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靖国神社は、いつから「外交問題」になったのか──8月15日に、その歴史をたどる

世の中おかしい Vol.16


8月15日になると、毎年のように靖国神社がニュースになる。
首相は参拝するのか。閣僚は何人行ったのか。中国や韓国はどう反応したのか。

今年、高市首相は靖国神社への参拝を見送り、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ献花した。

私はここ20年ほど、ほぼ毎年、靖国神社に参拝している。
8月15日に限っているわけではないし、何か政治的な意思表示をするためでもない。ただ、年に一度はあそこで手を合わせている。

この10年ほど特に感じることがある。若い人の姿がずいぶん増えた。
若い夫婦やカップルもいれば、一人で来ている大学生くらいの人もいる。以前よりも明らかに若い世代が目につくようになった。

だからこそ、8月15日の今日、一度整理してみたい。

私たちは毎年「靖国問題」という言葉を耳にしているが、そもそも靖国神社について、どこまで知っているのだろう。
なぜ、靖国神社が中国との外交問題になったのか。
調べてみると、私が思っていたよりずっと新しい話だった。



靖国神社は、第二次世界大戦のためにつくられた神社ではない


靖国神社は、1869(明治2)年の東京招魂社にはじまる。

戊辰戦争などで亡くなった人々を慰霊するためにつくられ、1879(明治12)年に靖国神社と改称された。大東亜戦争が始まる70年以上も前から存在している。
その後、日本が経験した戦争や事変で亡くなった人々が祀られ、現在では約246万6千柱が祭神となっている。

つまり、靖国神社は大東亜戦争の戦没者だけを祀る神社ではない。

明治以降、国のために命を落とした人々を祀ってきた場所であり、本来、靖国神社にとって8月15日は特別な日ではない。
重要な祭典は現在も春と秋の例大祭だ。

ところが現在では、「靖国神社=大東亜戦争=A級戦犯」という印象だけで語られている。

ここから話がかなり単純化されていく。


「A級」は、最も悪い戦犯という意味ではない


靖国神社について語られるとき、「A級戦犯」という言葉が必ずと言っていいほど登場する。

この「A級」という言葉から、A級が最も重い犯罪で、次にB級、さらに軽いものがC級だと思っている人もいる。

しかし、これは大きな誤解だ。A、B、Cは罪の重さを表した等級ではなく、罪の種類を分類したものにすぎない。

東京裁判で使われたのは、3つの分類でしかない。

Aは「平和に対する罪」
Bは「通例の戦争犯罪」
Cは「人道に対する罪」

だから「A級戦犯」という言葉を、そのまま「最も残虐で重い罪を犯した人」と読み替えることは間違っている。

A級とされたのは、主として戦争を計画・開始・遂行した国家指導者層だった人たち。現場で捕虜虐待などに問われた人々は、B級やC級として裁かれている。

もう一つの論点──事後法

そして、A級を考えるうえでもう一つ重要なのが、事後法の問題だ。

東京裁判の根拠となった極東国際軍事裁判所条例が制定されたのは1946年1月。ところが裁判では、「平和に対する罪」によって1928年以降の戦争の計画や遂行まで訴追の対象とされた。
つまり、「平和に対する罪」という犯罪類型が裁判所条例によって明文化される前の行為まで遡って裁いたことになる。

東京裁判は、1946年につくられたルールを1928年まで遡って適用した。

この点については裁判当時から、「行為をした時点で犯罪として確立していなかったものを、後から犯罪として処罰する事後法ではないか」という強い批判があった。

東京裁判の判事の一人だったインドのラダ・ビノード・パール判事も、法の不遡及原則などを理由に裁判の法的正当性を批判し、被告人全員を無罪とすべきだという意見を示している。

