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本日、異常なし。 第十八話 七

第十八話 七

登場人物

 藤枝 寧々(ふじえだ ねね)  犬のトリミングサロンに勤める。凛の先輩。

 佐藤 凛(さとう りん)  同じサロン。二十四歳。夜は別の店に出ている。

 樋口(ひぐち)  整備工場をやっている。藤枝の父の代からの付き合い。


 七月。

 シャッターは半分だけ上がっている。中の蛍光灯は三本のうち二本が点いていて、残りの一本は端が黒い。

 リフトの上にセブンが載っている。フレームを持ち上げている爪の錆に、油が乗っている。

 「寧々ちゃん、ウエス、そっちの箱な」

 事務所の戸が開いて、樋口が出てくる。手にお茶のペットボトルを二本持っている。片方をリフトの下の台に置いて、もう片方の蓋を開けた。

 「箱、変えたのよ。前の潰れちゃってさ。あんまり詰めると底が抜けるって言ってんのに、あいつら全く」

 脚が動いて、藤枝が下から出てきた。手の甲で額を押さえてから、置いてあるほうのペットボトルを取る。

 「ありがと」

 「傷、見たか」

 「見た」

 樋口はリフトの下に入って、下回りを覗いた。指で一度なぞって、すぐ出てくる。

 「削れてんな。何センチだ、そこ」

 「入口。段差」

 「上げただろ、お前」

 「上げた」

 「上げてこれか」

 藤枝はお茶を一口飲んで、蓋を閉めた。それだけである。

 樋口は事務所へ戻って、また出てくる。今度は封筒を持っている。

 「これ、判子」

 「え」

 「取ってきたから。木曜に行ったついでに。あそこ、午前中は空いてんだよ。午後行くとな、窓口に爺さんが三人並んでるから」

 封筒には車庫証明の控えが入っている。藤枝は中を出して、日付のところを見た。見てから、封筒に戻す。

 「お金」

 「いい」

 「よくない」

 「お前さん、先月も夜中に来てリフト使ったろ? 勝手に電気点けて、勝手に消して。電気代のほうが高えんだぞ」

 「……ありがと」

 「その顔見ちゃなぁ、ま、スタッドレスは、よろしくな」

 奥で音がして、若いのが二人、鞄を提げて出てきた。片方が手を上げる。藤枝も上げた。

 「お先です」

 「戸締まりは」

 「寧々さんが」

 「お前に聞いてんだよ」

 「じゃあ、僕がやります」

 「何時までいるつもりだよ。帰れ」

 二人が出ていって、シャッターの外を自転車が二台通っていく音がした。樋口はペットボトルを台に置いて、事務所の机の上から紙袋を取ってくる。

 「うちのが持たせたから、持ってけ。冷蔵庫のやつじゃないぜ、今日買ったやつ」

 藤枝は袋を受け取って、口を一度開けて中を見た。閉じて、椅子の上に置く。

 「ねえ」

 「あ?」

 「ここ、まだ借りれる? 来月も」

 「だから、そんな顔すんな。あんたの親父さんの頃からそうしてんだから」

 樋口は工具箱の引き出しを一段開けて、閉めた。開け直して、今度はソケットを一つ取る。

 「引っ越したんだって?」

 「先月」

 「そんで、置けんのか。あれ」

 「置ける」

 「幅な。あれ、ぎりぎりだぞ」

 「測った」

 「測ったならいい」

 樋口はソケットを掌の中で一度回した。

 「そこまでして置くかね、普通」

 「置くわよ」

 「親父さんが乗ってたやつだもんな」

 藤枝はリフトのレバーに手をかけた。空気の抜ける音がして、車が下りてくる。タイヤが床に着いて、少し沈んだ。

 樋口はソケットを箱に戻して、事務所の電気を消した。

 「七日、行くんだろ」

 「うん」

 「気をつけろよ、山は」

 樋口が指差す。

 「鼻の頭」

 藤枝はシャッターの内側の鍵を回して、外に出た。鍵は自分の鍵束に付いている。工場の鍵と、家の鍵と、車の鍵が同じ輪に通っていて、下りたシャッターの前で一度だけ鳴った。

