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いい作品でも、認識されなければ届かない。創作者に必要な「届ける力」

どうも、久我レイジです。

僕は約3年半かけて、メタバース恋愛ドラマ『クロスロード』を制作しました。

全12話。参加してくれた方は61名。上映会には多くの方が足を運んでくれて、作品を見て泣いてくれた人もいました。

アバターは泣いていない。

でも、作品を見て泣いてくれた人がいた。

そこまで聞けば、それなりに届いた作品に見えるかもしれません。

けれど、メタバースの外へ一歩出れば、今も「メタバースドラマって何ですか?」というところから始まります。

どれだけ時間をかけて作った作品でも、存在を知られなければ見てもらえない。

当たり前の話なのですが、僕は作品を完成させたあとになって、ようやくその厳しさを実感するようになりました。

良い作品を作る力と、その作品を人に届ける力は、似ているようで別のものなのかもしれません。


良い作品なら、いつか見つけてもらえると思っていた

僕は長い間、良い作品を作れば、いつか誰かが見つけてくれると思っていました。

宣伝に時間を使うくらいなら、少しでも作品を良くしたい。SNSで目立とうとするより、黙って作り続ける方が格好いい。

創作をしている人なら、この感覚を少し分かってもらえるのではないでしょうか。

僕にも、かなり強くありました。

もちろん、今でも作品の質が重要だという考えは変わっていません。どれだけ上手に注目を集めても、中身がなければ一度見られて終わります。

ただ、その中身を判断してもらうためには、先に見てもらわなければならない。

作品の良し悪しが問われるのは、再生ボタンを押してもらったあとです。

そこまで辿り着かなければ、評価されることも、批判されることもありません。

誰にも知られていない傑作と、多くの人に認識された未完成の作品があったとき、次の機会を得るのは後者かもしれない。

正直、あまり好きな話ではありません。

良い作品なら自然に広がっていく。そう言えた方が、創作者としては救われます。

でも、毎日のように新しい動画や文章が公開される今、作品を作って置いておくだけでは、存在に気づいてもらうことすら難しい。

作品を作るだけでは足りない。その現実を、僕は少しずつ認めるようになりました。

名前を知られるだけでは、作品には届かない

認知という言葉を使うと、フォロワー数や再生数の話になりがちです。

でも最近、名前を何度も見られることと、何をしている人なのかを理解してもらうことは違うと感じています。

僕が「メタバースで何かをしている人」と思われているだけでは、まだ活動の輪郭は見えていません。

「メタバースドラマを作っている久我レイジ」

そこまで結びついて、ようやく僕が何をしているのかが伝わり始めます。

『クロスロード』も同じです。

「61名で3年半かけて作った、全12話のメタバース恋愛ドラマ」

そう聞いて、少し気になる人がいるかもしれない。

アバターの演技で、本当に人の心は動くのか。

『クロスロード』を見て泣いてくれた人がいたことで、僕はその可能性を信じられるようになりました。

そんな話をきっかけに、再生ボタンを押してくれる人もいると思います。

以前の僕は、制作の裏側を語ることに抵抗がありました。

苦労を話して、作品を良く見せようとしていると思われないか。言い訳のように聞こえないか。

そんなことを気にしていました。

でも、何も語らなければ、作品が生まれた背景も、込めた思いも伝わらない。

今は、その方が少し怖いです。

僕が考える「届ける力」

作品を完成させたとき、僕はどこかで安心していました。

ここまで作ったのだから、あとは公開すれば見てもらえるだろう、と。

実際には、一度「公開しました」と投稿しただけで届く範囲は限られています。

興味を持ってプロフィールを開いても、作品へのリンクが見つからない。どこから見ればいいのか分からない。それだけで離れてしまう人もいます。

僕は制作には必死でしたが、作品までの道を作る意識は、まだ甘かったと思います。

僕が今考えている「届ける力」は、派手な宣伝をすることではありません。

自分が何を作っているのかを伝え、その作品が生まれた背景や制作の裏側を少しずつ言葉にしていく。そして、興味を持ってくれた人が迷わず作品へ辿り着けるようにしておく。

たぶん、そういう地味な積み重ねです。

同じ作品について何度も発信すれば、しつこいと思われるのではないか。僕にも、そんな遠慮がありました。

でも、作品に興味を持つきっかけは、人によって違います。

本編そのものではなく、制作の裏側やキャストとの対談、僕自身の失敗や迷いから作品を知ってくれることもあります。

同じ告知を繰り返すのではなく、まだ見えていなかった作品の一面を少しずつ外へ出していく。

僕は、それが「届ける」ということなのだと思っています。

賞レースへの応募も、作品を届ける行為

先日、僕はnote創作大賞に応募しました。

応募記事を書くために、『クロスロード』を知らない人へ向けて、自分が何を作ってきたのかをもう一度考えました。

作品自体は、何も変わっていません。

それでも、記事を書いたことで『クロスロード』を知るきっかけが一つ増えました。

賞レースへの応募も、結果だけを求めるものではなく、これまで届かなかった場所へ作品を差し出す行為なのかもしれません。

良い作品を作れば、必ず届く。
今の僕には、そう言い切れません。

作品を良くすることに必死になるだけでは、足りないのかもしれない。

そこを認めるのは、正直ちょっと悔しいです。
発信するところまでが創作なのか、まだ僕にも分かりません。

ただ、本気で作った作品について、自分が語ることをやめてしまったら、その作品は誰に見つけてもらえるのだろう。

だから僕は、これからも『クロスロード』について語っていきます。

しつこいと思われるかもしれない。

それでも、黙って埋もれさせるよりはいい。
3年半かけて、本気で作った作品です。

だったら、届くところまで足掻いてみたい。
最近は、そんなことを考えています。


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