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コンテンツIPが難しい理由|なぜオリジナルは届かないのか

どうも、久我レイジです。

完全オリジナルはしんどい。
この言い方自体は、たぶん間違っていません。

ただ、これを聞くたびに、少しだけ引っかかるんですよね。しんどいのは事実なんですが、その重さの中身が、ひとまとめにされすぎている気がするんです。

作るのが大変なのか。
広げるのが難しいのか。

それとも、面白さを判断される前のところで、もう止まってしまうのか。

このあたりが一緒になってしまうと、急に話が雑になる。
最近ずっと、そのことが気になっています。


自分で何かを作って出していると分かるんですが、苦しさって、案外「作ること」だけにあるわけじゃないんですよね。むしろ今は、外に置いた瞬間に別の難しさが立ち上がってくる。

そこまでは自分の中で確かに育っていたはずなのに、出した途端に急に遠くなる。あの感じは、やってみないと少し分かりにくいかもしれません。

今日は、そんな話です。


コンテンツIPとは何か|作品があるだけでは残らない

コンテンツIPという言葉は、ここ数年でかなり強く使われるようになりました。
でも、これを単に「人気作品」として受け取ると、少し違う気がしています。


作品があって、それが人の中に残る。
名前でも、キャラクターでも、世界観でもいいんですが、何かが記憶に引っかかって、そこから次の接点が生まれていく。

別の展開に広がったり、もう一度見たいと思われたり、誰かの会話や発信の中に自然に入り込んでいく。そういう状態まで行って、ようやくIPとしての輪郭が出てくるんじゃないかと思うんです。


ここは、作っている側からするとかなり大きいです。

ただ一本の作品を出して終わりではなく、その先に何が残るのかまで見られやすい。今はそういう時代なんだろうなと思います。

もちろん、良いものを作れば自然にそこへ行ける、というほど簡単でもない。
むしろ今は、その距離が前より長くなっているのかもしれません。


作品が多いというだけではなく、受け手の前を流れていく速度がかなり速い。立ち止まってもらうこと自体のハードルが、以前より上がっている感じがあるんですよね。

だから、コンテンツIPが難しい理由を考えるなら、企画や設定の前に、まず一つ見ないといけないものがある。

それは、受け手の中にどう入っていくのか、ということです。

パブリックドメインが強い理由|既存IPは最初から入口がある

ここで分かりやすいのが、既存IPやパブリックドメインです。

たとえば『竹取物語』のような古典。
あれはもう、説明の起点としてかなり強いですよね。

かぐや姫と聞けば、竹の中から現れて、美しく成長して、どこか地上の人間ではない気配をまとっていて、最後は月へ帰る。

細部まで一致していなくても、多くの人がその輪郭だけは共有している。


だから、現代風に寄せても、SFに振っても、ファンタジーとして再構築しても、受け手は入っていきやすい。最初から足場があるからです。

言い換えると、理解のための下準備がほとんどいらない。

この差はかなり大きいです。
既存IPが強いのは、単純に知名度があるからだけではないんですよね。受け取る側の頭の中に、最初の入口がすでに用意されている。そこが本当に大きい。

これは外から見ている以上に重たいです。
作っている側は本編を見てほしい。でも、見る側はその前の数秒で入るかどうかを決めている。そのズレが、思っている以上に効いてきます。

オリジナル作品が届かない理由|面白さの前で止まってしまう

一方で、完全オリジナルにはその入口がありません。

世界観も知られていないし、人物同士の関係も共有されていない。
何がその作品の核なのかも、受け手の側にはまだ置かれていない。

だから、見る人はまず理解するための負荷を払う必要があるんです。
ここがかなり厄介です。


オリジナル作品が届かない理由というと、どうしても「中身が弱いからでは」と言われがちです。もちろん、それが原因のこともあるでしょう。

でも実際には、そこまで辿り着く前に止まっているケースもかなりある気がしています。


今は、どれだけ時間をかけて作っても、結局は数秒で横に並べられてしまう。

有名IPも、話題作も、ショート動画も、切り抜きも、ほぼ同じ場所に流れてくる。その中で、まだ誰も知らないものを選んでもらうのは簡単ではない。


これは才能の話というより、接触までの距離の話なんだと思います。

少し極端に言えば、オリジナルが届かないのは、面白くないからではなく、面白さを判断する位置まで運べていないからかもしれない。

この感覚は、実際に出してみるとかなり堪えます。本編を見てもらえれば伝わるはずだと思っているのに、そもそもそこまで辿り着かない。そのズレが、静かに重い。

コンテンツIPの作り方の前に必要なこと|接続設計がないと埋もれる

コンテンツIPの作り方という話になると、世界観の作り込みとか、キャラクター設計とか、展開の強さとか、そちらに意識が向きがちです。
それ自体は間違っていません。むしろ大事です。