 エンジンをかける。アイドリングのあいだ、藤枝はハンドルに手を置いたまま、メーターが動くのを見ている。針が上がって、途中で止まって、また上がった。

 「……手が掛かるわ」

 紙袋は助手席に置いてある。

        *

 天井から下がった札に、資材、と書いてある。

 「ねねねー、これじゃない」

 凛が棚の下の段を指している。ゴムの板が三枚重ねて置いてあって、いちばん上のものに黄色と黒の縞が入っていた。藤枝は端を持って引き出し、床に立てて厚みを見る。

 「もうちょっと薄いのがいいのよ」

 「これ可愛いです」

 「あんた、全然話聞かないわね」

 藤枝は隣の段からもう一枚出して、両方を並べた。しばらく見てから、縞のほうをカートに載せる。凛はもう別の棚を見ていた。

 「ねねね、この虫のやつ、うちにもあります」

 「あ、そう」

 「あー、サボテン可愛い」

 「やめときな、枯らすよ」

 「サボテンですよ」

 「知ってる」

 レジで藤枝が財布を出して、凛は自動ドアの前に立って外を見ている。

 「なんか並んでますよ」

 「なにが」

 「あそこの、角の」

 外に出ると、歩道の端に沿って列ができていた。傘を持っている人が何人か混じっている。凛は列の先頭のほうまで首を伸ばして、それから戻ってきた。

 「わたし、駅前のパフェのほうが好きです」

 「並ばないの、あそこ」

 「並ばないです」

 藤枝はゴムの板を後ろに積んで、運転席の側へ回った。凛は助手席のドアの前で待っている。藤枝が中から開けた。

 「ねねね、運転してるとこ初めて見ました」

 「そう」

 「なんかちゃんとしてますね」

 「ちゃんとって何よ」

 「わかんないですけど」

 藤枝はミラーを一度触って、そのままにした。車が動き出す。

        *

 喫茶店は駅前の商店街の途中にあって、入口の脇に食品サンプルのケースが出ている。窓が広く取ってあって、外の光が奥の席まで入っていた。凛が先に入って、その奥に座った。

