メタバースだけで活動すると疲弊する理由|解決策はハイブリッド運用だった
どうも、久我レイジです。
メタバースで何かを作っていると、ふと足元が見えなくなる瞬間があります。
楽しくなかったわけじゃない。むしろその場では、かなり手応えがある。人が集まって、空気が生まれて、終わったあとに「よかった」と言ってもらえる。あの時間には、ちゃんと意味があると思うんです。
でも、しばらくしてから別の感覚が残ることがある。
あれは確かに届いた。じゃあ、どこに積み上がったんだろう、と。
この感覚は、メタバースで作品を作ったことがある人なら、少し分かるかもしれません。充実していたはずなのに、なぜか次に向かう輪郭がぼやける。満足と不安が同時に残る感じです。
今日はその話を書いてみます。
メタバースは終わったとか、ダメだとか、そういう話ではありません。むしろ逆で、メタバースは強い。ただ、単体で抱え込ませるには、少し役割が重すぎるんじゃないか。最近はそんなふうに思っています。
メタバースだけで活動すると疲弊する理由|体験は濃いのに、道筋が見えにくい

僕はメタバースドラマ『クロスロード』を作っています。
ドラマを作って、メタバース空間でイベントとして公開したこともありました。多くの人に来てもらって、その場を一緒に共有して、楽しかったと言ってもらえた。
あれは間違いなく価値のある体験でした。空間で同じ時間を過ごすからこそ生まれる熱量は、普通の動画視聴とはやっぱり違うんです。
ただ、そこで終わったあとに思ったんですよね。
これは良かった。けれど、この良さは次にどう繋がるんだろう、と。
もちろん記憶には残るし、人との関係も深まる。でも、数字としての輪郭が薄いと、自分がどこへ進んでいるのかが分からなくなってくる。これは想像以上に大きいです。
創作を続ける時って、気持ちだけでは走り切れないんですよ。
少なくとも僕はそうでした。熱量は大事なんですが、それだけだと方向が見えなくなる。いま前に進んでいるのか、同じ場所を回っているのか、その判別がつかなくなるんです。
そこが、メタバースだけで活動すると疲弊しやすい理由のひとつだと思っています。
メタバース作品とYouTubeの違い|積み上がる資産があるかどうか

一方で、YouTubeはかなり違います。
動画を出せば、再生数が返ってくる。どのくらい見られたかが分かる。
途中で離脱された場所も見えるし、クリックされた割合も見える。もちろん数字がすべてではないし、数値が良ければ名作というわけでもない。でも、少なくとも次の改善点は見えてくるんです。
ここは大きかったです。
メタバースのイベントは、体験としては濃い。
でも、その場限りになりやすい。対してYouTubeのようなプラットフォームは、公開したものが残っていく。後から見つかることもあるし、データが蓄積されるから、作品の磨き方も見えてくる。
つまり、同じ「発表」でも性質が違うんですよね。
メタバースはその瞬間の密度が高い。YouTubeは時間をまたいで積み上がる。この差は、活動を続けるほど効いてきます。
創作をしていると、手応えだけでは判断できない時期があります。むしろ最初ほどそうかもしれない。そこで何が支えになるかというと、後から見返せる資産と、次に活かせるデータだったりします。
ここを持っているかどうかで、疲れ方が変わる。
少し生々しい話ですが、結局そこは無視できないんです。
メタバースの強みとは何か|感情が動く「体験」は代替しにくい

ここで誤解されたくないのは、僕はメタバースの価値を下げたいわけではないということです。
むしろ逆です。
メタバースの本当の強さって、数字では切り取りにくいところにあると思っています。空間を共有することで生まれる空気とか、距離感とか、その場の沈黙まで含めた感情の揺れは、平面のSNSや普通の動画だけでは作りにくい。
これは実際にやってみると分かります。
同じセリフでも、同じ演出でも、空間で体験されると届き方が変わる。観るというより、少し入り込む感覚に近い。だから刺さる時は深く刺さるし、うまくハマると、その作品の記憶が長く残る。
たぶんメタバースは、入口として使うよりも、深く接続する場所として使った方が本来の力が出るんでしょうね。
ここを無理に「集客の場」にもして、「認知の場」にもして、「拡散の場」にもしてしまうと、さすがにしんどくなる。ひとつの媒体に全部やらせようとすると、負荷が偏ります。
その結果、メタバースが悪いのではなく、使い方の問題で消耗していく。
このズレは、意外と大きい気がしています。
メタバース活動はハイブリッドが最強だと思う理由|役割を分けると急に強くなる

