未来を信じすぎないから、君と未来を約束できる | never young beach「明るい未来」考察

never young beach「明るい未来」は、2016年6月8日発売の2ndアルバム『fam fam』に収録された、安部勇磨作詞・作曲の楽曲である。公式ミュージックビデオでは、街のさまざまな場所で過ごす男女の日常と、スーツ姿で演奏するバンドの姿が映し出される。

タイトルだけを見れば、希望に満ちた将来を歌う曲のように思える。ところが、歌詞に社会の展望や人生設計は登場しない。あるのは寒い夜、眠っている恋人、変わっていく街、うまく口にできない言葉、そして少しふざけた二人の時間だ。

この曲における「明るい未来」とは、幸福な出来事が待つ未来ではない。何が起きても、目の前の相手と一緒に暮らし続けようとする態度そのものなのだ。

「未来」は、これから始まるものではない

サビは、壮大な宣言ではなく、次の言葉から始まる。

明るい未来の話
寒い夜でも君と二人で

明るい未来/never young beach

ここで未来は、到達すべき目標として説明されない。その代わりに歌われるのは、寒い夜にも二人で踊ることや、そばにいてほしいという願いである。

つまり、未来の明るさを保証するのは、天候でも環境でも成功でもない。「君と二人で」という関係だけだ。夜の寒さはなくならない。寒さを消すのではなく、その寒さのなかで一緒に踊れることが幸福として描かれる。

ふざけたダンスを踊ろう
いつまでもそばにいれくれよ

明るい未来/never young beach

「美しいダンス」でも「上手なダンス」でもなく、「ふざけた」ダンスであるところが重要だ。そこには誰かに見せるための完成度も、未来に向けた努力もない。二人にしか通じない身振りを共有する、現在の遊びである。

普通、明るい未来は現在より先に置かれる。しかしこの曲では、未来はすでに寒い夜の部屋に始まっている。今夜、二人で笑えること。その小さな反復の先にしか、未来は存在しない。

安部勇磨は発売当時のCINRAのインタビューで、この曲を書く際、「世界を救う」ような大きな話ではなく、友達やバンド、恋人と楽しく毎日を過ごしていれば、街並みが変わっても大丈夫だという歌詞にしたと説明している。また、未来に期待するより、今をきちんとやることが未来につながるとも語っている。

この発言は、歌詞に描かれた未来が楽観的な予言ではないことを示している。「きっと良いことが起きる」と信じる歌ではなく、今そばにいる人と良い時間をつくることで、未来を少しずつ明るくしていく歌なのだ。

言えない人が、行動で愛を伝える

この曲の語り手は、恋人を深く思っている一方で、その気持ちを言葉にするのが得意ではない。

君が眠れば 夜は静かで
いつもごめんね 言えやしないから

明るい未来/never young beach

語り手が口にできないのは、謝罪や愛情の言葉である。いずれも相手に伝えるべき大切な言葉だ。それなのに、眠っている「君」を前にして、語り手は何も言えない。

ここには、愛情と不器用さが同時にある。言葉にできないから気持ちが存在しないのではない。むしろ、気持ちが大きすぎるため、日常の会話としてうまく外へ出せない。そして語り手は、言葉の代わりに相手を抱きしめる。

この構造は、歌そのものにも重なる。本人には直接言えないことが、楽曲のなかでは歌えるからだ。「君」が眠ったあとの静かな夜に、語り手はようやく本音を言葉にする。そう考えると、「明るい未来」は恋人への約束であると同時に、面と向かっては渡せなかった手紙のようにも聴こえる。

明るく弾む演奏が、この不器用さを過度に悲劇的なものにしない。安部はOTOTOYのインタビューで、歌もバンドのグルーヴを担っており、リズム隊との引っかかりから現在の歌い方にたどり着いたと話している。語尾をゆったり引き延ばす歌声は、感情を強く訴えかけるというより、照れながら横へ受け流していくようだ。

だからこの曲では、切実な愛の言葉も重く響きすぎない。深刻になりそうな気持ちを演奏が軽やかに運び、踊れる形に変えている。言えない愛情が、バンドのグルーヴによって身体の動きへ翻訳されているのである。

