作家・編集・読者の三角関係。「伝わる言い換え」と「過剰な忖度」を分ける、商業創作のまっとうな線引き
10年くらい前に、「モズのはやにえ」という言葉をネームで出したら、編集者から「これって何ですか?僕も知らないし、編集部の人間みんな知らなかったので、別の言葉に変えてください」と連絡が来て震えた記憶があります RP
— まずりん🍥 (@muzzlin) May 21, 2026
こういうポストを見た。
「読者に伝わる文章を書きましょう」って、よく言われますよね。
でも、それって「どこまでやればいいの?」って話、あまりされないと思いませんか?
商業の構造を、まずざっくり整理してみます
商業の世界では、作品が読者に届くまでに「ある人」が間に立っています。
編集者です。
ジブリで言うならたぶん鈴木プロデューサーの立場の人。営業さん。
作家と読者の間に立って、橋渡しをする人、といえばイメージしやすいかもしれません。
作家(製造) ⇔ 編集(営業) ⇔ 読者(顧客)
この三角関係、創作に限らず多くの商業分野はこの構造で動いています。
問題は「誰を基準にするか」です
編集者は、読者の代弁者です。
ターゲット読者のレベルを分析し、作家にそのレベルに作品を調整してもらう役割を果たします。
だから読者の読解力が下がれば、必然的に「この言葉、読者にわかるかな?」という基準も下がります。
ただ、ここで少し困ったことが起きます。
「ぼくのしらないことばは、みんなもしらないからつかわないでください」
これが編集のフィルターになってしまうケースがある、という話です。
断っておきますが編集は間違っていません。
読者の代弁者が「わからない」「しらない」ということは、読者に届けても伝わらないだろうという論理帰結なのだから。
実際そうなんでしょうし、だからこそマーケティングをして、ターゲットの傾向と対策を練るわけです。
ただそれに作家はどこまで付き合っていくべきなんでしょうか。
フィルターとしてのみ存在する編集は存在意義として正しいのでしょうか。
「知らない言葉」は悪ではないはずなのですが
というか、すべての言葉には出会う「初回」があるはずで、「その時分からなかった」なら、調べろと思うのよ。
— 春雨 (@hal_came) May 20, 2026
辞書だ事典が家になくて、すぐにわからなかった頃と違って、手元のスマホで大概の言葉はわかるハズ。
ついでに。想像力、言葉や状況から類推する力も、どんどん乏しくなるからね…(;´・ω・)
このポストにあるように、ちょっと思い出してみてほしいのですが、みなさんが「語彙」を増やしてきたのって、どんな場面だったでしょうか?
おそらく、学校の授業だけじゃないですよね。
読んだ本の中に「なんか知らない言葉があって、でも前後の文脈からなんとなく意味が分かった」という体験、あると思います。
辞書を引いたこともあれば、なんとなくの理解で使ってみて、後から「あ、こういう意味だったのか」と気づいたこともあるはずです。
それが、語彙の育ち方です。
昔の出版業界が安定していたのは、そういう「わからなくても、なんとなく読みたい」という読者層がいたからだと私は思っています。
その「わからない体験」こそが、次の世代の語彙を育てていた側面もあったはずです。
そしてこの層がいたから、今ほどターゲッティングに注力していない本でも許されていたと思っています。
「わからないから手に取らない」読者が増えた
でも、今は少し変わってきました。
「わからないから手に取らない」読者が増えています。ネットとか、視覚でわかりやすいメディアが増えたからなのか、真の教養が受験教育にとってかわられた結果なのか知りませんが。
これを「調べろ」「楽すんな」と非難するのは簡単です。
でも、非難したところで市場の現実は一朝一夕には変わらないですよね。商売人としての出版社からしてみれば売り上げが必要です。お客様の窓口に立って揉み手に御用聞きをせざるを得ないのも仕方がないといえます。
だから「読者が手に取りやすい言葉で書く」という方向に引っ張られていく。それ自体は、ビジネスとして理解できる話です。
とはいえ、そこには明確な線引きがある。
「読者に伝わる言い換えを考える」のと、「自分の知らない言葉を全部使わせない」は、まったく別の話だということです。
「育てる編集」と「育てない編集」の違い、ここにあります
— 小林明 dylan-adachi,Inc (@dylanadachi) May 18, 2026
最近の炎上案件ですが、私は育てる編集者とそうでない編集者の違いは、以下のことができるか否かだと思っています。
「この言い回し、このターゲット読者には少し伝わりにくいかもしれません。こういう言い換えはどうでしょう?」
育てる編集とはつまり、知識を持った上で橋を架ける人です。
作家の意図を理解しながら、読者に届く形に変換する。
それが編集者の仕事の本質をきちんと履行できてる人だと思うんです。
一方で育てない編集者とは「自分がわからないから使わないでください」と言って、じゃあどういう風にするのがレベルとして正しいのかを提示せずにその答えを作家に丸投げする人です。自分をフィルターにして、作風の変更を要求するだけでは、作家は育たない(育つ人もいるかもしれませんけどね。全作家には使える手法でないと思います)。
読者への橋渡しとしては借り橋くらいの精度で、結果的に出版業の首を絞めている一つの要因じゃないかな、と思うんですよね。
育てる育てないの違いは、作家に手をかけるかけないじゃなくて、編集者そのものが常に語彙を学んで視野と理解を深めているかという話だと思います。
結果として、視野が広い編集者は労せずして外部委託である作家のポテンシャルを引き出せるでしょうし、そうじゃなければ苦労しないと作家の実力を生かしきれない。そういうことなんじゃないかと。
過剰に「お客様目線」に立つ必要はないんじゃないかな
「読者に寄り添う」ことと、「読者の現在地に全部合わせる」ことは、イコールではないと思います。
それは普通の商店を見れば明らかです。お客様が選ぶ形の商売なら、何か一つに傾くのはむしろ危険であるといえます。
選べる豊富さを用意した上で、売りたい商品をプロモートする。それが普通です。
作家が想定する読者のレベルと、現実の読者のレベルにギャップがあるのは事実です。
でもそのギャップを埋める方法は、「難しい言葉を全部なくす」だけじゃないはずです。
届け方を工夫する。
言い換えを提案する。
文脈で意味が伝わるよう構成を整える。
そういった丁寧な仕事の積み重ねの中にこそ、読者も育ち、作家も育ち、そして出版の文化が次の世代に続いていく可能性があるんじゃないかな、と私は感じています。
「合わせる」だけが、正解じゃない。
「合わせなくても」手に取る人もいる、という現実を忘れないのが重要なんじゃないでしょうか。
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