盃の記憶 ~Every Bottle Has a Story~Vol.3 石鎚(いしづち) :言えなかった二合目
今回は、心残りの一杯について書きたい。
愛媛・西条の石鎚酒造が醸す、石鎚(いしづち)雄町純米である。
東京で、二番目に暮らした町に蕎麦屋があった。
日焼けした紺の暖簾。入口横のちょっぴり色がくすんだ食品サンプル。
引っ越してきた当初は、どこにでもある普通の「町の蕎麦屋」だった。
ある日、その店が長い休みに入った。一か月、二か月と過ぎても、店は閉じたままだった。半年が過ぎ、一年が過ぎた。もう戻らないのかもしれない、と思い始めたころ、やっと再開した。
黄土色の土壁、奥まった入口は黒い木製の扉。
かつての「町の蕎麦屋」は、一年以上の時間をかけて、凛とした見違えるほどモダンな一軒に生まれ変わっていた。
この外観からすると、きっと店内も素敵なはずだ。
ある週末の夜、少し早めに帰宅できた私は、勇気を出してその黒い扉を開けた。
入ってすぐ右側に、無垢の一枚板のカウンター。手元だけを照らす、控えめな灯り。木と紙を主体にした、素朴だけれど品の良い設えだった。
早い時間にもかかわらず店は繁盛していた。私はカウンターのいちばん端の席に案内された。
旬の一品料理に、充実した「そば前」。締めの蕎麦は、二八と十割から選べる。
くつろげる雰囲気。料理は旨く、酒の種類も豊富だった。私はこの店が、すっかり気に入ってしまった。
こんな店に出会うのは難しい。だから、見つけた時の嬉しさといったら例えようもない。
何度でも通いたい。
常連になって、この店を応援したいと思った。
私には、常連になるために編み出した「戦術」がある。
それは「いつも同じメニューを頼むこと」、そして「ダラダラと長居はしないこと」。
理由は単純だ。自分を覚えてもらうため。
毎回同じものを頼む客がいれば、店の人はいつか気づく。長居をしなければ、「飲み方が綺麗な人だ」と印象に残る。
この蕎麦屋でのルーティンは、「その日のおすすめから一品。お冷と一緒に日本酒を一杯。締めに十割蕎麦」と決めた。
はじめのうち、日本酒はメニューの上から順番に頼んでいたのだが、ある日頼んだ酒、石鎚の雄町純米がひどく気に入り、それからはこれに固定した。
「石鎚は燗がおすすめ」とメニューにあったので、燗酒、それもぬる燗で注文した。
湯気の熱気の中に、揮発したアルコールの刺激を感じるような熱燗は苦手なのだが、体温と同じくらいに温められた日本酒は、まるで血液のように、何の抵抗もなくスッと身体に溶け込むのが好みだった。
この酒は、まさにぬる燗で真価を発揮するタイプだと思った。
温めることで、柔らかい米の甘みが一層引き立つ。しかし、その甘さは決してくどくなく、喉元を通るころにはスッと身体の中に溶けて消えていく。だから、すぐに次の盃を進めたくなる。
次は旬の土佐煮を味わってから、その後を追うようにもう一杯。
蕎麦屋独特の上品な鰹出汁の香りを、石鎚がふくよかに包み込む。
筍の春の苦みも加わって、非常に奥行きのある味に変わる。
私は決してルーティンを崩さなかった。
その努力のかいがあって、二か月ほど過ぎると女将さんはどうやら私の顔を覚えてくれたようだった。
親しく言葉を交わすわけではない。特別なやりとりがあったわけでもない。ただ、来れば分かってもらえている。そんな達成感と安心感があった。
すると新しい欲が出てきた。
この店を、一年もの時間をかけて素晴らしい空間に作り替えた人。旬を選び、丁寧な料理を出す人。その人が、なぜ数ある酒の中から石鎚を選び、なぜ燗をすすめるのか。その感性の源に触れてみたいと思ったのだ。
顔を覚えてもらうことは、私にとって入口にすぎなくなった。
その日は、すこぶる体調がよかった。
「今日はもう一合いける」と思った。いや、いきたい、と思った。
「女将さんにも覚えてもらったようだし、今日はもう一合頼もう」
締めの蕎麦を頼む前に、私は女将さんに声をかけるタイミングを見計らっていた。
そのときだった。女将さんがこちらへ近づいてくる。今だ。
よし!
