協賛会社の求めるものを深く理解できているのか?

などは記事を書く上で当然であり
そういった条件をクリアしたものでないと
出す前の篩にすらかけられない。

なら私のしている事は何だろう?
いつも通りの「私」を記事にして

「私の記事は篩にかけてもらえますか?」

という検証・判断を他者に委ねている。

なるほど、タグを付けるのを躊躇うわけです。

ならば賞、に出すためにはそこを意識して
書くべきか?と記事を消そうと思ったところで
もう一つの事が脳裏をよぎった。


私の考えた賞レースに向けて考えられていた
記事


そこに“私”を居着かせる事ができるのだろうか?


創作というものは人によって定義が違うのでしょうが少なくとも私は「自分を表現する場」
としての意味合いが強い。

なのに賞を目指すには
他者が何を求めているか?
つまりは他者になり、他者の想いを代弁する必要があるという事です。

他者が知りたい事
他者の新しい扉を開ける事
他者の言語化できなかった思いを
代筆する。


それはあまりに私には「できない事」
に思えた。

賞向けの作品を書けば書くほど

私というものから離れていく

マイノリティを自分らしさだとも
思ってはいない、どちらかといえば
それは生きづらさに近かった

「何故ああなれないのだろう?」
「総意だと思ったものは僕個人だけのものだった」
「変わってると言われる事が多い」

そんな積み重ねが
ただ確かにそこにあった

自分の純度を上げれば他者からズレて
他者の解像度を上げると自分の純度が下がる

悩みに悩み私の中で
まさかの答えがその時浮かんだのです。

ならば「真ん中」だ!‥‥と


まてまて

真ん中の文章で頂を目指すのか?
「ふふっ」

何だか面白くなってきた

自分も他者も想うなら
真ん中だ
真ん中を目指す文章を書く必要があるなんて

なら僕の目指す頂って中腹なのか?

なんだこんがらがってきた
訳がわからない

でもどうだろう?

今私の心は雲より高いあの山の山頂

また新しい

澄んだ景色が見えた気がした。

「そうだなぁ‥」

純度とは、
私を削ることではなく、
私を濁らせないことなのかもしれない

サムネのイラストを作りながら
私は煌々と白く燃える中心ではなく
消えた炭の方をみていた

そんな話。

いいなと思ったら応援しよう!