したがって、「A級戦犯」という言葉には二つの注意が必要になる。

一つは、A級は罪の重さを表すものではないということ。

もう一つは、その中心となった「平和に対する罪」自体に、事後法ではないかという法的な論争が存在するということだ。

この二点を知らずに「A級戦犯=最も重い戦争犯罪者」と理解してしまうと、東京裁判そのものの構造を見誤ることになる。


戦後の日本で「戦犯」はどう扱われたのか


もう一つ、あまり知られていないことがある。

戦後、日本国内では、いわゆるA・B・C級戦犯とされた人々を、そのまま日本国内の犯罪者として扱い続ける制度にはならなかった。

1952年にサンフランシスコ平和条約が発効すると、国会では戦争犯罪受刑者の釈放や赦免を求める決議が相次いだ。

恩給法や戦傷病者戦没者遺族等援護法も改正され、戦犯として刑を受けたり、拘禁中に死亡した人々について、その遺族が恩給や援護を受けられるようになる。

外務省が保存している外交史料にも、平和条約第11条に基づき、BC級戦犯について仮出所、減刑、赦免を求める手続きが各国との間で進められたことが残されている。

ここで重要なのは、日本政府自身の整理だ。
政府は後の国会答弁で、極東国際軍事裁判などによって科された刑について、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と答えている。

つまり、東京裁判などで有罪とされた人々を、日本の刑法に基づいて有罪判決を受けた犯罪者として扱っているわけではない。国会では釈放や赦免を求める決議が行われ、恩給や遺族援護についても通常の戦没者と同じように扱われるようになった。

日本国内における権利と名誉は、実質的に回復されている。

ただし、日本政府が東京裁判そのものを「無効だった」と宣言したわけではない。サンフランシスコ平和条約第11条によって、極東国際軍事裁判などの判決を受諾したという国際的な立場は現在も維持されている。

ここは分けて考える必要がある。
「国内では犯罪者として扱われていない」という話と、「東京裁判の判決そのものが国際的に取り消された」という話は同じではない。

靖国神社を論じるなら、この二つを混同しない方がいい。


昭和天皇のご親拝も、歴代首相の参拝も続いていた


靖国神社への参拝が、戦後一貫して政治問題だったわけでもない。
昭和天皇は戦後も靖国神社に何度もご親拝され、最後のご親拝は1975年11月21日だった。

その後、昭和天皇のご親拝はなく、現在の上皇陛下も天皇陛下もご親拝されていない。

ここで時系列を確認しておきたい。
いわゆるA級戦犯14人が靖国神社に合祀されたのは1978年のこと。
つまり、昭和天皇の最後のご親拝はA級戦犯合祀以前だった。

一方、合祀後も首相の靖国参拝は続いている。

1979年に合祀の事実が
新聞報道によって明らかになった後も、
歴代首相が靖国神社を参拝している。

合祀が知られた後、1985年に問題が大きくなるまで首相参拝が繰り返されている。

現在の感覚からすると意外かもしれない。
「A級戦犯が合祀されたから、その瞬間から靖国参拝が外交問題になった」という事ではなかった。


靖国神社と千鳥ヶ淵は、そもそも違う施設


靖国神社の話になると、もう一つよく出てくる意見がある。
「戦没者を慰霊したいのなら、靖国ではなく千鳥ヶ淵に行けばいい」というものだ。

しかし、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、そもそも目的が違う。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は1959(昭和34)年につくられた国立の墓苑で、海外で亡くなった戦没者のうち、身元が分からない、あるいは遺族が判明しないなどの理由で引き渡すことのできなかった遺骨を納めている。

つまり、
千鳥ヶ淵は「遺骨を納める墓苑」。
靖国神社は「祭神を祀る神社」。

役割が違う。日本人なら墓苑と神社の違いを理解できるはずだ。
どちらか一方を選ばなければならないものでもない。

高市首相が今年8月15日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れたことも、靖国神社とは別の戦没者追悼として考えるべきだろう。


1975年、「私人か公人か」という問題が生まれた


戦後しばらくの間、首相や閣僚が靖国神社に参拝すること自体を問題にする声はほとんどなかった。

その流れが変わり始めるのが、1975年の三木武夫内閣だった。
三木は、金脈問題で退陣した田中角栄の後を受け、1974年12月に首相になる。しかし、自民党内では大きな派閥を持たず、政権基盤は弱かった。

