【小説】笑顔の扉 第一部 ⑤
第九章
土曜日のお昼過ぎ。
「新葉、ちょっとおいで」
リビングのソファーで寝転んでテレビを見ていた新葉に、お母さんが声をかけた。
少しうとうとしていた新葉は、返事もせずに起き上がって、リビングから出た。
お母さんの声がする二階に上がった。
「何?」
「こっちおいで」
一番奥の空いている部屋から呼んでいる。
部屋に入るとドラムセットが並んでおり、真ん中にお母さんが座った。
「え、ドラムじゃん。お母さん叩いてくれるの?」
「この前そう言ってたでしょ。あと、みんながバンド組むっていう話を聞いて、お母さんも叩いてみたくなっちゃった」
小さい頃に何度か聴いたことはあったが、もう記憶も曖昧でほとんど印象がない。
「うれしい。聴きたい」
ドラムの前で新葉は体操座りをした。
一、二、三、、、こんなにたくさん太鼓とシンバルが組み合わさっているのか。
目の前のドラムセットを見て、そんなことも知らなかったなと思った。
「あんまりうるさくなっちゃうといけないから、静かな曲にするね」
そう言って、お母さんは静かに演奏に入った。
最初の一音は、とても小さかった。
それなのに、部屋の空気がゆっくりと動き始める。
ドラムというと激しく叩くものだと思っていた。
でも、お母さんの音は違った。
優しく刻まれるリズムに合わせて、部屋全体が呼吸をしているようだった。
右手も左手も、足も、それぞれ違う動きをしている。
なのに少しも慌ただしく見えない。
不思議だった。
こんなにたくさん動いているのに、音はひとつに聴こえる。
新葉は、いつの間にか瞬きも忘れて見つめていた。
すごい。
その一言しか浮かばなかった。
「どう?」
演奏を終えて、お母さんが聞いてきた。
ぼーっと聴いていた新葉は、我に返った。
「すごい」
「すごい?」
お母さんは笑いながら聞き返してきた。
「思ってたドラムと全然違った」
新葉は興奮気味に答えた。
「ドラムって、目立たないけどね。みんなが気持ちよく演奏できるように支える楽器なんだよ」
目立たない。
確かに、ボーカルやギターに比べれば、ドラムやベースは目立たない気がする。
でも、何だろう。
この心に響くリズム。
大矢がベースならやりたいと言っていた気持ちがわかる気がする。
実際に演奏するお母さんを見て、やっぱり難しそうだった。
でも、やってみたいと思った。
「ねえ、私もやってみたい」
「いいよ。こっち座って」
お母さんと替わって、新葉が椅子に座った。
新葉は恐る恐るスティックを受け取った。
思っていたよりも軽い。
でも、どう持つのが正しいのかもわからない。
「そんなに力を入れなくていいよ」
お母さんが後ろから手を添えた。
「まずはこの太鼓だけ叩いてみよっか」
言われるままにスティックを振り下ろす。
タン。
「もう一回」
タン。
「うん、いい音」
「これでいいの?」
「いいの。最初は音を出すだけで十分だから」
新葉はもう一度叩いた。
さっきお母さんが鳴らしていた音とはまるで違う。
たった一つの太鼓なのに、音が固くて、どこかぎこちない。
「難しい」
「難しいよ。でも最初はみんなそう」
お母さんは笑いながらスティックを受け取り、同じ場所を軽く叩いた。
たった一音なのに、さっきとはまるで違う。
「え、なんで?」
「力じゃないんだよ」
「同じように叩いたつもりなのに」
「だから面白いの」
「面白い」
「でしょ?貸してみて」
お母さんがまた座って、今度は簡単で単調なリズムを叩いてくれた。
「このくらいできるようになると、楽しくなってくるから」
面白い。
もっと上手くなってみたい。
「ちょっと、うるさくない?」
桜子が部屋のドアからひっこりと顔を出した。
「聞こえた?桜子も叩いてみる?」
「私はいい。新葉ドラムやるの?」
新葉は少し考えた。
この前、桜子が言っていた言葉を思い出した。
やってみたいなら、その気持ちに素直になってみよう。
「うん、やってみたいかも」