 「ねねね、何にします」

 「あんたと同じでいい」

 「じゃあパフェ二つで」

 「それ、決めてたでしょ」

 「決まってました」

 水の入ったコップが二つ置かれる。凛はストローの袋を横に寄せて、テーブルの端に立てた。

 パフェが二つ運ばれてきた。背の高いグラスで、クリームの上にイチゴが一粒ずつ載っている。長いスプーンが二本、氷の入れ物と一緒に置かれた。

 凛は自分のほうのイチゴを先に取って、口に入れた。藤枝はスプーンを抜いて、上のクリームを少しだけ掬う。

 「ねねね、免許いつ取ったんですか」

 「十八」

 「早いですね」

 「そう?」

 「わたし、まだ持ってないです」

 「取れば」

 「お金かかるじゃないですか」

 凛はスプーンの先で氷を一つ沈めた。

 「ねねねって、なんでも自分でやりますよね」

 「まあ、そうね」

 「爪も自分でやってるって言ってましたし」

 「あれは、ついでよ」

 「わたし、ついでで自分の爪やったことないです」

 藤枝は自分の指先を見た。見てから、スプーンを持ち直す。

 「そういやさ」

 「はい」

 「駐車場、二万なの」

 「え」

 「毎月」

 凛はメニューを立てたまま、藤枝のほうを見た。

 「家賃、二万下がったって」

 「そうよ」

 「じゃあ変わんないじゃないですか」

 「あんた何言ってんのよ。車が置けるじゃない」

 「そうですけど」

 藤枝はストローを回した。

 「まあ、通勤は電車だけどね」

 「え」

 イチゴを一粒取る。

 「プライスレスなのよ」

 夕日が、グラスに反射している。

        *

 昼の予約が一件飛んで、店の中が空いた。凛はシャンプー台の縁に腰を乗せて、ゼリーの口を吸っている。藤枝はカウンターで携帯を持ったまま、親指を止めていた。

 「ねえ」

 「はい」

 「駐車場の入口にさ、段差があんのよ」

 「はい」

 「あのゴムの板、そこに置いてんの。入れるときに」

 「はい」

 「入れたら片付けてたんだけどね。毎日出すから、そのまんまなのよ、今」

 「いいじゃないですか」

 「よくないでしょ。あそこ、うちのとこじゃないんだから」

 凛はゼリーの袋を指で押し上げた。

 「わたし、控え室のサンダル置きっぱなしですよ」

 「知ってるわよ」

 「二年くらい置いてます」

 「二年」

 「誰にも何も言われてないです」

 「……あれは、共用のとこだからでしょ」

 「そうですけど」

 「うちのは外よ。人が通るとこ」

 「聞いたら、だめって言われますよ」

 藤枝は携帯を持ち直した。

 「そりゃ、だめって言われたらどけるけどさ」

 「だめって言われたら、置けなくなるじゃないですか」

 藤枝は画面を消して、携帯をカウンターに伏せて置いた。

 「あんた、怒られたことないでしょ」

 「あります」

 「誰に」

 「ねねねに」

 凛は袋を丸めて、ゴミ箱に投げた。
 袋が跳ねて、脇に落ちた。

 次の犬が入って、出ていった。

 電話が繋がるまでのあいだ、藤枝はエプロンの紐を結び直していた。

 「あ、お世話になります。二〇三の藤枝です。鍵の件で」

 相手が先に喋っている。藤枝は「はい」を二回言って、伝票の裏紙を一枚引き寄せた。

 「契約番号ですか。ちょっと待ってくださいね」

 ペンを取る。

 「はい。……はい。もう一回いいですか。二の、四の……はい」

 書き取って、読み返す。

 「鍵、スペアの分ですよね。……はい、来週で大丈夫です。火曜。午前中でしたら」

 紙の端に書いて、丸で囲んだ。

 「はい。じゃあ、よろしくお願いします」

 携帯を置いて、紙を二つに折る。折ってから、もう一度開いて見た。

 「あれ」

 「なんですか」

 「なんか、あたし言おうと思ってたのよ」

 「なんの電話だったんですか」

 「……忘れた」

 「あー」

 藤枝は紙をポケットに入れて、ドライヤーのコードを解いた。

 「まぁ、いっか」

        *

 店を出ると、まだ明るかった。藤枝は紙袋を提げている。横に、山の絵が刷ってあった。凛は鞄の紐を肩に掛け直した。

 「山、寒かったわ」

 「七月ですよ」

 「七月でも寒いのよ、上は」

 「へえ」

 「上着借りたもの、知らない人に」

 「返したんですか」

 「あたしを何だと思ってるの」

 凛は電柱の脇の立て看板を避けて、藤枝の後ろに回った。

 「その人と喋ってたんですか」

 「そう。ずーっと喋られてた」

 「なんの話ですか」

 「息子の話」

 「息子さん、来てたんですか」

 「来てない」

 「じゃあなんで」

 「寂しいのよ、きっと」

 藤枝は爪の先を見つめた。

 「へー」

 「ボランティアよ」

 「借りたのに」

 「借りたのに」

 藤枝は紙袋を反対の手に持ち替えた。

 「あんたのせいよ」

 「なんでですか」

 「あたしのせいじゃないもの」

 「ええ」

 「肩、焼けたわ。ここ」

 「日焼け止め、塗らないからですよ」

 「塗ったわよ、朝」

 「朝」

 横断歩道の手前で、信号が点滅している。

 「車、出したの昨日」

 「そうなんですね」

 「うん」

 「ねねね、今日の最後の子、爪切らせてくれました」

 「へえ」

 「一本だけ嫌がりました」

 「どこ」

 「後ろの、右です」

 「一本くらい、ちゃちゃーってやんなさいよ」

 「やったら怒られます」

 信号が青になる。

 「車は?って聞かれたのよ」

 藤枝が歩き出す。凛がついて行く。

 「なんて答えたんですか」

 「壊れたって言っといた」

 「なるほどです」

 藤枝は袋を持ち直して、駅のほうへ歩いていった。

 凛は反対側の道へ入る。コンビニの前を過ぎて、四つ目の角を曲がった。

 部屋の電気を点ける。鞄を床に置いて、上着をハンガーに掛けた。

 窓際にサボテンの鉢がある。土の上に白い石が敷いてあって、そのうちの一つが端から落ちていた。凛は石を指で戻した。

 付箋を一枚剥がして、ペンを取る。

  枯らさない

 鉢の前の窓枠に貼った。指で二回押さえる。

 凛は座って、鉢のほうを見ている。

        *

 坂を下りて、セブンが中へ入っていく。エンジンが切れて、少ししてからドアの音がした。

 藤枝が入口まで戻ってくる。ゴムの板が斜めにずれていて、片方の端が浮いていた。両手で持ち上げて、向きを直す。縞が、坂と平行になった。

 踵で二回踏む。板が下で少し沈んで、止まった。

 板の縁のところで、格子が途切れて見えなくなっている。

 藤枝は鍵束を鳴らして、階段のほうへ歩いていった。

──────────

あとがき

次の話:(公開まで少しお待ちください)
連載マガジン
https://note.com/kurokiri_kaoru/m/md405b3f06ecd

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 X始めました。
@kurokiri_kaoru
なんか色々、呟いたり、ぼやいたり、叫んだりしてます。

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