そこで三木が接近したのが、福田赳夫派の周辺に集まっていた保守系の若手議員たちだった。中川一郎、石原慎太郎らが結成した「青嵐会」がそれだ。

青嵐会は、8月15日の靖国神社参拝を三木に求める。
党内基盤を固めたい三木はこの要求を受け入れ、1975年8月15日に靖国神社を参拝する。

ただ、三木は青嵐会の要求にそのまま従ったと思われることを嫌い、公用車を使わずタクシーで靖国神社へ向かい、料金も自分で支払う姿を記者に見せた上で、記者団に対して「私人としての参拝」であることを強調した。

ここで、それまでほとんど意識されていなかった新しい問題が持ち込まれる。

首相の靖国参拝は、公人としてのものなのか。それとも私人としてのものなのか。

この「私人参拝」という考え方には、内閣法制局の存在もあった。
三木内閣は官僚機構との対立が大きい政権だったが、政局の節目や重要な政策判断では内閣法制局の見解が大きな意味を持っていたとされている。三木首相が靖国参拝を「私的参拝」と位置づけた背景にも、法制局の見解があった。

靖国神社への公式参拝をめぐって、その後も内閣法制局は憲法20条の政教分離との関係を問題にしていく。その後の中曽根内閣では公式参拝の合憲性が検討され、小泉内閣でも「私人としての参拝」なのかという議論が繰り返された。

つまり、三木が持ち込んだ「私人か公人か」という区別は、その場限りの言葉では終わらなかった。その後の首相の靖国参拝を縛り続ける論点になっていく。

昭和天皇のご親拝は、なぜ途絶えたのか


そして、この1975年は、天皇陛下の靖国神社ご親拝にとっても大きな転換点となった。
同年11月20日の参議院内閣委員会で、当時の内閣法制局長官・吉國一郎は、天皇陛下の行為について、「天皇の行動があらゆる行動を通じて国政に影響を及ぼすことがあってはならない」という趣旨の答弁を行った。

その翌日の11月21日、昭和天皇は靖国神社をご親拝されたが、結果として、これが昭和天皇最後の靖国神社ご親拝となった。
その後、天皇陛下の靖国神社へのご親拝は途絶えることになる。

この国会答弁が直接の原因だったと断定することはできない。しかし、1975年を境に陛下の靖国神社へのご親拝が、それまでとは異なる政治的意味を持つようになったことは見えてくる。

首相には「私人か公人か」という区別が持ち込まれ、陛下のご親拝もこの年を最後に途絶えた。

政府の1985年の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」報告書でも、1975年頃から、それまで私的資格で参拝していた首相や閣僚について、公的資格で参拝すべきだという運動と、それに対する憲法上の反対論が活発になったと整理されている。

こうして、靖国神社が政治問題化していく過程は、首相だけでなく、天皇陛下のご親拝のあり方にも影響を与えていった。

また、昭和天皇のご親拝が途絶えた理由については、2000年代以降、「富田メモ」(元宮内庁長官・富田朝彦氏のメモ)を根拠に「1978年のA級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感」が理由であるとする説も広まった。

しかし、この「富田メモ」については史料としての扱いに慎重な意見も根強い。
いまだに全文の翻刻や全容公開がなされておらず、手帳の断片的なメモであるため前後関係や発言の正確な文脈が追い切れない。
昭和天皇の真意がどこにあったのかを決定付ける単一の史料として扱うことには疑問が残る。

したがって、親拝停止の背景を語る際も、単一のメモに根拠を求め切るのではなく、憲法・政教分離をめぐる政治的議論や国会答弁(1975年)、そして宗教的・心情的側面など、複数の要素が重なり合った結果として捉えるのが、より客観的な歴史検証と言えるだろう。


1985年──靖国参拝が「外交問題」になった


そして、この靖国神社を巡る問題を国内政治から外交問題へ大きく変えるきっかけが、10年後に起こる。

中曽根康弘首相は1985年8月15日、戦後の首相として初めて「公式参拝」であることを明確にして靖国神社を参拝する。

ただ、その背景を見るためには、まず3年前の1982年に遡る必要がある。

1982年、歴史認識が外交問題になった

1982年6月26日、各紙は一斉に、歴史教科書の検定で「華北への侵略」という表現を文部省が「華北への進出」に書き換えさせた、と報じた。

文部省記者クラブでの合同取材の際、日本テレビの記者が検定内容を誤認したことが発端とされ、この誤認が各社の一斉報道につながった。報道はやがて中国や韓国の抗議へと発展する。いわゆる「第一次教科書問題」だ。

