標準語じゃ言えないから(矢田萌華_第4話)
六月中旬。東京はしとしとと冷たい雨が降り続く梅雨の季節を迎えていた。
あの赤提灯の夜を経て、僕と萌華の距離は確実に変わっていた。
キャンパスですれ違えば、周りに友達がいても小さく手を振り返してくれるようになったし、学食で目が合えば、お互いに口元を緩ませて合図を送り合う。
けれど、期末試験が近づくにつれてお互いの講義やサークル活動も忙しくなり、二人きりでゆっくり話す時間はなかなか取れずにいた。
そんなある日の午後。
四限の講義を終えて法学部の校舎を出ると、空は薄暗い鉛色に覆われ、予想以上の本降りになっていた。
(うわ……折りたたみ傘、ロッカーさ置いたままだ……)
屋根のあるエントランスで立ち往生する学生たちに混ざり、僕が小さくため息をついた、その時だった。
萌華「……あ、○○くん!」
聞き慣れた愛らしい声。
水色のレインコートを羽織り、透明なビニール傘を持った萌華が、文学部の棟の方から小走りで駆け寄ってきた。
湿気で少しだけふわりと巻かれた黒髪が、雨に濡れた紫陽花のように瑞々しい。
○○「萌華。ダンスの練習、今日は?」
萌華「うん、テスト前だからオフなんだ。○○くん、傘……持ってねぇの?」
○○「んだよ、家さ忘れできた。少し小降りになるまで待づがと思ってたとこ」
僕が苦笑いすると、萌華はパッと表情を明るくした。
そして、持っていた傘の柄を両手でぎゅっと握り直しながら、少しだけ上目遣いになって言った。
萌華「んじゃ……駅まで、一緒に入るべ?」
○○「え、でも萌華の傘、ちょっと小さくねぇが? 濡れちまうべ」
普通のビニール傘だ。二人で入れば、どう考えても肩が触れ合うどころの騒ぎではない。
すると、萌華はぷくっと小さく唇を尖らせ、一歩踏み出して僕の目の前に傘を差し出した。
萌華「濡れねぇように、くっつけばいいべ? ……それとも、私ど一緒に入るの、嫌だが?」
○○「嫌なわけねぇべ」
萌華「んじゃ、決まり!」
萌華は満足そうに微笑むと、僕の腕に自分の体をすっと滑り込ませてきた。
トン、と柔らかな肩が僕の左腕に密着する。
雨の冷たい空気の中に、萌華から漂う甘くて清潔なシャンプーの香りが一瞬で広がった。
○○「……傘、おらが持つよ」
萌華「うん、頼む」
僕が柄を受け取ると、萌華の手が自然と僕の右腕に絡みついてきた。
ぎゅっ、としっかりと腕を抱きかかえるような形になる。
(ち、近すぎる……! 心臓が持たねぇ……!)
アスファルトを叩く雨音の中、僕たちは並んで駅へと歩き出した。
すれ違う学生たちが、傘の下の僕たちを見て「あ、ダンスサークルの矢田さんだ……隣のやつ誰?」と小声で囁き合っているのが聞こえる。
だが、萌華は周囲の視線なんてまるで気にしていない様子で、僕の腕にぴったりと寄り添っていた。
校門を出て、人通りの少ない路地に入ったところで、萌華が傘の中でぽつりと呟いた。
萌華「……ねえ、○○くん」
○○「ん?」
萌華「私ね、今日……雨降るの、ちょっと楽しみにしてたんだ」
○○「え? 雨、嫌いだって言ってなかったっけ」
萌華「嫌いだよ。髪の毛ボサボサになるし、靴も濡れるし」
萌華は小さく笑いながら、僕の腕を抱きしめる力を少しだけ強めた。
萌華「でも……雨降ったら、こうやって一つの傘で、○○くんの隣さ居られるがもしれねぇって思ったから」
ドクン、と僕の心臓が大きく跳ねた。
傘を打つ雨粒の音よりも、自分の鼓動のほうがうるさいくらいだ。
○○「……萌華」
萌華「あの居酒屋の日からさ、ずっと考えてたの。私、やっぱり○○くんのことばっかり気になっちゃって……」
萌華は足を止め、傘の下で僕の顔をじっと見上げてきた。
その瞳は、雨露を含んだ花びらのように潤んでいて、どこまでも澄み切っている。
嘘も小細工もない、剥き出しの純度100%の想い。
萌華「バドミントンの女の子と話してたら嫌だし、他の誰かに優しくしてるところも見たくねぇ。……私、どんどん欲張りになって、○○くんを独り占めしたぐなってるの」
ぎゅっと、僕の腕にしがみつく萌華。
その頬は、梅雨の冷気とは裏腹に、林檎のように真っ赤に染まっていた。
萌華「重いよね……まだ付き合ってもいねぇのに、こんなごどばっかり言って。でも……私、好きになったら止められねぇの。……ねえ、私のこと、嫌いにならねぇでね?」
泣きそうな声で、すがりつくように見つめてくる萌華。
重いどころか、愛おしくて、抱きしめてしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。
こんなにも真っ直ぐに、全身全霊で自分を求めてくれる女の子を、どうして手放すことなんてできるだろう。
○○「嫌いになるわけねぇべ」
僕は空いている左手を伸ばし、萌華の冷たくなった頬にそっと触れた。
萌華がびくっと肩を跳ねさせ、それから吸い寄せられるように僕の手のひらに頬をすり寄せてくる。
○○「おらだって……ずっと、萌華のことしか見でねぇよ」
雨の帳(とばり)に包まれた傘の下。
世界に二人きりしかいないような静寂の中で、二人の視線が絡み合い、互いの吐息が触れ合いそうなほど距離が近づいた――その時だった。
男子部員「――あれ!? 萌華じゃん! なにしてんのこんなとこで!」
背後から、大声が響いた。
ダンスサークルの男子部員が数人、大きな傘を差して通りかかったのだ。
萌華「っ……!」
萌華は弾かれたように僕から飛び退き、真っ赤になった顔を両手で覆ってしまった。
男子部員「え、矢田さん、相合傘!? まじで!? 相手誰!?」
冷やかす男子部員たちに、萌華は顔を真っ赤にしたまま、すっと姿勢を正して――氷点下の視線で男子たちを一瞥した。
萌華「……関係ないでしょ。あっち行って」
男子部員「ひっ……す、すみません……!」
秋田美人の絶対零度の睨みに恐れをなした男子たちが、そそくさと逃げ去っていく。
残された傘の下で、萌華は再び両手で顔を覆い、しゃがみこんでしまった。
萌華「うわああああ……! 見られた……! タイミング最悪すぎるべ……!」
○○「あはは……まあ、サークルの人たちだすけな」
萌華「笑い事じゃねぇよぉ……! せっかくいい雰囲気だったのに……!」
指の隙間から、涙目で僕を睨み上げてくる萌華。
その頬は夕焼けのように赤く染まり、唇を可愛らしく尖らせていた。
雨上がりの空に、雲の切れ間から薄っすらと光が差し込み始めていた。
梅雨の終わりの足音とともに、二人の想いは、もう後戻りできない場所へと進んでいた。
