値札には、モノ以外のものが乗っている。──ブランドという物語の値段
世の中おかしい Vol.10
値段には、素材代だけが乗っているわけではない。
技術代だけでもない。
そこには、歴史があり、憧れがあり、誰かが長い時間をかけて作った「物語」が乗っている。
ダイヤモンド。
ハイブランド。
ヴィンテージデニム。
私たちは本当に、そのモノ自体にお金を払っているのだろうか。
それとも、その向こう側にある“演出された価値”を買っているのだろうか。
そう考えると、世の中の値札は、少しだけ違って見えてくる。
値段を支えているもの
『婚約指輪は給料の3ヶ月分。』
『ダイヤモンドは永遠の輝き。』
デビアスが行ったマーケティング戦略は成功してきた。
しかし、人工ダイヤの発達によって、宝石の正体は、ずいぶんとはっきりしてしまった。
希少性、永遠性、特別感。
それらの多くが、「物質」ではなく巧妙に編まれた語りによって支えられていたことが露わになる。
かつてダイヤモンドは、「永遠の愛の象徴」として神話化された。
それを世界規模で流通させ、価値として定着させたのがデビアスの野望だった。
供給を管理し、広告で物語を刷り込む。
「ダイヤは希少で特別なものだ」という空気そのものを設計した。
ダイヤモンドは、自然物である前にマーケティングの勝利だった。
神話が崩れるとき
しかし今、人工ダイヤは天然ダイヤと見分けがつかない品質にまで到達している。
しかも価格は、数分の一。
この現実によって、天然ダイヤの価格は実際に下落し始めている。
婚約指輪として数十万円で購入されたダイヤが、いざ売却しようとすると驚くほど値が付かない。それは欠陥があるからでも、輝きを失ったからでもない。
「希少である」という前提が、もはや揺らいでいるからだ。
人は、理屈より物語を選ぶ
それでも人は、天然か人工かという理屈の前に、信じたい物語を選ぶ。
それがブランド力であり、ハイブランドというものだろう。

「象徴」は、 それ自体が
価値の一部として機能している。
空気をつくる装置
では、そもそもハイブランドとは何だろう。
高価な素材の集合体でも、卓越した技術の証明でもない。それらは必要条件ではあっても、十分条件ではない。
ハイブランドとは、「これは特別だ」と多くの人が迷わず同意してしまう空気を、長い時間をかけて醸成する装置だ。
だから、ロゴが入っただけのビニール製財布が十万円を超える価格になり、完璧な革と縫製を持つ日本製財布が数万円で並ぶことになる。
私は長いあいだ、その「空気」を作る側にいた。
NIKEのイベントを設計するとき、私たちは靴の性能を説明しようとしていたわけではない。その靴を履いた瞬間の感覚、その場にいる自分の気持ち、終わった後に残る高揚感——そういうものを設計していた。
モノではなく、体験という名の物語を。
光の当たり方一つで、同じ商品が違って見える。音楽が変わるだけで、空間の意味が変わる。
それを何度も目の当たりにしてきた。
だから私は、値札の奥に物語が乗っていることを、頭ではなく体で知っている。
条件を揃えるという情熱
例えば、ヴィンテージデニムは、古いから価値があるわけではない。
古いがゆえに数が限られ、欲しい人が増えるほど、値段が静かに、しかし確実に高騰していく。
その結果、かつては炭鉱や工場で穿かれていた労働者の作業服が、いまでは「扱いは白手袋で」と言われながら数百万円で取引される存在になった。
そこで登場するのが、ジャパンレプリカデニムである。
「同じ色落ち」を追いかけていくと、話は自然と素材に行き着く。
その時代の綿、染料、織機、縫製。
条件を一つずつ揃えていくと、完成度は驚くほど近づく。
しかも、ここまでやっておきながら、価格は二、三万円に収まる。
情熱は、値札にはほとんど反映されない。
値札に乗るもの、乗らないもの
一方、ハイブランドのジーンズは、同じ「デニム」という素材を使いながら、再現性や研究量ではなく、ブランドが積み重ねてきた文脈と象徴性に価格が乗る。
その結果、二十万、三十万円という値札が付く。
ここに、正解はない。
あるのは、どの物語を選ぶかだけだ。
買う側がそれで幸せを感じるなら、それは確かな価値だ。
ただ――価格と品質、物語と実体が、どこで重なり、どこで乖離しているのか。その構造を理解したうえで選び取れる自分でいたい、と思う。
幻想を選ぶ自由
実態ではなく、幻想に高いお金を払う人がいる。
いや、正確に言えば、幻想に高いお金を払っていることを承知のうえで、それを楽しんでいる人たちだ。
SNSでは、インフルエンサーと呼ばれる人たちが、数百万円のバッグやアクセサリー、マンションでも買えるような金額の高級外車を、あたかも自分自身の価値であるかのように“整然と”並べている。
そして、それに憧れる人も、確かにいる。

ダイヤモンドであれ、ハイブランドであれ、冷静に価値を分解していくと、素材や技術だけでは説明のつかない部分が必ず残る。
その余白を埋めているのは、希少性という物語であり、選ばれた感覚であり、「わかっている側に立っている」という安心感だ。
実体よりも幻想のほうが高く売れる。
それは、騙されているという話ではない。
幻想に値段が付くと知ったうえで、あえてそこにお金を置く。
それもまた、一つの成熟した選択なのだろう。
幻想が実体を装う瞬間
もっとも――その幻想に支払った金額を、実体そのものの価値だと説明し始めた瞬間、話は少しだけ可笑しくなる。
だが、その可笑しさすら含めて、ブランドという装置は、今日もきれいに機能している。
その物語を誰に書かせるのかくらいは、自分で選びたいと思う。
私たちは、モノだけでなく、作られた空気も買っている。
そんな話も以前書いています。
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