しかも、この報道が出たのは、中国の趙紫陽首相が来日し、鈴木首相との間で「平和友好」「平等互恵」「長期安定」という日中友好三原則を確認した直後だった。

後の調査で、この「侵略から進出への書き換え」を文部省が指示した事実は確認されなかった。つまり誤報だったにもかかわらず、歴史認識が外交問題として扱われる大きなきっかけとなった。

同年8月、宮沢喜一官房長官は談話を発表し、近隣諸国との友好・親善に配慮する姿勢を示す。その後、教科書検定基準には、いわゆる「近隣諸国条項」が加えられた。

つまり、1985年の靖国問題より前に、日本国内の歴史認識をめぐる議論に中国政府が反応し、日本政府がそれを外交問題として受け止める構図はすでに生まれていた。

1985年、靖国参拝そのものが外交問題になった

その流れの中で迎えたのが、1985年だった。

1985年8月7日、朝日新聞は靖国参拝について、中国が厳しい視線を向けているという趣旨の記事を掲載した。

その4日後の8月11日、中国共産党機関紙の『人民日報』が、日本国内にある靖国参拝への批判的な動きを報道する。
さらに8月14日、中国外務省報道官が中曽根首相の公式参拝について、初めて公式に反対の意思を表明した。
そして翌15日、中曽根首相が公式参拝を行う。
この時系列は無視できない。

8月  7日 朝日新聞が靖国参拝と中国側の視線を大きく報道
8月11日 人民日報が日本国内の反対論を報道
8月14日 中国政府が初めて公式に反対を表明
8月15日 中曽根首相が公式参拝


ここで、「朝日新聞が靖国問題をつくった」とまで言えば単純化しすぎだが、現在の靖国問題が外交問題へ変わっていく過程で、1985年8月の朝日新聞の報道が一つの重要なきっかけになったことは、時系列から見ても明らかだろう。

しかも、いわゆるA級戦犯14人が靖国神社に合祀されたのは1978年。
その事実が報道されたのは翌1979年。
1983年、1984年にも、中曽根首相は繰り返し靖国神社へ参拝している。
大きな日中問題になるのは1985年だった。

つまり、「A級戦犯が合祀されたから、すぐ中国が首相参拝に抗議するようになった」という単純な話ではなかった。

1975年に国内で「私人か公人か」という問題が生まれ、内閣法制局の憲法解釈も加わった。そして1985年になると、公式参拝をめぐる議論に朝日新聞の報道、中国メディアの報道、中国政府の公式抗議が重なった。

ここで靖国参拝は、国内政治と憲法解釈の問題から、外交問題へとさらに性格を変えていく。


中曽根首相は、なぜ翌年から参拝をやめたのか


中国側の反発を受け、中曽根首相は翌1986年から靖国神社への参拝を取りやめる。その判断には、中国共産党の胡耀邦総書記との関係が大きく影響している。

中曽根と胡耀邦は親しい関係にあり、中曽根は、中国の中でも日本に理解を示す胡耀邦を高く評価していた。
しかし当時、胡耀邦は中国共産党内で次第に厳しい立場に置かれつつあった。そのため中曽根は、自分が靖国参拝を続ければ、胡耀邦が党内で「日本に甘い」と攻撃され、その立場をさらに悪くする可能性があると考えた。

元首相秘書官による回顧録でも、1986年に参拝を取りやめた理由について「胡耀邦の立場が苦しくなるから」だったと書かれている。
中曽根はその後、首相在任中に靖国神社を再び参拝することはなかった。