――と、その時……
ことり
と、目の前に蕎麦茶が置かれた。
「十割蕎麦ですね」
女将さんがにっこり微笑んでいた。
私の頼む順番を、女将さんはすっかり覚えていてくれた。
それだけではない。この客は、三品で綺麗に完結させる人——そう、どこかで思ってくれている気がした。
差し出された蕎麦茶を前に、「あ、その前にもう一合」とは、どうしても言えなかった。せっかくの気遣いに、水を差す気がしたのだ。
親しく言葉を交わしたことはない。それでも、確かにお互いを認識している。深くは踏み込まないけれど、敬意だけは、そこにある。
私がずっと求めていた「常連」とは、まさにこういう関係のことだった。
「はい。お願いします」
私も、静かに微笑み返した。
戦術で勝って、戦略に負けるとは、こういうことをいうのだろう
か。
二合目のかわりに蕎麦茶をすすりながら、ふと考えていた。
それでも、今日はこれで十分だと思った。
その後も、何度か店に通った。 けれど不思議なもので、あの日ほど体調の良い夜は、二度と来なかった。二合目は、いつも「また今度」になった。
この店は、逃げない。次に来たときに、ゆっくり頼めばいい。そう思っていた。
ほどなくして、私は三番目の街へ引っ越すことになった。あの蕎麦屋には、それきり行けていない。
石鎚の二合目は、「また今度」のままだ。
ここからは、この酒そのものについて記しておく。

石鎚(いしづち) — 雄町 純米
精米歩合:ー
使用米:備前雄町
日本酒度:ー
内容量:720ml/1800ml
石鎚酒造株式会社 — 食中に活きる酒を、家族の手で
「食中に活きる酒造り」。石鎚酒造が掲げる、この一言に蔵のすべてがある。華やかさを競うのではなく、料理とともにあってこそ活きる酒。純米酒と純米吟醸酒を中心に、三杯目から旨くなる酒をめざす——蔵は、そう理想を語る。
西日本最高峰に名を負う
創業は大正九年(一九二〇年)。愛媛県西条市氷見に蔵を構える。銘柄「石鎚」の名は、西日本最高峰・石鎚山にちなむ。その名にふさわしい、清らかで理想の高い酒を——という思いが、一本一本に込められている。大型の仕込みでは成しえない手作業を本位とし、蔵元の姿勢と情熱を、そのまま酒に映す。それがこの蔵の造りである。
名水の町の恵み
蔵を構える西条市は、石鎚山系の伏流水がそこかしこに湧き出す「名水の町」として知られる。石鎚の仕込み水も、この石鎚山系の水だ。澄んだ香りと、やわらかな口当たり。石鎚の酒がまとうその表情は、この清冽な水があってこそ生まれる。
家族で醸す
平成十一年(一九九九年)、この蔵は杜氏制を廃した。以来、酒造りを担うのは蔵元一家である。蔵人全員が力を合わせ、確実かつ丁寧な仕事を信条に、一意専心、食中に活きる酒造りの理想を追い求める。「石鎚を愛して頂くお客様の為に造る」——これが、蔵に掲げられたスローガンだ。
その蔵が「燗酒に最適」と言い切るのが、雄町純米である。備前雄町と熊本酵母で仕込んだ、力強く芯のある一本だ。
あの蕎麦屋で、私がぬる燗がお気に入りになったのもうなずける。
次にこの酒を飲むときも、やはり燗をつけよう。
そしていつか——あの店を再び訪ね、今度こそ二合目を。
酒蔵情報
社名:石鎚酒造株式会社
所在地:愛媛県西条市氷見丙402-3
創業:1920年(大正9年)
事業内容:日本酒の製造・販売
※会社情報は公式サイトおよび公開情報をもとに作成しています。
