オウム返し
三つ隣の敷地に住んでいる、六十代半ばの一人暮らしの女性がいる。町内会の清掃やゴミ出しの際、顔を合わせれば軽く会釈をする程度の関係だった。
異変に気付いたのは去年の秋、回覧板を届けに行った時だった。
玄関のインターホンを押すと、すぐに引き戸が細く開き、薄暗い土間の奥から彼女が顔を覗かせた。 「こんにちは。回覧板、お持ちしました」 私がそう差し出すと、彼女は受け取ろうとせず、私の口元をじっと見つめてから、少し掠れた声で言った。 「こんにちは。回覧板、お持ちしました」
イントネーションも、語尾のわずかな濁りも、私が発した声と全く同じだった。機械で録音した音声をそのまま再生したような響きに一瞬戸惑ったが、耳が遠くなった高齢者が確認のために言葉を復唱することは珍しくないと思い直し、書類を彼女の手に握らせてその場を離れた。
だが、それ以来、彼女の「真似」の範囲が徐々に広がっていった。
近所のスーパーの惣菜コーナーで出くわした時だった。私がパック入りの肉じゃがを手に取って値札を確認し、棚に戻すと、真後ろに立っていた彼女が、全く同じ手つきで同じパックを取り上げ、同じ角度で傾けてから棚に戻した。視線は品物ではなく、私の手首に固定されていた。
レジで私が小銭入れから百円玉を三枚出した時も、彼女は隣のサッカー台から身を乗り出し、何もない空中で指先を全く同じリズムで三度、擦り合わせていた。
冬に入り、風邪を引いて軽い咳が続いた時期があった。夜、自宅の台所の換気扇の下で煙草を吸いながら、喉に絡んだ痰を吐き出そうと小さく咳払いをした。
タン、と乾いた音が落ちた直後、開け放してあった小窓のすぐ外――隣家との境界にあるブロック塀の陰から、全く同じ高さ、同じ湿り気の咳払いが返ってきた。
呼吸を止め、耳を澄ませる。
数秒後、私が思わず鼻をすすると、塀の向こうでも、全く同じ長さで鼻をすする音がした。
先週の火曜日の夕方、仕事を終えて帰宅した時のことだ。
玄関の前まで来ると、彼女が我が家の郵便ポストの前に立ち、中を覗き込んでいた。 「あの、何か用ですか」 思わず強めの口調で背中に声をかけた。
彼女はゆっくりとこちらへ振り返った。
手には何も持っていない。だが、彼女の口元が奇妙に引き攣れ、私の顔を見据えながら、微かに口唇を震わせた。
「あの、何か用ですか」
私の声だった。彼女の喉から、私の声が、寸分違わぬ質感と声量で滑り出てきた。
驚いて言葉を失っていると、彼女は私の胸元に視線を落とし、すう、と深く息を吸い込んだ。
その直後、私の肋骨の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
心臓が不規則にト、ト、トンと三度跳ねた。
彼女は胸を押さえ、私の顔を見つめたまま、喉の奥でカチ、カチ、カチと三度、硬い音を鳴らして笑った。