ここで、一つの前例ができてしまった。

日本の首相の靖国参拝に中国政府が抗議し、日本側がその反応を考慮して参拝をやめる。

それまで国内で議論されていた、「公式参拝か、私的参拝か」という問題に、「中国や韓国がどう反応するのか」という外交上の判断が加わった。

その3年後の1989年、胡耀邦は死去する。
その死をきっかけに学生たちの民主化要求運動が広がり、やがて天安門事件へとつながった。

天安門事件後、中国の対日認識も変わっていった


この事件は、中国共産党にとって大きな衝撃だった。
共産党指導部は、その原因の一つを思想・政治教育の不足に求め、事件後、学校や社会での思想教育を強めていく。

そして1994年には「愛国主義教育実施綱要」が制定され、愛国主義教育が全国的に進められた。その結果、日本による侵略の歴史が、中国共産党の愛国主義教育の中で以前より大きな位置を占めるようになっていく。

つまり、中曽根首相が靖国参拝を取りやめるほど気遣った胡耀邦が亡くなり、その死をきっかけに天安門事件が起き、その後の中国では愛国主義教育が強化されていった。

1980年代の日中関係と、その後の1990年代以降の日中関係は、事情が変わっている。

その後、橋本龍太郎、小泉純一郎らが靖国神社を参拝するたびに、中国や韓国が抗議するという構図が定着していく。

靖国参拝が現在のような
政治・外交問題になるまでを並べると、
その変化の過程が見えてくる。


靖国問題は、1945年から現在まで同じ形で存在してきた問題ではない。

戦後の政治とメディア、そして外交と中国の国内事情によって、少しずつ現在の形につくられていった問題だった。


戦没者を慰霊すること自体は、日本だけのものではない


ここでもう少し視野を広げてみたい。
国のために亡くなった人々を追悼すること自体は、日本独特の文化ではない。

アメリカにはアーリントン国立墓地があり、イギリスでは毎年11月、国王や首相が戦没者追悼式に出席する。フランスでも大統領が戦没者を追悼する。

そして、日本の首相による靖国神社参拝を批判する中国にも、国家として殉難者を追悼する制度がある。中国では9月30日を「烈士記念日」と定め、天安門広場の人民英雄紀念碑で、習近平国家主席をはじめとする党・国家指導者が花籠を捧げ、国家のために亡くなった人々を追悼している。

それぞれ歴史も宗教も制度も違うので、靖国神社と単純に同一視することはできない。しかし、国家のために亡くなった人を、国の指導者や後の世代が追悼するという行為そのものは、世界各国でごく普通に行われている。

私が靖国神社へ行く理由も、そこにある。
そのことに思い至った時から行くようになった。
日本が行った過去の戦争のすべてを正しかったと言うためではないし、戦争を賛美するつもりもない。

私は、未来の日本に生きる私たちのために命を捧げた人たちに感謝している。今の平和な暮らしは、最初から当たり前にあったものではない。
そのことを忘れないために、私は靖国神社で手を合わせている。


そして、現在の日本を考える


ここまでは、靖国神社をめぐる歴史的な経緯を整理してきた。
ここから先は、その歴史を踏まえた上で、私が今の状況をどう見ているかという話をさせてもらう。

2026年の日本を取り巻く環境は、1980年代や1990年代とは大きく違う。

中国は巨大な軍事力と経済力を持つようになり、台湾海峡や尖閣諸島をめぐる緊張が続いている。北朝鮮の核・ミサイル問題もある。

経済も安全保障と切り離せなくなった。
日本は日米同盟を軸にしながら、豪州、インド、フィリピンなどとの連携を強め、中国依存のサプライチェーン縮小、防衛力強化を進めている。

さらに、今年5月には中国・大連で日本人2人がレアアース関連製品の持ち出しを理由に拘束され、8月に入ってから、それ以外にも複数の邦人が中国側に拘束されていたことが明らかになった。
日本から事情聴取のために中国へ出向き、そのまま拘束されたケースまで報じられている。

こうした状況で首相が靖国神社へ参拝すれば、中国側が新たな外交上の材料として利用する可能性がある。
経済制裁だけならまだしも、中国で働く日本人や、日本企業の関係者にまで影響が及ぶ可能性を考えれば、国家の責任者として無視することはできない。