変わらない二人ではなく、変化のなかを歩く二人

歌詞の中盤では、時間の流れとともに街が変わっていくことが歌われる。建物も景色も季節の色も、同じ姿では残らない。ここで興味深いのは、語り手が変化を止めようとしないことだ。

二人が並んで歩くかぎり、変わってしまった街の風景さえ歌になるという。これは「何も変わらないでほしい」という願いとは異なる。風景を保存するのではなく、変わっていく風景を二人の記憶として受け入れようとしている。

恋人同士の未来を語る歌では、永遠に変わらない愛が理想として掲げられやすい。しかし「明るい未来」が信じているのは、変わらないことではない。変わり続ける世界のなかで、それでも隣を歩くことだ。

fam fam』の公式曲順では、「明るい未来」の直後にアルバム最終曲「お別れの歌」が置かれている。この並びを意図の断定にまで広げることはできないが、少なくともアルバムの終盤では、未来への約束と別れの予感が隣り合っている。岡村詩野による『fam fam』評も、「夢で逢えたら」から「明るい未来」「お別れの歌」へ続く後半に、前半とは異なるセンチメントと決意を読み取っている。

別れがあり得るから、一緒に歩くという選択に意味が生まれる。失われない関係だから安心なのではなく、失われるかもしれない関係を今日も選び直す。その姿勢こそ、この曲の明るさなのだろう。

死を歌っても、曲が暗くならない理由

終盤で、歌詞は突然、二人の死にまで触れる。

あっちでも仲良くやろう
いつまでもそばにいてくれよ

明るい未来/never young beach

ここで「あの世」や「天国」といった荘厳な言葉を使わず、「あっち」と呼ぶ。その距離感が、この曲らしい。死後の世界さえ、少し遠い待ち合わせ場所のように扱われている。

死は、二人の未来を終わらせるものとして登場しない。いつか死んだとしても、その先でまた仲良くしようと語られる。もちろん、本当に死後の再会を確信しているわけではないだろう。それは宗教的な断言ではなく、生きているあいだに交わされる最大限の愛情表現である。

「一生そばにいる」よりも、さらに先まで言ってしまう。しかし、その表現は大げさにならない。「あっちでも仲良く」という日常語に置き換えられることで、永遠の愛は今日の交際の続きとして描かれる。

さらにOTOTOYのインタビューで、安部はこの曲が恋人について書かれたものでありながら、その感覚はメンバー、友達、家族、飼っている犬にまで広がっていくと話している。歌詞の「君」は一人の恋人を指しつつ、大切な誰かを迎え入れられる余白も持っているのだ。

だから「いつまでもそばに」という願いは、相手を束縛する言葉には聞こえない。それは相手の未来を所有する宣言ではなく、どんな場所でもまた一緒に笑いたいという素朴な希望である。

明るい未来とは、明るさをつくり続けること

「明るい未来」は、未来が明るいと無邪気に信じる歌ではない。街は変わり、季節は巡り、言葉はうまく伝わらず、最後には死も訪れる。そのすべてを歌詞は消さずに残している。

それでも二人は、寒い夜に踊り、並んで歩き、言葉の代わりに抱きしめる。未来の明るさは、外から与えられる条件ではなく、そうした小さな行為によって生まれる。

安井達郎が監督したミュージックビデオが映すのも、劇的な成功や結婚式のような「人生の到達点」ではない。Kanocoと安部勇磨の対談記事が表現するように、そこにあるのは幸せそうなカップルの、軽快で少し切ない日常だ。いくつもの場所で笑い合う姿は、未来を一枚の完成図として示すのではなく、断片的な時間の積み重ねとして見せている。

明るい未来とは、いつか到着する明るい場所ではない。今日の夜を誰かと少しだけ明るくし、その営みを明日も続けることだ。

この曲を聴いたあとでは、「未来を信じる」という言葉の意味が少し変わって見える。未来について大きな希望を語れなくてもいい。そばにいてほしい人へ、不器用に手を伸ばすことはできる。その現在の手触りこそが、まだ見えない未来に与えられる、最も確かな明るさなのである。

参考資料

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