ただ、その前に考えないといけないものがある。
どこから入ってもらうのか、です。


何を見たら、その作品の魅力に触れられるのか。
どの場面なら、まだ何も知らない人でも少し立ち止まれるのか。

何を入口に置けば、作品の中までたどり着いてもらえるのか。

今は、この部分が作品本体と同じくらい重要になっている気がします。


タイトル、サムネイル、紹介文、最初に切り出す場面。こういうものは昔からありましたが、今はもう飾りではないんですよね。入口そのものになっている。ここが曖昧だと、中身まで届かない。

たぶん今は、作る力と届ける力を分けて考えた方がいい。

その二つが同じものだった時代もあったのかもしれませんが、少なくとも今は、別の技術として見た方が現実に近い気がしています。

オリジナルIPの可能性|完全オリジナルでも届く作品はある

ここで、少し前向きな話も入れておきたいんです。

たとえば、西野亮廣氏の『えんとつ町のプペル』も完全オリジナルIPです。

もちろん、芸能人や作家としての個人の知名度はある。そこは無視できません。


ただ、それと作品そのものを定着させていくことは、やっぱり別なんですよね。

名前が知られていることと、作品がちゃんと人の中に残ることは同じではない。そこにはまた別の時間がかかるし、別の苦労があるはずです。

規模を比べるのは、さすがにおこがましいです。
同じ土俵で語るつもりもありません。


それでも、発信や作品展開を見ていると、完全オリジナルを立ち上げて育てていく大変さは伝わってきます。知名度があるから一気に全部うまくいく、という単純な話ではないんだろうな、と。

そこを見ていると、オリジナルIPの難しさは、規模の差というより、難しさの種類の問題なんじゃないかと思えてきます。


そう考えると、少し救われるところもあるんです。
オリジナルが届きにくいのは、自分だけが下手だからではなく、この時代そのものが持っている構造でもある。

だとしたら、必要なのは諦めることではなくて、どう接点を作るかを考え続けることなのかもしれません。

オリジナルIPを育てる意味|遠いからこそ残るものがある

それでも、完全オリジナルをやる意味はあると思っています。

既存の型を借りれば、入口は作りやすいです。受け手も入りやすいし、理解も速い。その強さは本物です。

ただ、そのぶん比較もされやすい。どこかで、すでに知っているものの延長として見られやすいところもある。

完全オリジナルには、それがない。
だから遠い。ここは事実です。

でも、遠いことは弱さだけではないんですよね。


最初から何かの続きとして見られないぶん、その作品ならではの輪郭を育てやすい。誰かの既視感の中に収まらずに済むというのは、実はかなり大きいと思っています。

それに、オリジナルIPにすることで、展開の自由度も大きく広がります。

誰かの文脈に合わせなくていいぶん、広げ方まで自分たちで決めやすい。この自由さは、実際に作っているとかなり大きいです。

・たとえば、LINEスタンプにする
・音楽として展開する
・映像にする
・グッズにする

こういう広がり方も、オリジナルだからこそやりやすい部分があります。

最初から自分たちの中に世界観の軸があるぶん、作品の外側に広げていく時の自由度が高い。


しかも一度そこに触れてもらえた時、代わりがききにくいんです。


似ているようで違う、ではなく、その作品でしか受け取れないものとして残りやすい。これは既存の強さとは別の価値だと思います。

ここはまだ、自分でも整理しきれていません。
ただ最近は、オリジナルが不利だというより、入口まで自前で作らなければならない、と考えた方がしっくりくるんです。

その分しんどいし、時間もかかる。
でも、その分だけ、届いた後の広がり方は大きい。


そこでしか生まれない輪郭があって、そこから先の展開まで自分たちで決められる。
それはたぶん、オリジナルIPのかなり大きな強みなんじゃないかと思っています。

コンテンツIP戦略で問われるもの|なぜオリジナルは届かないのか

結局のところ、今は「いいものを作ればそのうち伝わる」という感覚だけでは、押し切れない場面が増えています。

そこは、少し認めた方がいい気がしています。

コンテンツIP戦略という言葉を使うと大げさに聞こえるんですが、やっていることの芯は案外シンプルで、何を作るかと同時に、どこから入ってもらうかを考えることなんだと思います。


全部を既存の型に寄せる必要はない。
でも、入口まで閉じてしまうと、そもそも触れてもらう機会そのものが減ってしまう。

このあたりのバランスをどう取るのか。
たぶん今の難しさは、そこに集まっているんでしょうね。

オリジナル作品が届かない理由を、才能やセンスだけで片づけるのは、少し乱暴です。

むしろ今は、届くまでに必要な翻訳が増えている。そう見た方が、今の感触には近い気がします。

作ることそのものより、届くまでの方が難しい。
最近は、そんな少し厄介な時代に入ってきたのかもしれません。

まだ、この話に答えは出し切れていません。
ただ少なくとも、そこを見ないまま走るのは少し危ない。最近はそんなふうに思っています。


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