中国が実際に靖国参拝への報復として邦人を拘束する、と断定することはできない。しかし、すでに邦人拘束が現実に起きている以上、首相官邸がそのリスクまで計算に入れるのは当然だろう。

こうした「参拝への外交的計算」は、今回に限った話ではない。中国との摩擦を避けたい経済界、対中関係の安定を重視するアメリカ、そして自民党内部に一定数存在する親中的な勢力からの抵抗も、歴代首相の判断に影響を与えてきたと考えられる。実際、「安倍晋三回顧録」でも、首相在任中の靖国参拝をめぐって、こうした複合的な圧力があったことが語られている。

高市総理が、今回、靖国参拝を見送った。
その判断の内実は本人にしか分からないが、単なる「中国への配慮」だけでなく、在中邦人の安全を守るという現実的な事情も加味された可能性はあるだろう。実際、ジャーナリストの門田隆将氏はこの点を指摘する見方を示している。

私自身は、その判断の背景をそう理解している。
しかし同時に、大きな疑問も残る。日本の首相が、日本国内の神社で、日本の戦没者に手を合わせるかどうか。それを決める際に、中国政府の反応だけでなく、中国にいる日本人が拘束される可能性まで計算に入れなければならないとしたら──、それは異常としか思えない。


8月15日に、少しだけ考えてみる


私はこの記事で、「日本の首相は、靖国神社には必ず参拝すべきだ」と言いたいわけではない。

参拝しないという考えがあってもいいし、首相は外交を優先して参拝すべきではないという意見もあるだろう。東京裁判についても、靖国神社そのものについても、人によって考え方は違う。

ただ、判断する前に知っておきたいことがある。

靖国神社は大東亜戦争のためにつくられた神社ではない。
A級、B級、C級という分類は罪の重さを表すものではない。
戦後、日本国内では、戦犯とされたことが実質的に改められた。

昭和天皇のご親拝も、歴代首相の参拝も続いていた。
A級戦犯合祀後も、しばらく首相参拝は続いていた。
靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、役割の違う施設だ。

そして、現在のように首相の靖国参拝が大きな外交問題になったのは、戦後すぐではなく、1970年代から1980年代にかけてのことだった。

こうした経緯を知った上で、「靖国神社に参拝するとは、いったいどういうことなのか。」を、この日にそれぞれが考えてほしいと思う。

2026年8月15日。
今年も長蛇の列が出来ていて、本殿前までに3時間近くかかった。
そして、列に並んでいる人たちは、若者が目立って増え、その数も年々多くなっている。


2026年8月16日追記

──高市総理が選んだ「遙拝」

この記事を公開した後、興味深いニュースが入ってきた。

8月15日、高市総理は靖国神社を直接参拝せず、全国戦没者追悼式に出席するため訪れた日本武道館の駐車場から、靖国神社に向かって「遙拝(ようはい)」を行ったという。

遙拝とは、神社や陵墓などから離れた場所で、その方向に向かって拝礼する参拝の仕方だ。決して今回新しくつくられたものではなく、神道では古くから行われてきた。

そして、安倍元首相に近かったジャーナリストの山口敬之氏らによれば、安倍氏も靖国神社を直接参拝できない時には遙拝していたという。

今回、高市総理はそこから一歩進んだ。
日本武道館の駐車場で車を降り、靖国神社の方向へ頭を下げる。
その姿をメディアにも見える形で示した。

これまで靖国問題では、靖国神社へ行ったのか、行かなかったのか。
公人として参拝したのか、私人として参拝したのか。
そんな「形式」が繰り返し政治問題にされてきた。

しかし、神社に足を運ばなければ祈ることができないわけではない。
参拝とは本来、誰かに見せるためのものではなく、その人の内心にある信仰や慰霊の気持ちの問題でもある。

高市総理の遙拝は、そのことを非常に分かりやすい形で示した。
靖国神社には行かなくても、靖国神社に祀られた人々に祈りを捧げることは出来る。長年続いてきた「参拝した、しない」という政治的な二者択一そのものを外してしまった。

私は、批判する側にとっても非常に批判しにくい、なかなかの妙手だったと思っている。


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