「ふうん。いいじゃん。やってみれば?でもうるさくしないでよ」
そう言って桜子は自分の部屋に戻っていった。
「お母さん、ドラムやってみようかな。勉強ももっと頑張らないといけないんだけど」
お母さんがにっこり笑いながら言う。
「勉強なんて何時間も続けられるもんじゃないから。息抜きにちょうどいいんじゃない?」
「うん。また教えてね」
月曜日になったら、大矢に直接言おう。
一緒にやろうって。
第十章
月曜日の朝。
教室の前で、新葉は大矢を待っていた。
「おはよう」
大矢が少し驚いた顔をする。
「どうしたの?」
新葉は少し照れくさそうに笑った。
「私ね」
一度息を吸う。
「ドラム、やってみたい」
大矢の目が少しだけ大きくなる。
「ほんと?」
「うん」
一昨日、お母さんのドラムを見た。
できる気なんて、今でもしない。
でも、やってみたい。
「だから朝陽ちゃんに言いに行こう」
大矢は自然と笑顔になる。
「よかった」
「だからさ」
新葉が少しだけいたずらっぽく笑う。
「私がドラムやるんだから」
一拍置く。
「大矢はボーカルやってよね」
「え?」
また大矢が驚いた顔をした。
「またそれ?」
「またそれ」
二人とも笑う。
新葉が続ける。
「一昨日までの私は、ドラムなんて絶対無理って思ってた」
「うん」
「でも、お母さんが叩くところ見たらさ」
少し恥ずかしそうに笑う。
「やっぱり難しそうだなって思った。でも、できるかどうかじゃなくて、やってみたいって思った」
大矢は黙って聞いている。
「大矢もそうじゃない?」
「……」
「ベースやりたいって言った時、すごく楽しそうだった」
図星だった。
あの時、自分でも驚くくらい素直に口が動いた。
ベースを弾いてみたい。
こんな気持ちは、めったにない。
「だからさ」
「うん」
「ボーカルも、一回やってみればいいじゃん」
大矢は少し笑った。
「新葉にそんなこと言われるとは思わなかった」
「私も」
二人で笑う。
少し沈黙が流れる。
その沈黙は気まずくなかった。
大矢は静かに口を開いた。
「…いいよ」
「え?」
「ボーカルもやる」
新葉は目を丸くした。
「ほんと?」
「うん」
少し照れくさそうに笑って続ける。
「ベースもボーカルも。せっかくやるなら、両方やってみる」
新葉は思わず大矢に抱きついた。
「すごい!やった!」
「ちょっと、新葉」
「朝陽ちゃん喜ぶよ!」
「下村もね」
二人が笑っていると、源が登校してきた。
「朝陽ちゃん」
新葉が声をかける。
「あ、新葉、おはよう。大矢も」
「おはよう」
大矢が静かに挨拶をする。
「あのさ、私ドラムやりたい。まだ大丈夫かな?」
そう言うと、源が言葉よりも先に新葉に抱きついてきた。
「新葉、大好き!うちのドラマーは新葉だけ!」
「ちょっと、朝陽ちゃん。熱烈すぎるから」
それでも新葉から離れない。
新葉が無理やり源を引きはがした。
「それでさ」
新葉は大矢をちらりと見た。
新葉のサインを感じ取ったように、大矢が話し始めた。
「えっと…、ベースは私がやるじゃん」
「そうだよ。どうした?」
源が不思議な顔をする。
「それでさ…、ボーカルってもう決まった?」
「全然決まってないよ。この土日もずっと考えてたし、知ってる人にメッセージ送っても全然ダメ」
挨拶した時からずっと伏し目がちだった大矢が、初めて源の目を見ながら言った。
「私でどうかな?」
「え?ボーカル?大矢が?」
「ダメかな。ベースだし」
源が大矢に飛びついてきた。
「大矢、大好き!」
さっきの新葉と同じパターンだ。
そのままの体勢で大矢が続ける。
「ベースもやりたいし、ボーカルもやってみる。いいかな?」
源が、今度は自分で大矢から離れて言う。
「全然大丈夫!大矢ならできる気しかしない」
そう言ってもう一度抱きついてきた。
「これでバンドが組めるじゃん!」
大矢が少し照れ臭そうで、でも、少しうれしそうにしている。
新葉は、そんな大矢の表情や心底喜ぶ源を見て、とてもうれしい気持ちになった。
何かが動き始めた。
