同じものについて
切り分けと論証
言語の習得は、誤謬や過剰な一般化を含みながら成立している。これは単なる欠陥ではなく、そうした近似でも伝達や生存には十分に役立つということでもある。
もちろん、ある概念が様々な場面で使われ、訂正にも耐えながら安定して機能していることは、その切り分けの妥当性についていくらかの根拠にはなる。だが、機能的な成功から、対象についての正しさがそのまま導かれるわけではない。言語は対象を粗く切り分けたままでも、必要な範囲では十分に働きうるからだ。
さらに、その根拠の強さは、どのような問いや状況に晒されてきたかに依存する。自然言語が受けてきた訂正圧は、人間の生活の中で立つ問いに偏っている。長く安定して使われてきたという事実だけでは、どの方向から切り分けが試されてきたのかまでは分からない。
粗い切り分けから始めても、その後の論証によって十分に修正できるのか。論理は、すでに与えられた概念や区別のあいだでは正しく働ける。内部に矛盾があればそれを露出させ、そこから新しい区別を要求することもある。けれど、必要な差異がその経路で自動的に現れるとは限らない。
論証が内部の不整合を修正できることと、必要な修正そのものを論証自身が発見できることは別である。局所的に論理が成功し、内部の不整合が取り除かれていくという事実だけでは、その切り分けが対象について十分なものへ近づいていることまでは保証されない。
別の切り分けを採ったとき、これまで一つとして扱われていたものの内部に差異が現れることがある。その差異が対象に由来するとは限らないため、そこから最初の切り分けが誤っていたとは言えない。最初の切り分けを対象そのものの区別として、そのまま通すことはできなくなる。
そこから先では、どの切り分けを採るか、それがどこから来た区別なのかを別に支える必要がある。
議論と対応
議論は、語や前提にずれを残したままでもかなりの範囲で進む。互いの言っていることが分かるという感覚も、そこでは十分に成立している。
だが、議論が進んでいることは、両者が同じ命題について話していることを保証しない。同じ語を使っていても、その語による切り分けが異なっていれば、相手の側では妥当な導出が、こちらには同じ導出として現れないことがある。このとき、どちらの体系にも矛盾はない。それぞれが自分の切り分けの内側で整合しているからだ。
だから、対応のずれは議論が破綻する形では現れないことがある。実際には、互いに自分の側で通る導出を続けたまま残る。内部の整合を確かめても、そこには出てこない。矛盾がないことは、互いの主張が同じものについて整合していることまでは示さない。
対応を試すことはできる。相手の語の使い方からこちらが何かを予測して、その予測が外れる。相手の前提から導けると思った帰結が、相手には出ない。逆に、相手には当然出る帰結がこちらには出ない。こうした場面では、置いていた対応が検査にかかる。そのまま残す理由は弱くなる。衝突がなかったという事実の重みは、対応が実際に試される場面をどれだけ通ったかに依存する。
一方で、衝突が生じた場合にも、それだけで対応のずれが確定するわけではない。この検査は相手の応答を通してしか進まない。こちらはそれを手がかりに対応づけを試すが、その応答自体も相手の用法や前提のもとで生じている。だから外れが生じても、崩れたのがこちらの対応づけなのか、相手の用法や前提のほうなのかまでは決まらない。
対応のずれが露出しても、どの対応を採るべきかはそこから出ない。
外れうるということ
同じことを言うのでも、外れうる形と、そうでない形がある。
何にでも当てはまるような言い方は、外れにくい。多くの可能性を残したままの言明は、否定されにくい代わりに、そこで何が違っているのかをあまり分けてもいない。
もっとも、多くを排除する言明が、そのぶん試されるとは限らない。排除している場所が、すでに試されてきた場所であれば、そこをもう一度通っても新しい差異は現れにくい。どれだけ排除したかより、まだ確かめられていないところを通っているかどうかで、試され方は変わる。同じ言明でも、どのような問いのもとで、誰に対して使われるかによって、通る場所は変わる。
そして、外れたことがそのまま何かを与えるわけでもない。外れた時点で分かるのは、何かが違っていたということまでで、どこで分かれたのかは後から見えてくることもあれば、最後まで見えないこともある。それまで一つとして扱っていたものの内側に違いが現れるのは、どこで分かれたのかが見えてきたときだけになる。
だから、外れやすいところを選べばよいわけではない。外れることだけを狙えば、何が違っていたのかが読まれないまま終わる場所へも行ける。しかも、そこから何が見えてくるかは、外れた時点では決まらない。
外れうる形で言うことには、切り分けを試す働きがある。
退けられるということ
外れが検査になるのは、それによって、それまで置いていたものを以前と同じままにはしておけなくなるからである。
どこで崩れたのかが分からなくても、何も起きなかったことにはできない。前提も導出も観測も、何一つ見直す理由にならないのであれば、退けられるものが何もないまま、外れだけが残ることになる。
その外れが後に届く仕方には、少なくとも二つある。一つは、後から起きたことが、それまで何を前提としてよかったのかに返ってくること。もう一つは、すでに導いたことが、そのあと何を判断してよいのかを狭めることである。
二つは別の向きに働く。
戻ることと進むこと
外れが前提の見直しにつながらなくても、その前提から先の推論は続けられる。前提を固定したまま、そこから何が導けるかを調べることも、内部の矛盾を見つけることもできる。
失われるのは、そこで起きた外れによって、出発点そのものを問い直す働きである。しかも、その欠落は、固定された前提から始める論証の内部だけを見ていても現れない。内部では、推論はそのまま正しく進みうるからだ。
一方、導かれた帰結がその後の判断を狭めない場合には、別のことが起きる。ある帰結を導いておきながら、それと両立しない判断を、その帰結を見直すこともなく置けるようになる。導出は行われていても、その結果が次へ進んでいない。
こちらの欠落は、導出とその後の判断のあいだに現れる。何かを導いたはずなのに、それによって後の判断が何も変わらないからである。
前提を見直せることは、それまで見えていなかった差異が、あとから出発点を変える余地を残す。導かれた帰結に拘束されることは、すでに現れた差異を、その後の判断から切り離さない。
一方は、まだ見えていない差異を見つけるために要る。もう一方は、すでに見えている差異を失わないために要る。いま導けるものに拘束されることは、いまの前提では捉えられていない差異を探すことを妨げない。見直す余地を残すことも、すでに導かれたものを手放す理由にはならない。