最近思うのは、メタバースは単体で完結させるものではなくて、他のプラットフォームと組み合わせた時に一気に強くなるということです。
たとえば、Xには拡散の強さがある。YouTubeには蓄積と発見の強さがある。そしてメタバースには、体験の深さがある。
この3つは競合しているというより、役割が違うんです。
Xで知ってもらう。YouTubeで世界観に触れてもらう。その上でメタバースで体験してもらう。
こうすると、全部の役割をひとつに背負わせなくて済む。認知は認知に向いた場所でやる。残すべきものは残る場所に置く。そして、最後に熱量がもっとも伝わる場所としてメタバースを使う。
この流れの方が、無理がないんですよね。
しかも、作る側にとってもいいことがある。YouTubeのデータを見れば、どのシーンが見られているか、どこで離脱が起きているかが分かる。それを次の演出や構成に反映できる。つまり、プラットフォームが単なる置き場所ではなくて、作品の改善装置にもなる。
ここまでくると、メタバースとYouTubeは別物というより、ひとつの作品を育てるための役割分担に近い気がしてきます。
メタバースとYouTubeを組み合わせる意味|創作が「その場限り」にならない

この違いは、続ける人ほど無視できなくなると思います。
その場の熱狂だけで走れる時期はあるんです。でも長くやるなら、やっぱり蓄積が必要になる。過去の作品が資産として残り、次の作品に活かせる形でデータが返ってくる。それがあると、創作が「消費」で終わりにくくなるんですよね。
僕にとってYouTubeは、ただ動画を置く場所ではありませんでした。
作品を残す場所であり、反応を可視化する場所であり、次を考えるための材料が返ってくる場所だった。だからこそ、メタバースで生まれた体験を、そこで終わらせずに済むようになった気がしています。
この感覚は大きいです。
せっかく濃い体験を作れたのに、それがその瞬間だけのものとして消えていくのは、やっぱりもったいない。ならば、残る場所と組み合わせた方がいい。すごく当たり前の話に見えるんですが、実際にやるとここがかなり効いてきます。
メタバースの未来は「単体」ではなく「構造」にあるのかもしれない

たぶんこれからのメタバースは、単独で成立するかどうかを問うよりも、どの構造の中に置くかで見た方がいいんだと思います。
強いか弱いかではなく、どの役割を持たせるか。
そこが整理されるだけで、見え方がかなり変わる。
メタバースは、全部を背負わせると重い。でも、深い接触を生む場として置いた時には、他にはない強さがある。その代わり、認知や蓄積までひとりで担わせようとすると、作る側も迷いやすいし、疲れやすい。
だから僕は、メタバースをやるならハイブリッドがいいと思っています。
というより、そこまで含めて設計した方が、ようやく本来の良さが出るんじゃないか。最近はそんなふうに感じています。
メタバースだけで戦おうとすると、どこへ向かっているのか分からなくなることがある。でも、他のプラットフォームと繋げると、急に道筋が見え始める。もしこの感覚に少しでも覚えがあるなら、一度「どこで認知を取り、どこで積み上げて、どこで深く届けるのか」を分けて考えてみてもいいかもしれません。
メタバースは、単体で閉じるより、外と繋がった時の方が強い。
たぶんこの話は、まだ途中です。
でも少なくとも僕は、その途中でようやく少しだけ、見えるものが変わってきました。
こちらもおすすめ!
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは作品づくりの活動費に使わせていただきます。応援していただけると、とても励みになります!